二百七十時限目 コーンスープとコンソメスープ
『それはどういった意味ですか?』
二本目の煙草がちりちりと燃えて、事切れたかのように灰が地面に落下した。大河さんはその灰を右足で踏み潰し、まだ三分の一くらいの長さが残る煙草を灰皿へ捨てる。
『どういった意味、ですか。特に理由は無いのですが、そう感じただけです。あの中で鶴賀さんだけが異質に見えたので』
言い終えると、空になった紙コップを握り閉めて潰した。
『──それでも、アナタはまだまだ子どもですが』
『それは、まあ……』
『選べないのは子どもだからです。いくら大人の真似ごとをしても、気を抜いた瞬間に仮面は剥がれてしまう。どれだけ強固に固定したとしても、所詮、子ども程度の力なのですから』
そう語る大河さんの瞳は、どこか寂しげに映った。まるで、過去の自分を思い出して嘆いている……そんな眼が印象に残っていた。
『大人になれば選択肢の幅が広がります。当然ながらその責任も伴いますが、それでも、選べないよりはマシでしょう──然し、全員が幸せになる方法なんて絶対にあり得ない。片方を選べば片方が不幸になる、それがこの世界の真理です。記憶しておいて下さい』
大河さんはポケットからなにかを取り出して、僕の手を掴み、それを握り締めさせた。とても冷たい手だった。
『私は先に車に戻っています。では』
その場から立ち去る背中を見送りながら、掌の中に捻じ込められた物を確認する──。
五〇〇円硬貨だった。
氷のように冷えた銀色の分厚い硬貨を、僕は財布には入れず、ジーンズの右ポケットにある小さいポケットに入れた。お釣りは返さなくてもいいんだろうか、なんて思いながら。
* * *
ああ、そういえば忘れてた。
ベッドの上で寝転がりながら、感覚だけでポケットを弄る。あのときとは違って、僕の体温で程よく温まった五〇〇円硬貨を人差し指と中指の指先で挟むように取り出した。結局、お釣りを返し忘れてしまったなあ……と思いながら、天井に伸ばした腕の先にある分厚い硬貨をぼんやりと見つめる。
どうもこの五〇〇円は使えそうにない。
よっこいしょういちっと勢いをつけて立ちがり、硬貨を机の引き出しに閉まった。
机の上にある卓上カレンダーには、春休み初日に行った日光旅行を示す赤丸が二つ並んでいる。それ以降、赤丸は数字を囲まない。佐竹は『遊ぼうぜ』とメッセージを飛ばしてくるけれど、『それよりも勉強したら?』と断っていたら来なくなった。他の二人からは偶にメッセージが来るけれど、それは些細な挨拶のようなものだ。流星から『土産寄越せ』と来たときはちょと笑ってしまった。冗談でガルボを渡したらどういう反応をするだろう、新学期になる前に、買ってきたお土産は渡したいところではあるが……。
「水瀬先輩にも会わなきゃ、か」
彼女は佐竹のように、頻繁にメッセージを送る性格ではない。仕事と学校で忙しいのもあるけれど、遠慮しているようにも見受けられる。
僕は、水瀬先輩との距離を測り兼ねていた。
友だちと呼ぶには日が浅く、年上なので『先輩』を付けて呼んでいるけれど、優梨の姿のときは『文乃ちゃん』と呼んでいる。その呼び方は優梨の性格だと当然なのだけれど……問題はそこじゃない。
水瀬先輩は、優梨のことを慕ってくれている。それはとても有り難いことなのだけれど、二人きりで会うのはどうだろう、と引け目を感じるのだ。佐竹と天野さんからも好意を寄せて貰っているのに、二人きりで会うのは不誠実じゃないか──。
「あ、それなら流星を呼べばいいか」
同じ職場である二人がどれほどの関係にあるのかはわからないけれど、メイド喫茶〈らぶらどぉる〉の仲間なのだから、口実としてこの上ない。
けれど。
「さすがに店へ赴くのは、なあ……」
旅行で出費した手前、これ以上の出費はなるべく抑えたいというのが本音だ。往復の電車賃は仕方が無いと割り切るが、らぶらどぉるで食事をする余力は、はっきり言って無い。
「それで、選んだのがここか。お前の選択肢には〝ダンデライオン〟か〝らぶらどぉる〟しか無いのか」
翌日、丁度二人の予定が空いていると訊いて、僕は二人をダンデライオンに呼び出した。ここならば多少の融通は利く。珈琲一杯だけでも、照史さんは嫌な顔をしないのだから、ほんとうに有り難い。
「でも、素敵なお店です! ここなら文庫三冊は読めますね」
時間の言い表しかたが独特な水瀬先輩は、普段、天野さんが座ってい位置に腰を下ろして、アンティーク雑貨が広がる店内を、きらきらした眼で見渡していた。
「オレはもう新鮮味は無い」
水瀬先輩の隣で頬杖を付きながら、退屈そうに水の入ったコップをもう片方の手で掴み、手持ち無沙汰な様子で表面を揺らしている流星は、「旅行はどうだったんだ」と、ぶっきら棒な声音で僕に訊ねた。
「まあ、貴重な体験ではあったね」
貴重な体験? と、水瀬先輩がおうむ返ししながら僕を見る。
「幽霊と話してきました」
「は?」
お前、オレを馬鹿にしてるのか? ちょっと面貸せよとでも言いたげに、流星は眉間に皺を寄せた。普通に怖い、ガチで。
「幽霊って、あの幽霊?」
「ユ・ウレイって名前の人間ではないのなら、そういうことになる」
──それはさすがに無理があると思いますよ、エリスちゃん。
──ここでその名で呼ぶな。
──あの店で働いてることは秘密だもんね、アマっち。
──お前は殺す。
やはり、流星は女性に対して『殺す』と凄まないようだ。天野さんには言っていた気がしなくもないけれど、言ってもいい相手とそうじゃない相手を区別しているようにも窺える。
まあ、冗談でも言っていい言葉ではないが。
「話すと長くなるけど、それでもいいなら」
二人が頷くと、タイミングよく照史さんが三人分の珈琲を運んできた。
「そういう話は、昼間よりも夜のほうが楽しそうだね──はい、お待ちどうさま」
白い湯気の立つ珈琲の芳ばしい香りに、水瀬先輩は胸を高鳴らしながら「いい香り……」と、感嘆の息を吐いた。
「長くても、この珈琲が飲み終わるまでにしてくれ」
流星はカップに口を付けて、静かに一口啜った。
「ややこしい話ではあるんだけど、多分、そこまで時間は取らせないと思うよ」
時間を使うとすれば、話を終えたあとだろう──。
僕は、要所要所を掻い摘んで、なるべく端的に説明をした。流星の要望通り、カップの中にある珈琲は底を見せない。無くならないように調整しながら飲む……なんて器用な真似はしないだろうから、期待には添えられただろう。だが、水瀬先輩のカップは途中で空になり、申し訳ないと断ってから、お代わりを貰っていた。
「俄に信じ難いが、お前がそうまで言い切るんだからそうなんだろうな」
「ちょっと怖かったけど、切ないお話だとも感じました」
受け取り方は違うけれど、僕の話は信じて貰えたみたいだ。否定されると思っていただけに、ちょっと拍子抜けでもある。
「それで、お前はこの一連の騒動をどう見たんだ」
僕は。
「缶のコーンスープを飲み終えた後、底に残る一粒をどうするか、みたいな感じかな」
「わかり易いようで、いまいち輪郭を捉えない比喩ですね……」
「要は、問題にするかしないかってことか。気にせずそのまま捨てるヤツもいる。飲みかたを工夫して最後まで飲みきるヤツもいる。どうにかして飲もうと足掻くヤツもいる」
そしてお前は、そんなことになるならコンソメスープを選ぶって口だろ──と、流星は僕の図星を突いて嘲笑する。
「月ノ宮の問いに対して選べなかったお前の負けだ、受け入れるしかない。その……たいがって名前の召し使いは、お前のそういう卑怯なところを見抜いたのかもな」
その通りだよ、と僕は苦笑いしかできなかった。そんな中、水瀬先輩だけは、「私はコンソメスープも好きだよ!」と、敬語を使わないルールをようやっと思い出したらしいけれど、そのフォローは輪郭を捉えていなかったのは言うまでもない。
【備考】
この度は『女装男子のインビジブルな恋愛事情。』をご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
今回の物語はどうだったでしょうか? 皆様のご期待に添えるように全力で書いていますが、まだまだ実力不足な私です。次はより面白い作品が書けるように、これからも努力して参ります。
【瀬野 或からのお願い】
この作品を読んで「面白い! 応援したい!」と思って頂けましたら、お手数では御座いますが、『感想・ブックマーク・評価、等』を、どうかよろしくお願いします。
【誤字報告について】
作品を読んでいて〈誤字〉、もしくは〈間違った言葉の使い方〉を見つけた場合は、どうぞご遠慮なく〈誤字報告〉にてご報告下さい。その全てを反映できるかはわかりかねますが(敢えてそういう表現をしている場合も御座います)、『これはさすがに』というミスはご報告を確認次第修正して、下記の【修正報告】に感謝の一言を添えてご報告致します。
「報告したら不快に思われるかも」
と躊躇されるかも知れませんが、そもそも『ミスしているのは自分の責任』なので、逆恨みするような真似は絶対にしません。どうかご安心してご報告下さいませ。勿論、誤字しないのが一番よいのですが……。
報告、非常に助かっております。
【改稿・修正作業について】
メインストーリーを進めながら、時間がある時に過去投稿分の改稿・修正作業を行っております。
改稿・修正作業はまだまだ終わりませんが、完成した分は『活動報告・Twitter』にて、投稿が済み次第お知らせ致します。
最後になりますが、現在ブクマして下さっている方々や、更新してないか確認をしに来て下さる方々、本当にありがとうございます。完結を目指してこれからも書いて参りますので、引き続き応援して下さると嬉しいです。
これからも、
【女装男子のインビジブルな恋愛事情。】
を、よろしくお願い致します。
by 瀬野 或
【誤字報告】
・現在報告無し