三百八十七時限目 月ノ宮楓の選択 1/3
天野さんを乗せたバスが、駅に向かっていく。どんどん小さくなっていく車体を見つめていたら、りん、と涼しげな風鈴の音。何処で鳴ったのだろうか。周囲を見渡す。この町にある住宅のほとんどは、築年数が古い民家ばかりだ。
そのうちの一軒の縁側に飾られているガラス製の風鈴が揺れていた。丹色の金魚が一匹、白群で表した風、または波のなかを泳ぐ姿が描かれている。あれはなかなか高級そうな風鈴だが、季節を感じるための趣向品にお金をかけるのも悪くないかもしれない、と再び鳴った音色に耳を傾けつつ思った。
きっとそれも幸せに繋がるものだろう。たかが風鈴ひとつ、されど風鈴ひとつ。暑い夏を涼しく過ごす知恵のなかでも、風鈴という道具は特殊かもしれない。打ち水は、玄関先の地面を冷やして涼しい風を家に送るためだが、風鈴は音のみである。鈴が鳴ったからといって気温が下がるわけではない。しかし、音色で涼しさを表現するという発想は、とても素敵じゃないか。
あれだけ騒がしかった蝉の鳴き声は、八月の終わりに近づくにつれて減っていった。蝉が成長してからの生は短い。いまもなお、みいんみいんと鳴く蝉たちは子孫を残すために必死だ。
彼らに幸せはあるのだろうか。幸福感を知らずに短い生涯を終えるのだろうか。──なにを持って〈幸せ〉と呼ぶのだろうか。
目的地も決めずぶらぶらと、道路より一段高い歩道を歩く。等間隔で植えられた公孫樹は、枝をばっさり切られている。まだ昼前の時間ではあるが、車の通行は少ない。右を見て、左を見て、車がいなくなったタイミングを見計らい、向こう側に小走りで移動した。
昨日は天野さんのことばかり考えてしまった。仕方ないといえばその通りだけれど、プラネタリウムの日も近づいている。そろそろ策を講じなければ。──どうにかしないと。
月ノ宮さんの幸せは、何処に向かうべきだろうか。父親の夢を叶えるために自分を犠牲にするなんて方法は正しくない、とも言いきれないのが難しいところだ。それに、僕の発言が月ノ宮さんの未来に影響を与えてしまうとも考えると、いつも以上に慎重にならなければいけないのだが、慎重になり過ぎてもいけない。蝶のように舞い蜂のように刺す、なんて方法よりも、大胆に、「私は大砲よ」と豪快な一撃を与えたほうが効果が高かったりするもので──そうか、いまの僕に足りないのは相手を圧倒するだけの火力だ、と気がついた。
火力、それ即ち攻撃力であり、武器である。僕には、月ノ宮さんを言い包める──酷い言い回しだ──だけの材料が足りない。料理を作るにしたって食材がなければ意味がない。どんなに策を練ったとしても行動に移さなければ机上の空論だ。
気温が上がってきた。背中に汗をかいている。夏の季節が終わっても、夏の暑さは暫く続くと予想される。だけど、どうあっても夏は終わるのだ。九月になれば秋になり、そして冬が訪れる。移りゆく季節のなかに、忘れ物はしたくない──。
* * *
「こんなところに呼び出して……どういった御用件でしょう? プラネタリウムは明日ですが」
「急に呼び出して悪いとは思ってるよ。だから、この店の支払いは僕が持つから……でも」
「わかっています。だからこそ、コーヒー一杯だけしか頼んでないではありませんか」
月ノ宮さんと話をするために選んだ場所は、天野さんと雨宿りをした無愛想なマスターがいるあの純喫茶。二度とくることはないと思っていたけれど、ダンデライオンは使えない。池袋にあるカフェで話す内容でもない。消去法で、この店に辿り着いたわけだ。着座した席はこの前と同じ。向かい側に座っているのが月ノ宮さんになっただけ……月ノ宮さんはこういう店がよく似合う。着ている洋服も相俟って、まるで昭和の映画のワンシーンを見ているようだ。
「気を遣わせて申し訳なく思うよ」
最近手痛い失費があったもので、というのは噯にも出さずに頭だけを下げる。今年の夏は、少々お金を使い過ぎた。預金は残っているが、翌月に回すことも考えると無理はできない。明日のプラネタリウムも相当お金がかかることだし。
「ブレンドでございます」
マスターが運んできたコーヒーを一口飲んだ月ノ宮さんは、目を丸くした。
「お兄様が淹れるコーヒーはマイルドな口当たりですが、こちらは酸味が深いですね」
月ノ宮さんの口には合ったようだ。続けて二口目を飲み、カップを皿に置く。一つ一つの動作が洗礼されているように見えるのは、月ノ宮家の厳しいマナー教育があってこそなのだろう。恐れ入る。
一呼吸置いて、
「この店を私に紹介するために呼んだ──というわけでもないのでしょう?」
表情は硬い。警戒しているわけではなさそうだが、僕の出方を窺っているようにも見受けられた。
「それで済んだらいいんだけどね」
と、つい苦笑い。
「優志さん」
睨まれてしまった。
「わかってるよ。時は金なり、でしょ」
「時間を浪費することは、多大きな損害をもたらします」
どこの会社の経営理念だ。
まあ、どこも似たようなものだろうけれど。
こほん、と咳払いをする。
「この店に月ノ宮さんを呼び出した理由は他でもなく、あの件についてなんだけど」
「その件ですか……もういいというのに」
訊きたくない、と言いたげにそっぽを向く月ノ宮さん。視線の先にあるのは駅の出口。その更に奥を見ているようだ。この駅の周辺には、目立ったお店はない。〈出玉解放宣言!〉と赤文字で書かれた黒い幟旗を立てるパチンコ店が、悪目立ちしているのみだ。数日前に天野さんといったケーキ屋は、パチンコ店よりも更に進んだ先。商店街の入口は、ここからは見えない。
「いや、言い方が悪かったかな。僕が訊きたいのは、その件について月ノ宮さんがどう考えるか、なんだ」
そっぽを見ていた顔が、僕に向けられた。
【修正報告】
・報告無し。