三百五十五時限目 佐竹琴美はしめしめとほくそ笑む[後]
カウンター席で新聞を読みながら、もくもくと煙草を燻らせていた老齢の男性客の姿がなかった。昼下がりの時間。ティータイムと洒落込むにはもってこいのなのに空席だけが主張しているこの店は、今日もマイペースに営業をしていた。
「お友だちを救うために、なにを犠牲にするのかしら」
粘つくような声で、琴美さんが言う。
「時間です」
「じかん?」
琴美さんの眉がピクリと動いた。
「ええ、時間です。それも、僕だけではなく、ここにいる全員の時間を無償で」
僕は、琴美さんの言葉を待たずに続けた。
「佐竹が一人で担う仕事を、僕らが分担します。人数が増えれば窓口も増やせる。それに、金勘定を任せられる人材もいますから」
チラッと視線を向けると、月ノ宮さんは相槌を打った。
「八戸先輩は、毎年行われるイベントに参加しているので、不遜な事態にも臨機応変に対応可能です」
「コトミックス先生の本を扱う以上、完璧に役をこなしてみせます」
「あ、うん。意気込みは買うけど……」
八戸先輩の圧に気圧された琴美さんは、自分が座っている椅子をちょっと横にずらして距離を取った。
「……優梨ちゃんと恋ちゃんは、なにをしてくれるの?」
「僕たちは、販売促進と整列係です」
天野さんに目配せして、バトンタッチ。
「私は、男装をします」
フヒ、と変な笑い声が月ノ宮さんから訊こえた気がしたけど、訊かなかったことにしよう。
「恋ちゃんが、男装……? え、待ってヤバい」
さすがの琴美さんも、天野さんが男装をするとは予想していなかったはずだ。こういう文化に精通していない天野さんだからこそ、その姿に価値が生まれるというもの。琴美さんが飛びつかないはずがない。僕の思惑通り、琴美さんは動揺を禁じ得ず、語彙力が消失して佐竹っているのだから、効果は覿面だ。
「じゃあ、優梨ちゃんも……?」
そう、これが僕の切り札──。
「僕は、可能な限り、琴美さんが描いた漫画の主人公と似た姿になります」
僕が全てを出し切ると、琴美さんは感心するように頷いた。
「なるほど、これが優梨ちゃんの全力ってわけね」
「はい」
「成長したわね、優梨ちゃん」
「成長ですか?」
訊ねると、琴美さんは微苦笑を浮かべながら「ええ」と首肯した。
「いままでの優梨ちゃんだったら、だれかを巻き込んでまで解決しようとは思わなかったでしょう? 多分、私のド正論を訊いて、そそくさと諦めていたわ」
言われなくても、僕だってそう思っていた。『だれかの期待に堪える』という行為を「下らない」と蔑んでいた僕だったら、この答えに辿り着くこともなかっただろう。
「いいわ。優梨ちゃんの成長に免じて、今回ばかりはその提案に乗っかってあげる。人数がいれば、いつもより早く捌けるだろうし、撤収時間も繰り上がるでしょう。だから、義信も花火大会に行けるわ。まあ、それはアナタたちの頑張り次第だけれど」
その言葉を訊いて、喜びよりも、肩の荷が一つ下りた安堵感が先んじた。隣に座る佐竹は、緊張が一気に緩んだらしい。「ガチできちい」と喚きながら背凭れに背中をぐいっと押し付けている。他のみんなも、琴美さんの言葉を訊いてから血色がよくなっている印象だ。八戸先輩だけは、ずっと微笑みを絶やさずにいるのだから、踏んできた修羅場の数が違う。
「でも、本当に無償でいいわけ? 言っておくけど、優梨ちゃんたちが想像している倍くらいキツい仕事よ? ある意味、精神と時の部屋くらい空気も違うし、人が密集する分、酸素濃度も減るわ」
「わかり易いようで、地味にわかり難い比喩だな……」
姉の出した喩えに文句を垂れると、琴美さんは「じゃあ、地球とナメック星くらい」と言い換えたけど、あの漫画を知らない者はそういないと思い込んでいるのがそもそも間違いなのだ。現に、天野さんは頭上にはてなマークを浮かべるように首を傾げている。そうか、奏翔君は見ていなかったんだね。日曜日の朝九時にやっていたあのアニメよりもネコ姐さん派だったのかな? セクシーになって垢抜けたもんなあ……。
「僕らは〝佐竹の花火大会参加〟が報酬なので、それ以上を貰うつもりはないんですけど……」
わかってます、わかってますからそんな目で僕を見ないで下さい八戸先輩。
「知っての通り、八戸先輩は琴美さんの大ファンらしいので、新刊の表紙にサインを書いて貰ってもいいですか? 無関係な八戸先輩を巻き込んだのは、それと交換条件だったので」
「それくらいお安い御用よ。でも、八戸君。新刊はちゃんとお金を支払ってね」
「当然です。自分は三冊購入予定で、その内の一冊にお願いします!」
これで、残すは当日のみとなった。
「あと、優梨ちゃんはこのグループの代表として動いてもらうから、そのつもりで」
「え? 僕が?」
「言い出しっぺが責任を取らずして、だれが責任を取るの?」
わかりました、と引き受けたはいいが、琴美さんになにを申し付けられるのか気が気じゃない。無理難題を言い渡されて、夜遅くまでパソコンと向き合う自分が目に見える。冷蔵庫にある父さんのエナドリ、何本か拝借しなくては……。
「じゃ、当日のスケジュールを後で送るわ。必ず目を通して」
──それと。
琴美さんは椅子から立ち上がると、背筋をぐいっと伸ばした。
「まだまだ詰めが甘いわね、優梨ちゃん♪」
意気揚々と「じゃあねー」って手を振りながら立ち去る琴美さんは、しめしめと笑っているようだった。
* * *
僕らはダンデライオンを出て、その場で解散とした。天野さんと月ノ宮さんは、二人で打ち合わせをするとかで、まだ店に残っている。八戸先輩は、「犬飼が心配しているから、先にお邪魔するよ」と、一人でどこかへ去っていった。東梅ノ原から梅ノ原までの電車は同じなのに、どこで油を売るつもりなのか。本数が少ない電車だから、一本乗り遅れた時点で一時間は待つ必要がある。それだけの時間を待つなら、さっさと電車に乗ったほうがいいと思う反面、僕らに気を遣ったに違いない。そういう気を回せるなら、普段もしゃんとしていればいいものを。自由気ままに活動するから、犬飼先輩も心配するんだってわかってるんだろうか?
そんなお節介を思いながら改札を抜けて、先で待っている佐竹の隣に並んだ。西に傾いた太陽が、自販機の横にある窓の外から照らす。空はまだ赤く染まらず、層積雲が広がっていた。この時間帯だと、人の往来も少ない。
僕と佐竹は無言で階段を下り、近場にあったベンチに腰を下ろした。このベンチは、あの日、佐竹が涙を浮かべたあのベンチだと思ったけど、そんな記憶なんてもうすっかり忘れてしまったと態度で示しながら、まだかまだかと電車を待つ。
「ありがとな」
僕と背中合わせに座った佐竹が、ぽしょりと言った。
「そういうの、いいから」
あからさまに「センチメンタルは間に合ってる」という意味を含んだつもりだったのに、佐竹には、僕の言いたいことが通じていないようだった。
「まあ、これで佐竹が花火大会にいける確率も上がったからいいんじゃない?」
「だな」
電車が来るまで、残り二〇分。ジリジリと鳴く蝉の声が暑さを引き立てているような。口の中が苦くて、糖分が欲しくなった。飴の一つくらい入ってるんじゃないかって鞄の中を探ってみたけど、飴を買う習慣がないのに入っているはずがない。なにかをしていなければ間が持たないと、飴玉を探す振りをしているだけ。いまは、ぐちゃぐちゃに絡まったイヤホンのコードを解くことに集中している。
【備考】
読んで頂きまして、誠にありがとうございます。もし差し支えなければ、感想などもよろしくお願いします。
これからも、当作品の応援をして頂けたら幸いです。(=ω=)ノ
by 瀬野 或
【修正報告】
・報告無し。