四百六十八時限目 酸素は転じて毒となる
食事を終えて店を出ると、ひんやりした空気が気持ちよく感じた。ラーメンで温まった体をほどよく冷ましてくれる冬の風が、こんなにも心地よかったなんて。
先程食べた味噌ラーメンの味を反芻するように噛み締めながら、佐竹君の隣を歩く。
佐竹君の頬は薄らと紅く染まり、額には汗が滲んでいる。私がハンカチを差し出すと、「ああ、サンキュ」と受け取って、額に浮かぶ汗を拭った。
「洗濯して返すわ」
「いいよ別に、百均のだし」
「そうか? なら遠慮なく貰っておくわ」
私があげたハンカチをコートの左ポケットに押し込んで引き抜いた手は、なにかを掴んでいるかのように握っている。
「優梨、手」
「私は犬じゃありません」
冗談っぽくプイとそっぽを向いた私の様子を、面白がって、軽快に笑う佐竹君は、ちょっと意地悪に感じた。
──反抗期の犬のように、腕にガブッと噛み付いてやろうかしらん?
などと脳内で企てていると、
「お前を犬みたいに飼い馴らせていたら苦労はねえよ。どっちかといえば猫だな。気まぐれなところなんてそっくりだろ? マジで」
やけに真面目腐った態度で言うものだから反応に困ってしまって、ニャー、と私は思った。
「とまあ、そんなことはさて置き、いいから受け取れって」
シャーッ、と警戒しつつも手を差し出すと、佐竹君の手からぽろと一粒の飴が落ちてきた。飴の小袋にはマスカットの絵柄が添えられている。
「口直しにいいだろ?」
そういって、自分は茶色い小袋をそのままパクッと。歯で刮ぐようにして飴玉を口の中へ。
「行儀悪いよ?」
「うっせ」
佐竹君が舐めているのは、小袋の色から推測して、ココアかチョコレート味の飴だろう。ココアすき過ぎない? チョコだいすきな私が言えた義理でもないけど。というか、味噌ラーメンの後にココア味の飴ってどうなの? 食べ合わせ的に。
私たちは飴玉を口の中で転がしながら、池袋のメインストリートとも呼べるサンシャイニング通りを、なんの目的もなく歩いている。
目的もないまま池袋を散策するのは新鮮だった。池袋にいく用事といえば、いつも厄介事が付き物で、街の様子を楽しむ余裕なんかない場合が殆ど。帰りの電車なんてもっと最悪だ。
心から都会を楽しむ機会といえば、流星のバイト先であるメイド喫茶〈らぶらどぉる〉くらいなものだ。エリスに扮する流星を揶揄って、オムライスにケチャップで『死ね♡』って書かれて、ローレンスさんには逆に揶揄われて……。
だからなのか、佐竹君と適当にぶらぶらするのは楽しくも心地よく、きっと、私が普通の高校生であったなら、慣れ過ぎて退屈な高校生活も充実した日々になったのかもしれない。
毎日のようにカラオケ屋に入り浸ったり、駅前のコンビニの前でお菓子やカップ麺を食べたりなんてこともしていたのだろう。休みの日には河原でBBQをして、だれかが悪ノリで持参したお酒を飲んだりもしたりして、SNSに写真をアップして炎上する──あれ? どうして後半はそうなるの? 未成年飲酒は法律で禁止されてるし、当然の炎上ではあるけれど。
「佐竹君はお酒を飲んだことある?」
「なんだよ、藪から棒に」
「ウェーイ! って騒いでる人たちって、悪ノリすることあるじゃん」
「偏見が割と普通にエグいな。──まあ、ないことはない」
でもな、と続ける。
「アルコールってのは人生に酔えなくなった大人が飲む物で、常に酔っ払ったような日々を大ぴらにできる子どもが、興味本位で飲むもんじゃねえなって、俺は思う。それに、俺たち未成年はコーラとエナドリがあれば充分に酔えるからな。ガチで」
佐竹君の言葉に、私は感心させられてしまった。
「いや、なんとか言えって……恥ずかしいだろ」
「佐竹君のくせにいいことを言うなあって、感心してたんだよ」
「本当かあ? ──ま、これが俺の持論だ」
佐竹君は頭が悪くて語彙力がない、と冗談混じりに揶揄してきたけれど、一年前と比べれば遥かに成長している。あの頃よりも背が伸びてるとか、そういった物理的な意味じゃなくて、精神的に。
巣立ちを見守る親鳥のような心境になった。微妙な距離を保ち続けている私だからこそ気がつけた変化だ。常日頃から佐竹君と絡んでいる宇治原君や佐竹軍団にはわからない、些細な意識の移り変わり。それを隣で目の当たりにして感慨深くもあり、また一歩遠くなった寂しさも感じる。
友だちとは距離だ。心が近いか遠いか、その違い。
じゃあ、恋人ってなんだろう。
心の距離が友だちの定義だとしたら、恋人の定義ってなに?
告白して、了承を得て、恋人同士になるのが儀式だとすると、カップルの誕生は黒魔術かなにかによって受理されるのだろうか。結婚は紙切れ一枚で成立するけれど、恋人の仲はそれよりも複雑に思える。
──ああ、だからか。
恋人になるという試練を経たからこそ、結婚はそのご褒美として紙切れ一枚で受理されるとすれば納得できる。
恋人、と私は思った。
バッグの中で自然に絡まるイヤホンのコードくらい複雑で、御し難い関係でいて、いつの間にか解れたシャツの糸のように切れやすい縁。
大切だと思えば思うほど、傷つけたり、壊してしまいそうになる天邪鬼な思考を肯定してしまうのも『恋愛だからゆえに』とするならば、友だちという気楽な距離で接しているほうがいいのかもしれない。
──そんなの、ただの言い訳だ。
相手を受け入れることの難しさを、私は理解している。
受け入れることを恐れて、拒絶されることから逃げて、周囲にいる人たちは自分よりも優秀だからと知ったような口を利いた私だからこそ、人間関係の難しさを痛感している。
空気でいることを選んだ自分を、否定はしない。
だけど、酸素でいるのはもうやめだ。
結果、だれかの毒になって苦しませてしまうことになっても──。
【修正報告】
・報告無し。