三百五十五時限目 佐竹琴美はしめしめとほくそ笑む[中]
──茶番はもういいでしょう?
とでも言いたげな視線が、僕の心をぎゅっと締め付けた。
鋭利な刃物を喉元に突きつけられるような、嫌な眼差し。琴美さんは口では語らず、その多くを目で語るような人だ。期待も、失望も、彼女の瞳の中にあって、その実は存在しないのだから、琴美さんの思考を読み解ける人など、この世界にいないとすら思える。ミステリアス。なんて、訊こえはいいが。内側にあるモノに触れられないというのは、酷く寂しいことではないだろうか。
他人を値踏みするような視線の奥に、佐竹琴美はなにを願う──。
動揺を悟られまいと、アイスコーヒーに手を伸ばした。だが、僕の指はコップを掴めず、右手の中指だけがグラスの縁に触れて倒しそうになった。慌ててもう片方の手で倒れそうになったコップを掴み、事無きを得た僕だったが、隠すはずだった動揺を、滑稽に露呈させる結果になってしまった。
「おお、危なかったな」
一部始終を見ていた佐竹が言う。
「肝が冷えたよ」
乾いた声で「あはは」と笑いながら、ストローに唇を当てて一口分吸い込んだ。氷が溶けて薄くなったアイスコーヒーの程よい苦味が、気付け薬のように現実へと引き戻してくれた。
「そんなに怯えて、小動物みたい」
琴美さんは冷笑を浮かべる。
たった一言で、場の空気が張り詰めた。『いま、この空間を支配しているのは、この私』みたいな気迫すら感じて、喉がひりつく。琴美さんを呼ぶべきではなかったかも知れない……なんて後悔を呑み下し、僕は琴美さんの冷たい瞳を直視した。いつまでも逃げていてはいけない。小動物だって追い込まれたら、隠していた牙を剥き出して威嚇するのだ。
「へえ、そういう顔もするんだ……いいわ、始めましょう?」
火蓋が切って落とされた。
「琴美さんをこの店に呼んだのは他でもなく」
「義信のことでしょ? わかってるわよ」
皆まで言わないでいいわ、と所在無さげにストローの包み紙を弄りながら答えた。
「でも、その前に確認したいことがあるのだけれど……、いい?」
僕は「はい」とは言わず、頷きだけで返した。
「ねえ、義信」
琴美さんは、肋状にしたストローの包み紙に水滴を一つ垂らした。
「な、なんだよ」
僕は、多勢に無勢を責められるのでは? とばかり考えていたが、琴美さんにとって、相手の人数が一人でも一〇人でも変わらないらしい。年下相手だから余裕があるのか、それとも、僕らが束になっても自分には勝てないと高を括っているのか。どちらにせよ、いい気分じゃない。
「アンタはどうしたいの」
「今更なんだよ。俺は、花火大会に行きたい」
「ふーん。……だれと?」
「だれって」
ぐるりと一周、僕らを流し見た。
「コイツらとだよ」
「はあ……。だからアンタはいつまでも愚弟なのよ」
「うるせえな、愚弟でわるかったよ」
と、佐竹。
「アンタの我儘に何人巻き込んでると思ってるの。恥を知りなさい」
ピシャリと正論を突きつけられて、佐竹は耳が痛そうにしている。
「まあまあ、先生。彼らもきっと、佐竹君と一緒に花火大会へ行きたいからこそ、お忙しいと知りながらも先生をお呼びしたのですし、あまり責めないであげて下さい」
まるで、上司と部下に板挟みされている中間管理職みたいだ。八戸先輩には不憫な役回りを押し付けてしまったかも知れない。この話し合いが終わったら、飲み屋の一件くらい付き合ってやろう。まあ、僕も先輩も未成年ですけど。
「やっくんはお黙り」
「は、はい……」
さすがは板挟みの中間管理職。上司のご機嫌を損ねたら、どんな仕打ちが待ているかもわからないし、今後に支障が出るかも知れない。ここは引くことも肝心ですよって意味を込めて八戸先輩を見やると、「やっくん、か……。悪くない」と、満更でもない様子。倒れてもただでは起きないようだ。なんなら、もっくんとふっくんも揃えてみせるくらいの意気込みさえ感じられる。プラス思考のバケモノかよ。
「で、アンタは仕事を放棄してまで、花火大会に行けると。本気で思ってるの?」
「そうは思ってねえけど……」
このままでは佐竹が潰れてしまう。
そう思った矢先、月ノ宮さんが挙手をした。
「私も予々、佐竹さんの考えは甘いと思っています」
「へえ、それは、どういう意味かしら?」
月ノ宮さんは、「はい」と小さく返事をしてから口を開いた。
「仕事である以上、最後まで責任を持って果たすのが務めであり、途中で投げ出すのは愚の骨頂。無断欠勤なんて論外です。アルバイトに責任を果たす義務はありませんが、筋は通すべきだと思います」
──義信、言われてるわよ?
──いちいち絡んでくんなよ。
「ですが」
そこで話を区切り、アイスコーヒーを一口。
「佐竹さんは、途中で投げ出すために、この場にいるわけではありません。これは、彼なりの誠意とも取れます。私は、そこだけは評価に値すると思います。そして」
「そして?」
「そんな愚かな彼を手助けするために、私たちはここにいるのです」
月ノ宮さんは、堂々と宣戦布告をした。
「たしかに、佐竹は中途半端なヤツですけど」
隣に座る天野さんが、恐る恐る声を上げた。
「友だち、ですから」
「友だち、ねえ。フフッ……あはは」
なにが面白いのか、周囲を気にせず大笑いする。
「なにがそんなに面白いんですか」
不服そうに言う天野さんに対して、琴美さんは瞳に涙を貯めながら。
「だって、アナタたちがやっていることは、友だちごっこじゃない。それなのに面と向かって言うものだから、おかしくておかしくて……」
「ごっこじゃないです」
「ごっこ、よ」
スッと笑いを止めた琴美さんは、天野さんの言葉を強く否定した。
「大体のことは〝友だち〟で済ませられるもの。こんなに便利な免罪符ってなかなか無いわ。……そう思わない? 優梨ちゃん」
以前の僕だったら、きっと「その通りだ」と発言していただろう。
でも、いまはそう思わない。
琴美さんが言うように、『友だち』という言葉は幅広い意味で免罪符のように使われている。カツアゲしても「友だちだから」、誹謗中傷しても「友だちだから」。だったら、友だちという関係に、なんの意味があるというんだ。相手の暴力に対して「友だちだから」の言葉で我慢しなければならないのなら、僕は友だちなんて必要無いとさえ思う。そんな友情、ゴミ捨て場にでも捨ててしまえ。孤独至上主義は、そういう意味では最強とも呼べる。だれに干渉されるでもなく、だれにも迷惑をかけず、だれに固執するわけでもない。自分の時間を邪魔されず、自分のためだけに使えるのだから最強だ。
でも、虚しい。
いくら自分のために時間を使えるとしても、そこに残るのは自分だけであり、他者は一切関与しない。それで満足する人もなかにはいるだろう。それはそれとして、他者から受け得られるものは、なにも悪いものばかりではない。孤独を悪とも言わないが、孤独は苦しいものだ。息が詰まって、自分の存在が希薄に思えてくる。そこに、「よう、調子はどうだ」って声を掛けてくれる存在がいたら、どれほど救いになるだろうか。
「琴美さん」
「なに?」
「僕は、彼らの友だちだから、彼らが苦しいとき、傍にいたいと思います。それに、救ってあげたいとも思う。それを笑いたいのなら、思う存分に笑って下さい」
琴美さんは、笑わなかった。
代わりに、
「言うようになったじゃない」
睨めるように、僕を見据えた。
【備考】
読んで頂きまして、誠にありがとうございます。もし差し支えなければ、感想などもよろしくお願いします。
これからも、当作品の応援をして頂けたら幸いです。(=ω=)ノ
by 瀬野 或
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