三百七十八時限目 あの男
起きて早々に、二度寝をしたい、と僕は思った。時間設定で稼働しているエアコンが、室内を適温にしている。
寝不足の原因は、夜更けまで考えごとをしていたからである。衝撃的な事実を月ノ宮さんに訊かされた僕は、『どうにかしたい』と思った。だけど、僕ができることなんて、高が知れている。結局のところ、感情に任せた大言壮語でしかなかったのだ。
寝起きはそこまで悪くないと思うけれど、今日はいつも以上にすっきりしない目覚めとなった。後頭部の奥の方で鈍い鈍痛がしている気がして、頭痛薬を飲もうと一階に降りた。
父さんと母さんは、今日も朝から晩まで仕事らしい。微かに残る珈琲の香り。物静かな室内に、時計の針の音だけが響いている。締め切った部屋に篭った熱が、体に纏わり付いて鬱陶しかった。常備薬のケースから頭痛薬を取り出し、水を求めて台所へ移動した。
薬を水で流し込むと、ちょっとだけ鈍痛が治まった気になった。が、実際はまだ痛い。プラシーボ効果に期待して、治ったような気になってみたけれど、痛いものは痛かった。──それで治ったら苦労しないだろう。
アイスコーヒーが飲みたい、と冷蔵庫を開けた。作り置きにしているアイスコーヒーの容器を手に取ってみたはいいが、頭痛に珈琲というのは如何なものだろうか。あまり刺激物を摂取しないほうが無難だと思い返し、その隣にあった麦茶のポットと入れ替えて、コップに麦茶を注いだ。
鶴賀家の常備茶は、春夏秋冬変わらず麦茶である。だから、『夏と言えばキンキンに冷えた麦茶だよね』と言われても、いまいちぴんとこない。それだったらまだ、『夏と言えばキンキンに冷えたサイダーだよね』と言われたほうがしっくりくる。
どうして麦茶が選ばれているかというと、これは母さんの意向だったりする。なんでも、「麦茶にはミネラルが豊富だから」ということらしい。この発言は『健康に気を配っている』と受け取れるけれど、本当に気を使っているならば、麦茶ではなくほうじ茶がベストだ、と僕は思う……単に母さんが麦茶のほうがすきってだけだろう。つまり、好みの問題。冷蔵庫に入っていたサラダを朝食にして、部屋に戻った。
窓の外は快晴で、絶好の読書日和だ。先程まで痛んでいた頭も、大分よくなってきているし、睡眠時に失っていた水分も補給できた。うん、割とベストコンデションに近いかもしれない。そう判断して本棚から一冊の本を引き抜こうとしたとき、こんなことをしている場合ではない、と本を戻した。忘れていたというよりも、考えても仕方がないから考えるの拒否していたのだろうそれでも、向き合うしかないのだ。
相手は自分よりも遥か高みにいる存在で、僕が出しゃばるのはお門違いも甚だしい。オープニングを経て、母親に叩き起こされた勇者が王様の元へ向かい、そのまま魔王城に乗り込むくらい、僕がやろうとしていることは無謀である。──それでも、どうにかしたい、と思ってしまったばかりは、どうしようもない。
魔王城を攻略するには、道連れにする仲間が必要不可欠。そう思って携帯端末を手に取り、メッセージアプリを開いた。椅子に座して、画面をスクロールする。公式アカウントの隙間に挟まれている旅の仲間候補の面々は、どれも癖が強い人ばかりだ。先ず、中学の同級生だった柴田健と、その彼女、春原凛花は除外っと。
候補に上がったのは、佐竹義信、雨地流星、この二人だった。でも、佐竹は夏休みの課題が佳境を迎えている頃だし、流星だって、メイド喫茶〈らぶらどぉる〉の仕事があるだろう……この二人には一報入れておいたほうがいいのかもしれないけれど、いまはまだそのときじゃない。
「僕の交友関係が少な過ぎる件……」
大人組の佐竹琴美一派もいるにはいるが、あの人たちに相談するのはどうも気が引ける。というか、琴美さんにだけは相談したくない、というのが本音だった。たしかに琴美さんなら、状況が状況だけに、いいアドバイスをしてくれる可能性はある。が、その見返りでとんでもない要求をされることだろう。あの人のことだから、「卑猥な衣装を着て絵のモデルになってくれ」とか言い出すに違いない。それだけは絶対にお断りだ。
となると──。
「照史さん、しかいないよね……」
月ノ宮の家を勘当された、月ノ宮さんのお兄さん。
照史さんだったら、或いは──。
* * *
「──それで、ボクを訪ねてきたってわけか」
事の経緯を説明すると、照史さんは苦笑いを浮かべてそう言った。
「朝からウチに来るなんて、なにかわけありだ、とは思ったけどね」
「月ノ宮さん……楓さんからは、なにも訊かされていないんですか?」
月ノ宮さんは、あの日、ダンデライオンでお茶をしていたのはたしかだ。もしかすると照史さんに相談しにいったのではないか、と僕は睨んでいた。
「いいや、なにも訊かされていない」
照史さんは頭を振った。
「一度店に顔を出したけど、そういう込み入った話はしなかったね」
となると、月ノ宮さんは照史さんに相談しようとして踏み留まったことになるのか。月ノ宮さん自身、照史さんに相談するべき案件ではない、というようなことを言っていたし、それで──。
「楓は、ボクが月ノ宮の事情に関わることを避けたかったんじゃないかな」
照史さんは目線を手元に移し、ちょっと寂しそうな顔をした。
「ボクはもう、月ノ宮の人間ではないから」
磨いているコップに、罪悪感が滲んでいるように見えた。
いつもとは違う席、カウンター席で話していると、照史さんとの距離が近いもので、見たくないものも見えてしまう気がした。それは、後悔とか、諦めとか。照史さんが絶対に見せたくないもので、僕はどこを見ていいのか迷い、いつもの席の壁に飾ってある絵画に目を向けるばかりだった。
「優志君は、もしかして」
「はい。照史さんならアドバイスをくれるんじゃないかと」
「なるほど。──キミは本当に人がいい」
「お節介だということは、自覚してるつもりです」
お節介だとしても、このまま指を咥えているだけってのは、寝覚めが悪いのだ。助けることができなくても、取っ掛かりになる緒さえ掴めれば、後はハッタリやブラフを掛けて……。
「いくら優志君が有能で、口が達者だとしても、あの男にだけは勝てないよ」
照史さんは悔しそうに、唇をぎゅっと噛み締めた。
【備考】
読んで頂きまして誠にありがとうございます。もし差し支えなければ[ブックマーク][★付け]に御協力して頂けると、今後の活動の糧になりますので、どうぞよろしくお願いします。
by 瀬野 或
【修正報告】
・報告無し。