三百八十八時限目 これはデートではない 1/3
純喫茶から退店する。駅の階段を下り、街に出た。赤い煉瓦造りの地面が横断歩道の手前まで続いている。車両進入禁止を示す白いポールの下部に、通行人の荷物や足が何度もぶつかった形跡があった。赤茶色の錆びがところどころに浮いているわけだが、歩道に生えた雑草に目をむける者がいないのと同様に、だれも気に留めない様子だった。
信号が青に変わり、歩き出す人々。ワイシャツ姿のサラリーマン、セカンドバッグを抱えた半グレ風の強面な男性、高級ブランドを全身に纏った中年女性とすれ違い、横断歩道を渡り終える。背後で通行を促す電子音が、カッコウの鳴き声のリズムで暢気に流れていた。
目的地も決めずにぶらり歩いていると、どこからともなく重低音が薄っすらと耳に届いてくる。付近にあるパチンコ店の音が外に漏れ出しているようだ。分厚そうな白いコンクリート壁を貫通するほどの音量で流す意味とは? と一考してみた僕だが、遊戯台の騒々しさをカバーするためくらいしか、見当がつかなかった。
パチンコ店付近に漂う煙草の臭いにしかめ面をしている月ノ宮さんは、表情だけ不満を漏らし、黙って隣を歩いている。──そういえば。
月ノ宮邸で給仕をしている大河さんも喫煙者だったな、と思い出した。
大河さんが車内で喫煙しないのは、煙草の臭いがつくのを嫌がっているのだろう……と思っていたが、然し、本当は、煙草の臭いが苦手なお嬢様のためを想って──だったりして。
──私は、お嬢様のことが嫌いです。
とか言っていたくせに、大河さんもなかなかツンデレだ。
案外、月ノ宮さんと大河さんは似ているかもしれない。物事をはっきりと言うし、不器用なところなんてそっくりだ。無愛想な姉と要領がいい妹。そんな関係だったとしたら、底無しの腹黒さを持つ月ノ宮さんの意地っ張りな性格も、少しは緩和されていただろうか……それはさすがにないか。
「どうかされましたか?」
僕がひとりでに思い出し苦笑いしているのを怪しく、または気色悪いと思って声をかけたのだろう。睨めるような視線が左の顳顬辺りに突き刺さって痛いくらいだ。
「ううん、なんでもない」
頭を振って答える。
──本当に?
──ほんと。
──本当に本当ですか?
──じっちゃんの名にかけて、ほんと。
こんなやりとりを何度か繰り返して、ようやく尋問をやめてくれた。
「そんなことよりも、これからどうするの?」
顧みて他を言う。
「一度ホテルを出て、自宅に戻ろうと考えています」
ああ、そっちの話か──。
これから何処にいこうか、という話をしたつもりだったのだけれど……まあいい、それはそれで興味あるし。と、会話を続けることにした。
「気ままな一人暮らし体験も今日でおしまいだね」
「そうですね」
と、少し寂しげに微笑む。
「短い期間でしたが、一人暮らしは悪くない経験でした」
兄と離れ離れになって生活をする以前は、兄妹仲筒まじく生活していたことだろう。その生活が終わっても、自宅には、高津さんや大河さん、他にも給仕として働く人たちがいる。そこには、『娘に寂しい想いをさせないため』という親の配慮もあるのかもしれないけれど、子どもには〈孤独になれる環境〉も必要なのだ。孤独に慣れる、ではない。
孤独になれる環境が欲しい、そう思うときもある。願わずとも叶う環境に身を置く僕と違い、月ノ宮さんは常にだれかが家のなかで動いている環境だ。いくら月ノ宮さんの部屋の壁が分厚かろうとも、人間の気配がするだけで気が休まらない、ということもある。
特に今回の場合、自室に引きこもって考えようにも、給仕のだれかが月ノ宮さんの気持ちを慮るあまり、部屋のドアをノックするだろう。そうなれば、自分も他人に心配されるわけにはいかない、と気を張らなければならない。
だが、ホテルは違う。一般的なホテルであれば、従業員が理由もなくドアベルを鳴らすことはない。勿論、孤独になるためにホテルの一室を借りる、というのはとても贅沢な思考だが、月ノ宮さんにはそうする以外に選択肢がなかったんだと思う。
僕だったらネカフェを選ぶが、月ノ宮さんはどこまでもお嬢様なのである。ブルがジョワっとするくらいお嬢様なのだ。ネカフェで一夜を過ごすなんてこと、絶対にしない。するはずがない。死んでもしないと断言できる。セレブの意地、というやつだ。僕には一般人思考が染み付いているもので、鼻セレブを使うだけでセレブリティに浸れるまである。──セレブは鼻セレブなんて使わなそうだが。
こうして月ノ宮さんと並んで街を歩いていると、月ノ宮楓という少女が如何に美少女であるかを理解できる。そのなかには腰まで長い黒髪を物珍しく見る者もいるけれど、やはり、気品を感じさせるオーラや細い体、小顔で整った顔に注がれている。隣を歩く僕としては、悪目立ちするパチンコ店の幟旗に身を潜めたい想いだ。
「さきほどからまるで、借りてきた猫のように静かですね」
「そうなっているのはだれのせいでしょうかね」
優梨になって隣を歩いていたときは感じなかった気配に、段々と嫌気がさしてきた。彼らはきっと胸中で、「あんなヒョロガリチビが彼氏なのか?」とか思っていたり、「割とワンチャンあるかも」と、ナンパする機会を見計らっていたりするのだろう。──身分を弁えるべきだ。
「そんなに目立っていますか?」
「並んで歩くのを憚りたくなるくらいには」
「なるほど。──それでは」
体に衝撃が走り、足がもつれそうになった。が、月ノ宮さんの体が松葉杖の役目を果たして体制を整える。──どういうつもりだ。
僕の腕に絡まる両腕は、ほのかに熱を帯びている。体温か、それとも真夏の太陽のせいか……どちらでもいいが、兎にも角にも暑苦しい。女性特有の柔らかさをあまり感じられないのは、ちょびっと残念ではあるが。そこに関していうと、天野さんが異常なのかもしれない。──なにが、とは言わないけれど。
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by 瀬野 或