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女装男子のインビジブルな恋愛事情。  作者: 瀬野 或
一十九章 He looked envious at the sky,
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三百八十五時限目 ケーキはどこの腹に収まるのか 1/3


 昼下がりの空には鬱々とした雲が全体に広がり、地面に影をさした。これはいよいよかな、と思いながら待ち合わせした駅前で空を仰いでいると、ぽつりと天から糸雨が降り始めた。道行く人々は(こう)(もり)傘を広げたり、駅に入って雨宿りをしたり。鞄から折り畳み傘を取り出す人もいた。天気予報を侮っていた者たちは、瞬く間に(しぶ)()き雨に変貌した雨模様を見つめ、途方に暮れるのみだった。


 とんでもない日になってしまった。この雨量では手に持つ傘も無力だろう。行き場をなくした人々が、段々と駅前に溜まり始めている。このままでは、天野さんと合流するのが難しくなりそうだ。


 豪雨に愚痴を零す人々の隙間を縫うようにして集団から抜けると、不安そうな表情で周囲を窺う天野さんの姿があった。紅色のオフショルトップスに白のワイドパンツを穿き、足元はスニーカーを採用することによって全体のバランスを巧く調和している。白のショルダーバッグの金具は金メッキ塗装で、ほどよいアクセントになっていた。が、僕の視線はショルダーバッグの紐によって隔たれた、差し詰めアルメニア最高峰と呼ばれるアラガツ山宜しくな胸部に目が向いてしまう。


 アラガツ山なんて比喩は、日本で普通に暮らす人には出てこないだろう。然し、昨晩寝る前に見た動画サイトの旅チャンネルで知識を得ていた僕だった。いや本当にごめんなさい、と胸中で謝罪。


 未だに僕の姿を捉えられていない様子なので、片手を振って存在をアピールした。すると、天野さんの目がようやく僕を視認した。その数メートル後ろで僕に手を振り返し、「あ」みたいに手を引っ込めた人の気まずそうな顔を、僕は見なかったことにした。


「凄い雨だね」


「こんなことになるとわかってたら呼び出さなかったのに」 


 ごめんね、と天野さんは頭を下げた。


「いやいや、しょうがないよ」


 こればかりは致し方ないことだ。ざあざあと雨の音が構内に響く。この勢いだと、当分は止みそうにない。


 天野さんからのメッセージは『ケーキバイキング』のお誘いだったのだが、アスファルトを激しく叩く雨の中を移動するのは困難を極める。しかも、駅から歩いて十五分かかる距離だ。晴れていればどうということもないけれど、この雨を移動すれば無事では済まないだろう。半ずぶ濡れ状態で店に入るのも、さすがに気が引ける。


 急激に湿度が増したのは、雨のせいだけではない。足止めを余儀なくされて人口密度が増しているからだ。「このまま立ち話もなんだしどこか入る?」と訊ねると、天野さんは「そうね」と頷いた。





 腰を下ろして落ち着ける場所を探し求めて歩き、年季の入った純喫茶を見つけた。ガラスケースの中に昭和を感じさせる食品サンプルが飾られている。天候のせいか余計に薄暗い店内に、客の影はない。一瞬、「やっぱりやめようか」と提案しようと思った僕だったが、ここまでの道のりに手頃な店がなかったのを思い出した。あったにはあったのだが、雨宿り客で溢れ返っていてとても寛げる雰囲気ではなかった。──まあ、雨が止むまでの辛抱だ。


 店のドアを開けると、カウベルがかろんと鳴った。奥で新聞を広げていた初老の男性は新聞を折り畳み、しわの深い顔で「いらっしゃいませ」と渋い声をあげて立ち上がる。


「お二人様でしょうか」


 はい、と僕が答えた。


「こちらへ」


 店主に案内されるがまま座る。木製の重たいソファチェアは、背凭れに寄りかかると深く沈む。これはなかなか心地がいい。うたた寝をするにはもってこいな椅子だ。と、一人で楽しんでいた僕だったが、天野さんが正面で困惑気味にしているのを目にして、浅く座り直した。


「無愛想なマスターね」


 店主に訊かれぬよう身を乗り出し、ひそひそと天野さんが言う。気持ちのよい接客を心掛ける従来のカフェと違い、この店は言わば骨董品のような店だ。だから僕は、店主の接遇に対してどうとも思わなかったのだが、天野さんは違和感を覚えたらしい。僕は、「まあね」とだけ答えた。


 店主にホットコーヒーを注文して、僕は改めて店内を見渡した。煉瓦作りの壁紙に、コピー用紙に直筆のお品書きがセロハンテープで貼り付けてある。何年も替えていないようで、セロハンテープは黄色に変色していた。週刊誌が並べられたキューブボックスも、角の塗装が剥げ落ちている。テーブルには正座占いが置いてある。煙草も吸えるようで、ガラス製の重たい灰皿が各テーブルにあった。分煙はされていない。


 こういった〈ザ・喫茶店〉に入るのは初めてだ。ダンデライオンとはまた違う雰囲気がこの店にはある。天野さんはお気に召していない様子だけれど、僕はどこかテンションが上がっていくのを感じていた。悪くない、悪くないぞ。これは珈琲の味も期待できる。どんどんと上がっていくハードルに、店主はどう応えるのか。


 暫くすると、店主がブレンドを運んできた。


「ブレンドでございます」


 僕と天野さんの前に、白いカップに入ったブレンドが置かれた。手に取って匂いを嗅ぐ。香りに酸味があるのはキリマンジャロだっただろうか。一口飲むと強い苦味が口の中に広がり、後からがつんとした酸味が鼻を抜ける。野性味が溢れる味わいだ。香りを楽しみつつ、ちびちび味わいながら飲むのがキリマンジャロの飲み方だろう。──多分。知らないけど。


 天野さんはこの野性味溢れる味が苦手のようで、ハの字に眉を寄せている。僕も酸味が強い珈琲は苦手だけれど、この店の店主は淹れ方が巧いのか苦を感じなかった。


 かちゃり、と受け皿が鳴って、


「ねえ優志君。最近、楓の様子が変なんだけど、なにか知らない?」


 おっとこれは……どう答えればいいだろう。


「どう様子がおかしいの?」


 返答に困った僕は、素知らぬ顔で訊ね返した。あの件を口外してはいけない。質問に質問で返すのは行儀がいいとは言ないのだが、そうする他に道がなかった。


「いつもならね。私がメッセージを送ると数秒で返信がくるんだけど」


 なにそれ、超怖い。天野さんからのメッセージだけ着信音を変更しているのだろか。その音が鳴ったら全てのことを差し置いてでも返信している姿を想像すると、ぞっとしない。執念だ。なにがなんでも返信するという執念を感じてやまない。


「ここ三日、メッセージの返信がないのよ」


 そうか、と僕は思った。そうなるほどに、月ノ宮さんは窮地に立たされているようだ。


「天野さんが送った内容は?」


「うん。──アメリカのお土産、楽しみにしてるって」


 いまの月ノ宮さんに、アメリカの話題は厳しいものがある。天野さんは月ノ宮さんの現状を知らないし、しょうがないことではあるのだが。急遽帰国したと月ノ宮さんは言っていたので、お土産を用意する暇などなかっただろう。心苦しくて返信ができない、といったところか。



 

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