三百五十二時限目 可能性は残されている[後]
佐竹と二人で、梅高の下に流れる河原へとやってきた。梅高生徒の間では『梅川』という名前で通っているが、本当の名前はわからない。梅川が定着していて、だれしもがその名前で呼ぶものだから、僕もその呼び名を使っている。
ゴツゴツとした岩肌の壁、砂利と小石の地面、ところどころに苔が生えて歩き難い。足を滑らせて川にドボンしそうな石場を、とんと軽やかに飛んでみせた佐竹が自慢顔で振り向いた。僕は、そんな安い挑発に乗ったりしない。クライミングさながらに岩を登り、やや遠回りして佐竹を後を追った。
──梅川に行こうぜ。
そう提案したのは、佐竹だった。
いつもならバスで往来する道を、自分の足で進むのは、妙に不思議な感覚だ。流し見ていた風景が、目と鼻の先にある。一年以上も通った道なのに、近場の山の中に祠があるとは知らなかった。このカーブに差し掛かると本を閉じて、近くなった梅高の坂道を見ていた。「今日もあの坂を登らなければならないのか」って、うんざりするのである。帰りは、寝るか、本を読んでいるもので、気がつかないのも当然だ。
景色を眺めることもあるけれど、それだって漫然としていて、記憶の中に留めようと注意深く見ているわけじゃない。バスは、必ず、目的地へ到着するのだ。自転車で梅高に向かうわけでもなし、わざわざ道を覚えようとしなくてもいい。必要ならやる。不要ならやらない。不要なことをやってみせようだなんてヤツは、よっぽどの物好きか、尖り過ぎた変人か、学年一位の天才くらいだろう。
ぐいぐいと川を下っていく佐竹の背中を見ながら、肩で息をして、付いていくのがやっとの僕。ここまで体力差があれば、羨ましいとも感じない。ただただ、汗で背中に張り付くシャツが鬱陶しいと感じるのみだった。
佐竹は近場にあった大石に座ると、「座れよ」みたいに僕を見た。僕は、佐竹と一メートルくらい離れた場所に腰を下ろす。佐竹の隣に着く前に、体力が底を尽きてしまった。あと一撃でも被ダメしたらティウンするか、ナタデココのように体が弾け飛ぶに違いない。
「気持ちいいな」
「どこが……」
川の流れは早く、底が見えない。かなり深いようだ。こんな場所で泳ぐなんて、死に急ぎ野郎と言わざるを得ないが、飛び降りるには絶好のポイントで、御誂え向きの大岩があった。だとしても、危険極まりない行為だ。ミイラ取りがミイラになるに準えて、河童取りが河童になると命名しよう。
「あんまり気にすんなよ。ガチで」
嗜めるように、佐竹が言う。
「同情するなら金をくれ」
昔流行ったドラマの名台詞を吐き、手元にあった小石を川に投じる。小石は放物線を描き、ポシャンと川の中へ。ふと、投げられた小石はなにを思っただろうと考えた。僕がここに来なければ、小石はこの場所でじっとしていたはずだ。それが、僕の気まぐれで川底に沈められて、いまはもうその姿すら視認できない。考えようには残酷な行為に思えるけれど、石に意思が無いのがなによりも救いだった。駄洒落ではない。
「金か。余るくらいあるならやるよ。でもなあ……、残念だが、ダンデの珈琲分くらいしか持ち合わせがねえや」
ははは、と佐竹が笑う。
その後に続く静けさが、心を鬱々させた。
* * *
僕の主張を静かに訊いた後、琴美さんは、とても退屈そうに、くわあと欠伸をした。
『言いたいことはわかった。でもね、優梨ちゃん。その主張は通らないわよ。だって、その主張は間違っているもの』
「どう間違ってるんですか」
『先ず一つ目。義信にやらせる役は売り子だけれど、それだけじゃないのよ。売り子、つまり、うちのサークルの顔でもあるの。優梨ちゃんはお店で商品の説明を訊いて、店員から回答が得られなかったらどう思うかしら? そんなずさん過ぎる店で商品を買う気にはならないわよね? 二つ目。金銭が発生する以上は、中途半端に仕事をされては困るの。優梨ちゃんはまだ未経験かもしれないけど、レジを締めたときに誤差が生じた場合、店舗によっては給料から天引きされることもあるわ。もし、プラス誤差にでもなったりしたら、お客様に損をさせてしまったことにもなる。これの意味がわからないほど、子どもじゃないわよね? 三つ目……』
そこから先は、頭が真っ白になってしまってよく覚えていない。自分の考えが甘過ぎたってこと。現実を叩きつけられた、そんな三〇分間だった。
『でも、私はそこまで鬼じゃないから、今日と明日だけ愚弟を貸してあげるわ。学校は明日まででしょう? まだ私に立ち向かう気力があるのなら、優梨ちゃんの全力を持ってぶつかってきてちょうだい? ま、私はそれ以上の圧倒的な力でねじ伏せてあげるけどねー。じゃ、またね』
なにも、反論できなかった。
「おい、どうした? 顔、真っ青だぞ」
心配そうに訊ねる佐竹の声。
「……ごめん。駄目だった」
「そうか。ま、サンキュな」
手も足も出ないというのは、まさにこのことを言うのだろう。完敗だった。絵に描いたような敗北感を握り締めたまま、『なんとかなるかも知れない』と思っていた自分を恥じる。
佐竹琴美を論破するには、難攻不落の要塞を落とすくらいの準備が必要だと最初からわかっていたはずなのに、『なんとかなる』なんて希望的観測ではいけないと理解していたはずなのに。準備を怠った。慢心した。失敗するべくして失敗した。
「佐竹。今日と明日は、オフだって」
それを訊いて、佐竹は目を丸くした。
「オフ? 休みってことか? なんだよ、謝る必要ねえじゃん。優志のおかげで、今日と明日、自由に活動できる。久しぶりに羽音を広げて休めるってもんだ」
「それを言うなら、羽音を伸ばして、だよ」
「意味が通じればどっちでもいいだろ? 兎に角、気にすんなって」
ポンポンと僕の肩を叩く。
肩に残った感覚が、余計に心を虚しくさせた。
「もうニバスも行っちまったし……、そうだ! 梅川に行こうぜ」
「嫌だよ。暑いし、疲れるし」
「気分転換に体を動かすのも悪くないぞ? ほら」
足を放り投げるようにして立ち上がると、座っている僕の背後に回り込んで、ぐいっと背中を押した。
* * *
「俺は、嬉しかったんだ」
急になにを言いだすんだ、と佐竹を見やる。
佐竹は対岸にある岩肌の壁を見つめながら、照れ臭そうにしていた。
「お前に女装してくれって頼んだ日のこと、覚えてるか?」
「忘れたくても忘れられないよ。悪夢でも見ているのかと思ったね」
「はは、違いねえ」
この男はいつだって、面倒を抱えてやってくる。僕は、いつもそれに振り回されっぱなしだ。楽しいけれど、正直しんどい。だけど、このしんどさは嫌いじゃなかったりもする。
「でも、お前は、全部解決してくれたろ? そのおかげで恋莉とも仲直りできたし、宇治原の件だってお前が悪役を演じてくれなきゃどうなってたのかもわからねえ」
「買い被り過ぎだよ。僕は、そんなにいいヤツじゃない」
──だとしても、さ。
「俺は、お前をいいヤツだって思ってる。ガチで」
「死亡フラグをビンビンに立たせるの、やめてくれる?」
居心地が悪くなって、佐竹から視線を外した。
川を跨ぐ橋の上を、白い軽トラックが走っている。田舎では、軽トラックが大活躍するのだ。野菜を農協に届けたり、切った枝を運んだりして、それはもう、はーしーれはしーれ♪ って具合に。
「だから、俺は言うぞ」
「いや、ちょっと待ってって。僕は、琴美さんに完膚なきまで叩きのめされて意気消沈中なんだよ? さすがに空気を読まな過ぎじゃない? だいたい、僕が琴美さんに勝てる要因なんて、どこにもな──」
「あのさ」
生温い風が、木々を揺らす。川の辺で一匹の薄羽蜉蝣が小石に止まって羽を休め、再び飛び立つ瞬間に佐竹は口を開いた。
「俺を、花火大会に連れていってくれないか」
【備考】
読んで頂きまして、誠にありがとうございます。もし差し支えなければ、感想などもよろしくお願いします。
これからも、当作品の応援をして頂けたら幸いです。(=ω=)ノ
by 瀬野 或
【修正報告】
・2020年4月8日……誤字報告による誤字修正。
報告ありがとうございます!