二十四時限目 それぞれの思惑[月ノ宮楓・前]
横幅の狭い暗澹とした水槽の中を、半透明の海月たちが揺蕩うように泳いでいた。
キノコのような傘の下から、幾重にも垂らした糸のような触手は、触れた者を痺れさせる神経毒を持つ。『刺される』と表現される通り、海月の毒は針で刺したような痛みで、毒性の強い海月に刺されたら命が危ぶまれるけれど、この水槽の中で飼育されている海月はそこまで毒が強くないものらしい。
ふわりふわりと傘を閉じては、また開きながら水中を泳ぐ姿は幻想的で神秘的でもあった。
海月といえば、エチゼンクラゲが日本海で大量発生し、漁猟に大打撃を与えたニュースがありましたね……と、過去に起きた事件をふっと思い出した。
昨今では、そのようなニュースはめっきり訊かなくなったけれど、あの海月たちはどこへいったのでしょう? なんて疑問を思いながら、さり気なくを装って天野さんのお隣に立った。
海月は海の嫌われ者であるにも関わらず、一枚ガラスを隔てれば嫌悪感を感じない。寧ろ、肯定的な意見を多々訊くのですが、『オオグソクムシ』だけは寛容できない。
ダンゴムシのような見た目で、全長は約15cmほどあり、エビやカニ同様の甲殻類ながら多脚種でもある。噂によると食べられるらしく、味はカニやエビを濃くしたような味で、カニミソにも近いらしいのですが……虫ですよ? 虫を食べるくらいならば、カニやエビを選びますね。あのグロテスクな見た目を『可愛い』と称するならば、ご実家の裏庭の石をひっくり返すと似たような虫が沢山いると思うのでおすすめしておきます。
と、心の中でオオグソクムシを一頻り非難したところで、オオグソクムシフィーバーはとっくの昔に過ぎ去ってしまっているのですからどうでもいいですね。
隣にいる天野さんは、じいっと海月の姿を目で追っていた。
『海月を見にいきましょう』
そう誘った私ではあるけれども、二人きりになる口実が欲しかっただけであって、特別に海月が好きというわけではない。
佐竹さんたちと距離を置けるならば〈アロワナ〉でもよかったのですが──生きた化石と呼ばれる熱帯魚で、こちらのほうが興味深い──それではどうにも雰囲気に欠ける気がして、咄嗟に思いついたのが海月だった。
でも、天野さんはお気に召さなかったらしく、水槽の中を漂う数匹の海月を退屈そうに眺めるだけで、これと言った感想も呟いてはくれないでいた。
心ここに在らず、ですか……。
水槽に憂いを帯びた目を向け続ける天野さんの横顔は、うっとりしてしまうほどに﨟たけていて、思わず息を呑んでしまった。
この横顔を『天野さん秘蔵写真アルバム三巻』に収めたいといえども、ここまで接近していてはカメラアプリのシャッター音でバレてしまう。
泣く泣く断念して、カメラアプリをタスクキルした私は、その代わりにとばかりに、見たままの感想を天野さんに向けてぽつりと呟いた。
「綺麗です」
綺麗なんて言葉では言い尽くせないほど目もあやな輪郭に、私の唇はいつ届くのでしょうか。
「そうね」
目の端で私を捉え、所在なさそうに鶯のような声で囁いてから、再び視線を海月に移す。
私の気持ちは、天野さんに届かない。
届かないのは気持ちだけでなく、物理的な距離でさえも、一向に縮められないでいた。
あと数センチ横に移動すれば、天野さんの右手に届くというのに、その一歩を踏み出す勇気が出ない。
それでも、なけなしの勇気を振り絞って隣に立ったのだから、残された時間の中にお洋服くらいは触れるチャンスが訪れるはず! と、自分を鼓舞した。
「海月って骨が無いのよね」
天野さんが水面に石を投じるかのようにして、海月の特徴を挙げた。
突然そんな話を振られた私は、一瞬だけ思考が停止してしまった。然し、これはもしや比喩なのでは? と、停止した頭を再起動させて、考えを巡らせてみる。
骨が無い状態とは、つまり骨抜きということであり、体の脱力を指す。例文を出すと、『天野さんの美貌に骨抜きになった』ですが、もしや、天野さんの仰る言葉は、私に対してのプロポーズといっても過言ではない、はずもないですね。はあ……。
「ええ。海月は無脊椎生物ですから」
自分で言っておいてなんですが、とてもつまらない回答ですね……。
「骨が無いって、どんな感じなのかしら」
そうですね……。
「水に浮かんでいるときが、それに近い感覚ではないでしょうか」
宙に浮く感覚がそれに近いらしく、宇宙飛行士の訓練でも水中訓練が行われていたりする。でも、答えとしては平凡以下。こういう場面で気の利いた冗談の一つでも飛ばせたら天野さんを笑顔にできるのに。
お兄様のような才能に恵まれているわけでもなく、佐竹さんのようにコミュニケーション能力が秀でているわけでもない。
そんな私が唯一、他者より優位に立てるのが〈財力〉であり、それを駆使した結果、ここまで辿り着くことができた……のですが、お金なんてものは所詮ハリボテと同じで、金の切れ目が縁の切れ目とばかりに、使えなくなれば離れていく。
だからこそ、お金は力なのです。
お金が全てではないにしろ、それで片付いてしまう場合がほとんどで、なればこそ、目的を果たす手段の一つとして、財力を行使するのは過誤ではないと私は思う。思うけれども、愛する女性を射止められずに、なにが力か……。
暗黙しながら右顧左眄していると、天野さんが気遣うように咳払いした。
「落ち着かない?」
「え? ええ、まあ……」
天野さんの隣で落ち着けるほど、私のメンタルは強くないですよ!? アナタのことを考えるだけでふわふわした気持ちになるのみならず、ふわふわし過ぎて足の踏み場を忘れてしまいそうになるのです!
と、本音を言えたらどんなに楽でしょうか……。
海月が宙を彷徨うように泳ぐのは、自分の居場所がわからないかもしれない……なんて、知ったようなことは口の中だけに留めた。
海月をまじまじと見るのは、今日が初めてかもしれない。
言われてみればたしかに、可愛いフォルムをしてなくもないですね、と思いながら凝視していたら、「ねえ、月ノ宮さん」と天使のような声が訊こえた。
恐る恐る振り返った先には、天野さんが殊更に眉を顰めている姿がある。
この表情を、私は知っている。
苦手な教科の問題を解こうとするときに、天野さんはシャーペンのノック部分を顎に当てながらする表情と同じです! とか、天野さんの表情当てクイズをしても状況は看破できない。
「なんでしょうか……」
蚊の鳴くような声で言うと、天野さんはふうっと息を吐き出して、意を決するように伏せた瞳を私に向けた。
「私のこと、いつもチラチラ見てるわよね」
「そ、そんなことないですよ? かかか勘違いでは……?」
単刀直入に切り出されて、酷く吃ってしまった。
そんな、まさか……バレていたなんて!?
目が合ったときは微笑んで誤魔化してはいたけれど、やはり、誤魔化しきれてはいないようですね……。
【修正報告】
・2019年12月12日……誤字報告箇所の修正。
・2021年6月24日……誤字報告箇所の修正。
報告ありがとうございます!