三百六十五時限目 謎の作家と文芸マーケット[続]
「お待たせいたしましたー。ランチセットでーす」
注文した品を運んできた店員に会話を遮られた。
女性店員は黒のエプロンを着用し、胸元に名札を付けている。名前は〈あいざわ〉というらしい。油性マジックを使って平仮名で書いてあった。女性らしい丸文字に、どこかあざとさが垣間見える。名札の右下にはアニメのキャラクターシールが貼られていたが、そのキャラクターが登場する作品を、僕は知らない。
妙に可愛いくデフォルメされたキャラクターシールを見て、そう言えばカフェから少し離れた場所にアニメ関連のショップがあったな、と思い出した。
リュックに缶バッヂを大量に付けている女子とも何度かすれ違い、「なんで同じキャラの缶バッヂを大量に付けているんだ」という疑問を解消するべく、道中その理由を一考した。然し、いくら熟考しても、キャラへの愛情を示している、くらいの答えしか導き出せなかった。他人の趣味趣向を万人が理解できるはずがない。
名札にデフォルメしたキャラクターシールを貼っているのは、客とコミュニケーションを取りやすくするための一環だろうけど、全員が全員名札にシールを貼っているわけではないようだ。もしかするとあいざわ店員がアニメ好きなだけ、という線もあるが。「アニメが好きなんですか」なんて訊ねるほど興味があるわけでもない僕は、直ぐに目の前に置かれた料理へと目を向けた。
「他にご注文はございますか?」
あいざわ店員の声は、愛想のいい接客用のトーンだった。母さんが電話に出るときに出すような、他所向きの声だ。表情は朗らかではあるものの、営業スマイルであることは明らかである。
水瀬先輩はなにも言わず、僕をちらり見た。その視線が「なにか追加注文する?」と訊ねるようだった。僕が頭を振ると頷いて、あいざわ店員に「大丈夫です」と告げる。『大丈夫』という言葉は屡否定に使われるけれど、本来の意味はどうだっただろうか……なんて細かいことを気にしてしまうのは、僕の悪い癖かもな。
あいざわ店員は終始笑顔のまま「かしこまりました、ごゆっくりどうぞ」と頭を下げて、慣れた足取りで離れていった。
「それじゃあ、いただきます」
手を合わせて言う。
「いただきます」
僕もそれに倣った。
白い皿の上には、僕の拳大の紙包みが乗せてある。白の包装紙には店名が橙色で散りばめらていた。包み紙を破かないよう丁寧に解いて握り部分にし、大口を開けてがぶりと齧りついた。
こんがり焼き目が付いたベーグルに、アボガドをペースト状にした具が挟んである。出来立てで、表面が温かい。パリッと焼き上がったベーグルは、噛み締めるともちもちだ。クリームチーズとアボガドの相性も抜群。ダンデライオンで食べているサーモンサンドも美味しいけれど、こちらもまたよし。ベーグルを食べる習慣がないせいか、とても新鮮な気持ちになった。
ふと水瀬先輩を見る。
水瀬先輩の一口はとても小さく、まるでリスが林檎を齧ったかのようだ。リスが林檎を食べるのかは兎も角として、僕の身内の中では圧倒的に小さい。それに、もぐもぐとよく噛んでから飲み込んでいる。三〇回噛むのがいいとされているが、それを実際にしている人を初めて見た。
「じろじろ見られると、食べにくい……かな」
困ったような声。
「そういうつもりはなかったんですけど、すみません」
凝視してしまったことを謝罪して、再びベーグルに齧りついた。
程なくして完食した僕とは違い、水瀬先輩は残り半分のベーグルと睨めっこしている。女性が食べきれないほど大きくはないと思うが、三〇回噛んでいたら満腹中枢も刺激されるだろう。ダイエットしているときはよく噛んで食べろとか、情報番組で言っていたようないないような。もっとも、水瀬先輩にダイエットは不要だろう。女性目線から物を申すと『ややぽっちゃり』だが、男性視点では『丁度いい体系』だ。
体型の識別はとても難しい。「ダイエットしなきゃ」と言う女性に限って痩せているもので、女性の美の探究心は体重と比例する、と言えなくもない。
手を止めている水瀬先輩に、
「お腹いっぱいですか?」
訊ねると、頭を振った。
「ううん。そうじゃなくて、もう半分食べちゃったなって」
気恥ずかしそうに「えへへ」と笑って、はむっと齧りついた。
一応、完食はするようだ。もし「もうお腹いっぱい」と言われたら、僕は水瀬先輩を蔑んでいたかもしれない。健康体にも拘らず、コンビニおにぎりひとつ完食できないような女子とはどうしても馬が合わないのだ。どうにも『おにぎりひとつ食べきれないわたしかわいい』アピールをしているようで、鼻持ちならない。それに、一緒に食事をするならば元気よくもりもりと食べてくれたほうが楽しいじゃないか。
その分、僕の周囲にいる女子は、食事に変なプライドを持たない人ばかりで安心できる。
「僕のことは気にせずに、ゆっくり食べてください」
「うん。ありがと」
僕は食器を隅に寄せて、紙ナプキンでテーブルの表面を軽く拭いた。
水瀬先輩が可愛らしくベーグルを食べている姿を鑑賞しながら待つよりもいいだろうと思い、購入した〈コーヒーカップと午後のカケラ〉をビニール袋から取り出してテーブルに置く。見た目からしてハロルド本の半分くらいの厚みだし、四時間もあれば読み終えるはず。
「その表紙、綺麗だよね」
ようやっと三分の二を食べ終えた水瀬先輩が、本の表紙を見て懐かしそうに言った。
真っ白い部屋の高所に設置された小窓から差す薄黄蘗の光は薄明光線のように伸びて、中央に置かれたテーブルと、一つだけのコーヒカップを照らし影を作る。その様子を遠方から眺めるような構図の表紙は綺麗ではあるものの、どこか寂しげにも思えた。
コーヒーカップにはまだ珈琲が入っているのか、それとも飲み終わって片付けられるのを待っているのか想像を掻き立てられる絵に、僕は琴美さんが夏コミ会場に寄付した絵を見たときと似た感覚を覚えた。アナログかデジタルの違いはあれど、方向性は近しいものがある。
【備考】
読んで頂きまして、誠にありがとうございます。もし差し支えなければ、感想などもよろしくお願いします。
これからも、当作品の応援をして頂けたら幸いです。(=ω=)ノ
by 瀬野 或
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