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女装男子のインビジブルな恋愛事情。  作者: 瀬野 或
二十一章 Invisible,
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四百四十四時限目 冷めたコーヒーを飲みながら


 二杯目のホットコーヒーは半分を待たずに冷えてしまった。アイスコーヒーになったホットコーヒーをなんと呼ぶべきなのかが難儀だ。無論、冷えてしまったからといって珈琲の味が損なわれるほどダンデライオンクオリティは伊達ではないのだ。寧ろ、そこら辺の自販機で販売している缶コーヒーより美味しいまである。比較対象のハードルが低過ぎて比べ物にならなかったのが残念だ。缶コーヒー業界の発展を願うとしよう。


 照史さんは、 前任のマスターから受け継いだ味を大切に守っている。拾ってもらった恩も兼ねて、忘れてしまわぬように、と。


 鳴り続けていた音楽が止まり、急に静寂が訪れた。雨音が訊こえそうなくらいの静けさの中、隣のテーブル席の声がやたらと訊こえてくる。その多くは食事についての愚痴だった。「なんでもいい」と答える割には文句を言う旦那に辟易しているようだ。悩んだら鍋かカレーにしておけば間違いないですよ奥さん。今晩は鱈を使ったキムチ鍋など如何でしょうか。


 そんな心にもないことを考えていると、いつものクリアな音質ではなく、ノイズ混じりの懐かしみある音が、ボツ、と。ぼやけた再生音がスピーカーに引っかかり、ダンディでムーディーな歌声がしっとりと店に馴染んでいく。レコード音源とは、照史さんも粋な計らいをしてくれる。


「ムーンリバー」


 イントロを聴いて曲名を言い当てたのは天野さんでも、ましてや月ノ宮さんでもなく、僕の隣でアイスココアになったホットココアをちびりと飲んだ佐竹だった。タイトルと歌い出しが同じなので、聴き覚えがある者であれば回答も容易いのだが、佐竹の口から〈ムーンリバー〉なんて言葉が出てくるとは思ってもみなかったもので、僕らの視線が佐竹に集まった。


「この曲をご存知なのですか?」


 佐竹のくせに、というなかなか失礼な意味合いが込められてそうな問いだ。天野さんの視線が「意外だわ」と語っている。いやいや、有名な曲だし、多少はね? とする僕の苦笑いに「姉貴の影響でな」と佐竹は返す。琴美さんの影響か。そうかそうか、性癖の影響は受けなくてよかったね。そこだけは本当に影響されなくてよかったと心底思う。


 あんな姉が家にいたら歪んだ趣向になっていてもおかしくない。けれども、あそこまで立派な反面教師もまたいないだろう。琴美さんは佐竹を愚弟と呼んでいるが、佐竹は〈姉貴〉というスタンスを崩さない。仲がいいんだか悪いんだか、不思議な(かん)(けい)だ。


「琴美さんって音楽の趣味が渋いのね」


 ()()は雑食だぞ、と佐竹。


「クラシック、ジャズ、ブルース、ソウル、ファンク、なんでもござれだ」


 どぎついエロスに定評がある琴美さんが美しい旋律に耳を傾けるとは意外である。もっとこう、なんというか、スラッシュメタルとか、ブラックメタルとか、もっと変態的ならばノイズ音楽とか、そういう趣味がありそうなものだ。然し、キャンバスに描くとどういうわけだか結構保守的で基本に忠実なスタイルである。奇抜なタッチはそこまで見られない。


 だからこそ、琴美さんの作品には凄みが出てくるのだろう。


 基礎ができているということは、地盤が固いということだ。強度の高い地盤ならば、どんな家でも建てられる。琴美さんは自由な発想を素直に筆に乗せて、歌うように絵を描いているのかもしれない。知らないけど。


 そういった美術価値がある絵を完成させるために、心を清らかに保つ手段として音楽を聴いているのだとしたらわからなくもない。アスリートだって演技をする前は音楽を聴いて気持ちを作るというし。


 普段から心を清らかにしてくれていればいいんだけど、悪意に満ち溢れているからなあ、あの人。手遅れだな。うん。音楽で世界平和を歌っても戦争がなくならないように、琴美さんの悪意と変態性は生涯直ることもなさそうだ。こじつけた理由がワールドワイド過ぎるなあ……。


 話題がなくなり静かだった僕らの卓が、音楽の話題によって再び活気を取り戻しつつあった。さすがは喫茶店のマスター。空気を読んだ采配に脱帽である。


 空気を作るとはこうするんだよ、と教授しているような錯覚さえ感じ取れた。


 空気を作るとは、自分の殻を破るのと似ている。


 一歩引いた場所から一歩前に出る難しさは、それを当然にやってきた人間には理解できない苦しさと難しさだ。難易度が高いミッションを与えられた新人ハンターの気持ちといえば、昨今の『一狩りいこうぜ民』はおわかりいただけるだろう。


 外国人に対して「どうしてアナタは日本語を喋れないのですか?」と質問するのと同じで、日本語を話せる日本人は日本語を喋れない外国人の努力と苦労を正しく理解できない。その逆も然り。


 初めから持っている人間と持たざる人間の差は大きい。その差を縮めようとすれば苦痛を強いられるのは当然の理だ。内側から殻に衝撃を与える際に痛むのは拳か、それとも心か。その実、両方痛める可能性だって低くはない。


 臆病風に吹かれて保身に走るのが悪いわけじゃない。然れど、生み出す(=創造する)勇気を手にしたければ、どんな痛みにも負けてはいけないのだ。


 人生は常にハードモードである。ならば、いつまでもスタート地点に立ち留まってゴールを羨望の眼差しで眺めているばかりではいられないよな。待ったところで『難易度を下げますか?』のメッセージウインドウは出てきてくれないのだから。


 照史さんからのメッセージを受け、一を知って十を悟ったように有能ぶっているけれど、偉そうな能書きを連ねただけで現状は待機である。ここまでの流れでも動かないとかどれだけチキンなの僕? 気心知れた仲なのだし、ビシッと話題に乗っかってみようゼ! と、脳裏で闇優志(もうひとりのぼく)が囁いた気がした。


「ところで」


 火を消すように、月ノ宮さんが凛とした声で言った。


「今年のクリスマスはどうしますか?」


 その言葉に眉を動かしたのは、天野さんと佐竹だった。先程までは音楽の話で盛り上がっていたのに、クリスマスの単語が出てきた途端にわざとらしく視線を逸らす。


「クリスマス、どうしますか」


 反応をたしかめるように繰り返したその言葉の矛先は、僕に向けられているようだ。痛いくらいの鋭い視線に顔を背けたくなるけれど、月ノ宮さんは簡単に逃してはくれないだろう。



 

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・報告無し。

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