一十七時限目 佐竹義信は煮え切らない[前]
喫茶店から帰宅した俺を待っていたのは『帰りたい♪』と歌うような、あったかホームじゃなかった。
明かりの無い廊下を進み、ただいまと言いながら突当り右にあるドアを開ける。リビングがやたらと酒臭い。飲み終えたビールをトロフィーのようにして、食卓に並べている姉貴のせいだ。『咥え煙草』ならぬ『咥えチータラ』しながら、椅子に立膝をするように座して、リビングに入ってきた俺をじろっと睨める。
長年の経験則から、ああこれは面倒臭いやつだと察した。
早々にリビングから退散しようとドアノブに手を掛けるが、酔っ払っている姉貴にはその行動が不服だったらしい。
「待ちなさい」
と、命令されて渋々姉貴の元へ向かう。
アルコールの臭いと、酒のアテにしている乾き物の刺激臭に顔を顰める。酒が弱いくせに、ビールが大好きだから質が悪い。おまけに、絡み酒ときたもんだから割と面倒だ。ガチで。
「なんだよ」
座りなさいと言いたげな視線を向けられたが、無視して姉貴の眼前に立つ。
散らかった食卓には、ぐしゃぐしゃに丸められた原稿が転がっている。
どうやら、作業に煮詰まったらしい。
憂さ晴らしに酒を飲むのは結構だが、姿、立ち振る舞いがもうおっさんのそれじゃねえか。
つか、親父だって家じゃこうはならねえよ……。親父は酒に強いから、きっと母親に似たんだな。
まあ、似たのは酒の弱さだけじゃねえけど。
「アンタ、優梨ちゃんとはどうなったのよ」
どうって? と訊き返したら、無言の圧力を掛けてきた。うぜえ……。
「別に。……どうもなってねえよ」
酔っ払い相手にマジになったって、明日にはころっと忘れてるもんだ。適当に相槌打って、はいはいそうですねっと返しておけばいいのだが、俺にも色々と思うところがあって、姉貴の態度が腹立たしく、つい口調が荒くなる。
「はあ? あんたそれでも男なの?」
余計なお世話だって舌打ちをすると、咥えていたチータラを憎さ百倍とばかりに噛み締めた。
──食べる?
──要らね。
なんなんだよ。
情緒不安定にもほどがあんだろ……。
「あれだけお膳立てされてなにもしないとか、草食系もいいところよ」
──ヤギなの?
──ヤギじゃねえし。
「つか、男相手じゃねえか」
反論したら、姉貴は食卓を平手で叩いた。その拍子で、並べられた空き缶が倒れてころころころりん転がり床に落ちた。
落ちた空き缶を拾い上げて、食卓の隅に放置されたビニール袋に片付けると、姉貴は不満顔ながらに「ありがと」と礼を言う。
本当に酔っ払ってんのか疑わしいが、顔は林檎みたいに真っ赤だ。
「全然わかってないわね」
はあ? と首を傾げたら、姉貴に殊更に眉を顰めた。
「恋愛にルールなんて存在しないわ」
異種格闘技戦と言っても過言じゃないのと言って、手元にあるビールをぐいっと呷る。
おい、まだ入ってるやつがあるじゃねえか。
さっきの衝撃で倒れてたら大惨事だったぞ、普通に。
「ルールがあるなら破ってしまいなさい」
「はいはい」
アルコールが入ると説教臭くなるのも怠いんだよなあ……。
やっぱ、おっさんなんじゃね? マジで。
「世界には同性結婚を認めている国もあるのよ?」
「他国の話をしても意味ねえだろ」
ここは日本なんだから、と続けたら、黙って訊け、と言いたげに睨まれた。
「他人の目を気にしているようじゃ、アンタはこの先、ボーイフレンドもガールフレンドも作れないわ」
先に『ボーイフレンド』が出てくる辺り、姉貴らしいっちゃらしいんだけど、自分の趣味が全面に出てて引くわ。普通にガチで。
「自分の気持ちに正直になりなさい」
「姉貴は正直過ぎるんじゃね?」
同性婚が他所の国で認められていても、日本では認められてない。偏見があるのもまた事実だ。『その壁を乗り越えてこそ愛』だなんて、綺麗事が通じるほど同性カップルへの偏見は甘くない。
そんなの、姉貴が一番、身をもって味わってきたはずじゃないか?
姉貴は『バイセクシャル』という恋愛価値観を持っているが故に、ガールフレンドを家に連れ込んでいたことだってあった。親父やお袋は気づいてないみたいだが、俺は知っている。たまたま、姉貴とその相手がキスをしているところを目撃してしまったからだ。だけど、姉貴は一切の言い訳をしないで、その日の夜、俺に打ち明けてきた。
迷惑な話だ。
だれが好んで、姉の恋愛観を訊かなきゃいけないんだ? だが、姉貴は何度も『後悔はない』と繰り返していた。それを訊いて、いままでしてきた恋愛に疑問を抱いてしまった俺は、その日を境に彼女を作ろうと思えなくなった。
「抵抗あんだろ……。男を好きになるのは」
「自信がないの? 」
自信があったらこんなに悩んだり、後悔したりしねえよ! って、感情任せに怒鳴ってみせると、姉貴は妙に冷静な態度で俺の興奮が収まるのを待った。
テレビの音がやけに静かに感じるような静寂に居心地の悪さを感じ始めた頃、酔いが冷めたような涼しい顔をしている姉貴は、はあっと所在無さげに嘆息を漏らした。
「自分が好きになった相手のことを信用できないの?」
「……」
「好きって気持ちも、信用できないのね」
「……うるせえな」
痛いところを突かれた。
正直、姉貴の言い分は正しいと思う。
「アンタが信用できるのってなにがあるの?」
「それは──」
口に出して、言葉を失う。
言い返すことができなかった。
優志にとっての俺って、どんな存在なんだ?
そもそも、だ。
なにが『ビジネスパートナー』だよ、格好つけやがって。そこは普通に『友だち』でよくね? 割とガチで。
「姉貴には、彼女がいるだろ」
「いまもいるけど?」
──アンタも知ってるでしょ?
──紗子さんだろ?
──正解。
「もし告って関係性が壊れたり、自分がバイセクシャルだって言いふらされたりするのが怖いって思わねえの?」
友だちのままでいようって断られて、そのまま友だち関係を築けるヤツは、音楽で成功する確率と似ている気がする。『夢を実現させて食っていけるのは一握りだ』って台詞は訊き飽きるほど訊いたし、だからこそ、そのまま友だちの関係を維持するのも夢のまた夢だと思う。
それに、噂ってものは、あっという間に広がるもんだ。
沈静化させるこっちの身にもなって欲しいものだが、下衆な話題は盛り上がる。
話題が無くなると気に喰わないヤツの名前を挙げて、『アイツ、最近うざくね?』と、お手軽感覚でディスるんだよな……。
【修正報告】
・2018年12月25日……誤字報告による誤字修正。
報告ありがとうございます!
・2019年2月21日……読みやすく修正。
・2019年7月17日……誤字脱字の修正。本文の微調整。
・2019年11月27日……加筆修正・改稿。
・2021年7月18日……誤字報告箇所の修正。
報告ありがとうございました!