三百二時限目 彼は再び女の子を始める
「いらっしゃいませ。お二人様ですか?」
こちらへどうぞ──と、通されたのは二人席。テラスの奥四席にはパラソルが取り付けてあり、日除け対策もされている。私たちが通された席は奥の一番左側の席で、壁の向こう側から伸びる木の枝が丁度よく木陰を作っていた。
「水とおしぼりはセルフサービスとなっておりますので、ご自由にお使いください」
若い男性スタッフが指す方、カフェスペース入り口横に氷の入ったピッチャーとコップ、おしぼり、紙ナプキンが並べてあった。その横には木製の椅子が置いてある。座席部分には長方形の箱が乗せてあるから予備の椅子ではないんだろうけど、あの黄褐色の箱にはなにが入ってるんだろう──と思っていたら、老夫婦のお爺さんがその箱からブランケットを取り出して、奥さんに渡していた。ブランケットの貸し出しまでしているとは恐れ入りました。
「お水とか取ってくるね」
席を立ち、おしぼりと水を運んだ。
「ありがと。ユウちゃん」
「いえいえ」
どういたしまして、と微笑んでみた。
水を運ぶ際にちょっとだけカフェスペースを覗いてみたけれど、さすがはログハウス調のお店だ。木の温もりを感じられる。
厨房の前にあるカウンターの上には、カンパーニュやマフィンなど、珍しいパンが籠に並べておいてあった。
パンだけを購入する客も多そうだけど、私だったら店内で読書がしたい。そういう客のためになのか、至るところに本が飾ってあり、児童書や絵本も用意してあった。
至れり尽くせりなオーナーさんは、相当な読書家らしい。
ざっと見ただけでも二〇冊は用意してあってジャンルも数多にある。たまにはエッセイ本なんかもいいかも知れないって手に取りたくなるくらいだ。カフェスペースを入った直ぐ右隣に薪ストーブなんかもあって、冬場はとても温かいんだろうなあ。エアコンの類は見当たらない。自然と共存するお店、という印象を受けて席に戻った。
「なにを食べるか決まった?」
ずっとメニュー表と睨めっこしていたレンちゃんに訊ねたら、まだ決め倦ねている様子だ。ダンデライオンでも迷うよね、なんて言い合いながら、私は川のせせらぎに耳を傾けてみる。
サンデームーンは崖すれすれに作られたお店で、眼下にあるのはゴツゴツとした岩と野草の肌。落ちたら一溜まりも無いなあって考えたら怖いけど、柵は頑丈に作られているし、滅多なこと──地震でも起きない限りは大丈夫そうだ。川との距離はどれくらいだろう? 結構ある。例えるならビルの三階から見下ろす感じ。なので、川のせせらぎがここまで届くはずはないのだけれど、太陽光を反射してキラキラと輝く川の表面は綺麗だった。
私もそろそろ、真剣に悩もうかな。
テーブルの中央に広げたメニュー表には、ダンデライオンで食べているサンドイッチの名前が並んでいる。それとは別にピザもやっているらしい。ダンデライオンでは食べられない品だ。これは食べたてみたい──そう思ったら急にお腹が空いてきた。
「私はマルゲリータのセットにしようかな。ユウちゃんはどうするの?」
「じゃあ、私はこの……味噌とマヨネーズソースのピザにする」
期間限定、という文字に惹かれたのは言うまでもない。
「じゃあ、半分こして食べない?」
「そうしよっか」
料理をシェアして食べる──うん、女の子っぽい。スタンダードなピザも捨てきれなかったので、レンちゃんの申し出に快く頷いた。
注文してから少々時間がかかる旨を店員さんから告げられて、私たちは店の周囲を傍観しながら、まだかまだかと料理が届くの待っていた。
料理とは、お客様にお待ち頂いている時間も含めて料理であるって、なにかで読んだか見た気がするけれど、このお店は全てが新鮮で楽しい。それゆえに、料理にも期待が高まる。
「改まってこういう場所に来ると、なんだか緊張しちゃうわ」
思い出したかのように、レンちゃんがボソッと呟く。
「初めてのお店ってそうだよね」
ううん、とレンちゃんは頭を振って否定した。
「デートだからよ」
これはまた大失敗──。
「あ、そうだね」
店の雰囲気に呑まれてすっかり忘れていたけれど、今日だけ私はレンちゃんの彼女なのだ。デートならデートらしくデートしなきゃ……デートってなにをするのが正解なの? そして、レンちゃんのことは彼女って言っていいのかな? 私は彼氏……とも違うし、どっちが正しいんだろう? 予備知識として〈ネコ・タチ〉って呼び方があるのは知ってるけど、それはつまり〈受け・攻め〉だからちょっと違うよね。いや、大分違うか。違うのかな? あー、女の子同士ってどうすればいいんだろう!?
「あーんって、する?」
「ああん!?」
いやいや、私たちはたしかにカップルではあるけども! あーんってするにはまだ早いと言うか、心の準備とか体のあれとか……。
「恋人同士だったら、相手に食べさせるくらいのことはするでしょう?」
あ、そっちの話ね。
私はてっきり違うほうの……ゲスんゲスん。
「それはいいいけど……ピザでするの?」
──そうよ?
──熱々おでん芸みたいにならない?
「ふーふーしてあげれば問題無いでしょう?」
それはそれで、色々と問題が……。
「それくらい、いいでしょ?」
お強請りするような視線を投げかけられたら断るに断れないと言いますか、これは断ったらいけないやつだ。
「い、一回だけなら……」
「やった♪」
こんなに楽しそうなレンちゃんはいつ振りだろう?
強引に混浴を作り出した温泉のとき以来かな?
いや、あのときはだれか入ってくるんじゃないかって気が気じゃなかったし、まともにレンちゃんを見れなか──ああ、そうだ。私はレンちゃんの裸を見てしまったんだ。そして本日、デートしてる。そう考えると外堀をどんどん埋められているような気も……。
「もしかして、ここまで──」
計算して、この状況を作り出したの? って訊こうとしたとき、タイミングがいいのか悪いのか、店員さんがピザ、セットサラダ、カトラリーセットを運んできた。
「残りのご注文は、食後にホットコーヒーでお間違いないでしょうか? ……はい。では、ごゆっくりどうぞ」
ピザの耳は少し焦げていて、形は歪な楕円だれど、石窯で焼いた手作り感満載で心が踊る。
カトラリーセットからピザカッターを取り出してカットしてみたけど、慣れない作業のせいか大きさがまちまちになってしまった。
「ごめん。均等に切れなかった……」
「別にいいわよ。カットしてくれてありがと」
──いただきます。
野菜から食べると太りにくいって訊くけれど、やっぱり出来立てのピザが食べたいよねっと期間限定の味噌マヨソースピザに手を伸ばそうとしたところで、私の一挙手一投足をじっと見つめる視線を感じた。
これは殺気か!?
いや、殺気にも似たなにかと呼ぶに相応しいほどの霊圧!
「いま、忘れてたでしょ」
「はい。ごめんなさい」
はやる気持ちを抑えきれずに、つい……。
「ふふっ、冗談よ。美味しそうだもんね」
匂いがもう、食欲を掻き立てて堪らない。
「じゃ、ふーふーするわね」
なんだろう、こ感じ。
とてもいけないことをしてるような、恥ずかしさで悶えそうな、このまま君だけを奪い去りたいような──そんなタイトルの曲があった気がする──でも、ラブコメ的な要素は富んでいるよね。とどのつまり、これがリア充のデートなんだね。誤魔化しなんて利かない。相手も本気で私と向き合ってる。世界が揺らぐ。胸がざわめく。心が不安定になって、どうしていいのか判断もできなくなりそう……。
カップルって、毎日こんな行為に耽っているの? 心臓から針金でも生えてるの? 私の死因はきっとカップルの風物死──。
「はい、口開けて?」
心肺が停止しそうで心配! とか、もう親父ギャグはいいってば。
一口、齧る。
チーズが伸びて、レンちゃんはそれを残ったピザに器用に巻きつけた。
「どう? 美味しい」
「う、うん!」
味なんてわかるはずがない。
私が初過ぎて引くんだけど……。
残ったピザは──。
「あら、ほんとだ。味噌とマヨネーズって相性いいわね」
間接キス……ですよね。アフラック!
レンちゃんは指についたソースをぺろりと舐めた。その仕草がまた婀娜めいて見えて、私は正気を保っているのが精一杯だ。
「レンちゃんって、実は恋愛マスターとかじゃないよね……?」
マスターアジア、東方不敗くらい強そう。
「違うわよ! 知ってるでしょ? 私が中学時代になんて呼ばれてたのか」
たしか、男勝りだったっけ。
「これでも結構、無理してるんだから」
そっか──。
レンちゃんは『自分に女としての自信が無い』と嘆いていた。だから、少しでも女の子っぽく振る舞うように努めているんだ。
それに引き換え私ときたら狼狽えるばかりで、ろくすっぽレンちゃんを見ていなかった。
ちゃんと向き合わなきゃ。
私が優志であること、それは忘れよう。
いまは優梨なんだから、レンちゃんの気持ちに応えてあげなくちゃ誠意の欠片も無いじゃない。それに、呼び出したのは私だ。最低限のエスコートはするべきだよね。
こういうとき、琴美さんならどうするだろう。弓野さんと一緒にいるとき、琴美さんはどうやって彼女を満足させるんだろう。肉体的な話じゃなくて、精神的に──。
習うより慣れろ、の精神かな。
もう一度、私は優梨としての心構えを思い出してみる。優しくて、気さくで、だれにでも分け隔てなく接して、明るくて、ときどき意地悪で……それが優梨という女の子だ。
さあ、呪文を唱えよう。
大丈夫──。
心の中で復唱した。
目を開いたら、私の世界は広がっている。
【修正報告】
・2021年7月2日……誤字報告箇所の修正。
報告ありがとうございました!