二百六十一時限目 朝風呂は危険な香りに包まれて
結論から言うと、なにも起きなかった。いや、なにも出てこなかったと言ったほうが正しいだろう。額に三角のアレを付けている白装束の幽霊も、リング的なあの悪霊も、数多の怪談に引っ張りだこの白いワンピースの女でさえも部屋を訪れてこなかった。きっと夜中に目が覚めて、金縛りに合い、この世の者とは思えぬ顔が天井からぬるりと出てくるものだろうと思っていたのだけれど……そんなこともなく、いつもよりぐっすり眠れて気分爽快まであった。
隣には布団に包まって眠っている佐竹がいるが、彼も彼とて快眠を貪っている。夜中にトイレに起きた様子もない……それにしてもよく寝るものだ。面倒な姉から解放されたからだろうか? 温泉効果で心身共にリラックス状態だからだろうか? どちらにせよ、それ程に彼も疲弊していたんだろう。もう少し寝かせておこうかな、気持ちよさそうに寝ているし。
そうだ、朝風呂に入ろう。
まるでどこぞのキャッチフレーズのように思い至った僕は、部屋の壁にハンガーで吊るしていたバスタオルをぐるぐると手繰り寄せる。生乾きでひんやりとしているタオルを使うのは抵抗が無くもないが……そうだ、受付けでタオルを借りることはできないだろうか? お一人様一枚まで──なんて、スーパーの特売よろしくなこともないだろう。うん、駄目元で訊いてみるとするか。
物音を立てないように足音を盗みながら、ゆらりゆらりと足を動かす。ドアノブに手を掛けたとき、佐竹はまだ寝てるいるか振り返ってみたが……あれは暫く起きそうにない。開いたドアを閉めるまで気を緩めず、完全に閉じてからほっと胸を撫で下ろした。
廊下の突き当たりにある窓から陽が差し込んで、なんとも気待ちがいい。夜には鬱々として暗雲立ち込めていた廊下も、不気味に感じていた静けさも、朝が来れば全てが終わったように清々しい。身が引き締まる冷たい空気ですら心地よく感じる──そう言えば、来たときは鼻奥につんときた硫黄の臭いも感じなくなっていた。どうやら、僕の体は硫黄の臭いに浸食されてしまったらしい。帰りの車が心配だ。大河さん、運転しながら酔わないといいが……。
廊下の真ん中にある階段まで足を運び、ふっと足を止めた。結局、三階には行かなかったな──と、もう一度、物は試しと上り階段に足を掛ける。
「おはようございます」
その声に体がびくっと跳ね上がった。
「あ、おはようございます……」
顔を出したのは、やっぱり老齢の男性だった。
「昨日はよく眠れましたかな?」
「え、ええ」
それはよかったです、と彼は微笑んだ。
「よくここでお会いしますね」
よく、と枕言葉を付けたけど、この場で会うのは二回目だ。
「丁度、花に水遣りの時間だったんですよ」
彼の片手には緑色の如雨露が握られていた。大分使い込まれているように見える。先端にあるはずのシャワー口は無くなっていて、あれでは水加減も難しいだろう。そうは言っても、長年の感覚が手に馴染んでいそうなので、彼も特に気に留めていないようだ。
「お客様、昨日も申し上げたのですが、そちらには……」
「すみません。つい、出来心で……」
「興味が向くことは悪いことではありませんが、なにかあってからでは遅いので、申し訳御座いません」
いえいえ、こちらこそすみませんでしたと頭を下げる。
「ご理解ありがとうございます。それでは、私は水遣りがありますので」
今後とも、どうか当旅館をご贔屓に──と、彼は僕の隣を抜けて、僕らの部屋とは反対側へと向かって、途中にある生け花に水を与えてゆく。草花がすきなんだろうな、と思った。水を与えている彼の表情は優しく、朗らかに笑っているようにも見える。心做しか、水を得た草花も喜んでいるように思えた。
朝から心がほっこりと温かくなるような会話とその光景──こんなに心穏やかになれる旅館に、幽霊が出ると噂を流した張本人に憤りを感じるけれど、この旅館は大丈夫だろう。きっと立て直せる。そう信じて、次にこの旅館に訪れる日に想いを馳せた。
階段を下ると、受付けに恰幅のいい中年男性従業員が椅子に座りながら新聞を広げていた。
「おはようございます」
僕は彼に声をかけた。
「うん? ああ、おはようございます。お早いお目覚めですね」
「朝風呂に入ろうと思って……あ、そうだ。もし可能でしたら、タオルを貸して欲しいんですけど」
「かしこまりました。少々お待ちを」
彼が裏に引っ込んでから数秒、ふんわりと乾いたタオルを持ってカウンターから出てきて、僕に渡してくれた。
「すみません、ありがとうございます」
「いえいえ、ではそちらのタオルはお預かりしますね。ごゆっくりと朝風呂をご堪能ください」
僕はもう一度深くお辞儀をして、温泉に通じる渡り廊下の方へ歩き出す。彼はまた新聞を広げて、鼻歌を口遊みながら活字を追っていた。
ビートルズのノルウェーの森。
レノン=マッカートニー作で、録音したスタジオはアビーロード・スタジオ。曲中には伸びやかな音を奏でるシタールが用いられていて、シタールを演奏しているのはジョージ・ハリスンだ。爽やかな曲ではあるけれど、歌詞の内容はかなり下世話だったりする。村上春樹もこの曲のタイトルと同じ本を書いていた──読もうと思って中古で買ったけど、まだ手をつけていない──そんな曲を鼻歌に選ぶとは、彼もよくよく、ビートルズが好きなんだろう。ふーん、ふんふんふんふーんと、いつの間にやら僕にも鼻歌が感染ってしまった。
談話室の横を抜けて、渡り廊下に足を踏み入れた。鳥の囀り、春の予感。吐く息はもう白にならず、冷たい空気の隙間を縫うように、太陽の日差しを感じた。それでも、やっぱり寒いことは寒い。ぶるっと体を震わせながら、湯煙りが昇る別棟を目指して、白石の砂利に足を踏み入れないよう、石の板上を歩いた。
はて──と僕は立ち止まる。
昨日、僕は岩風呂に入浴した。記憶違いじゃなければ、ここの風呂は二週間毎に入れ替わるはずで、宿泊中に入れ替わりが発生することはないはず……然し、男湯と女湯を示す暖簾は、昨日と逆に位置している。もしかしたら、清掃したときに付け間違えたのかもしれない……清掃で暖簾を弄るだろうか? わざわざ取って清掃すると決まりがあるのならばそれも頷けるけれど、どう見ても暖簾を外した形跡はない。
「……は?」
いやいや、それもまたおかしな話だ。仮に、昨日もこの状態であれば、僕と佐竹は先に入浴していた天野さん、月ノ宮さんと浴場で鉢合わせて、漫画やアニメのお決まりなシーンを再現していたに違いない。けれど、そんなことはなかったし、心置きなく温泉を満喫した。であるならば、僕らは奇跡的に暖簾を見間違えて、別々の方へ入浴した──というのも考え難いけれど、それ以外には考え及ばない。
僕は目を凝らしながら両方の暖簾を見比べた。特におかしなところはない。温泉によくありそうな、男湯と女湯を区分けする物だ。紺色が男、赤色が女。見間違えるはずはない──このまま進んでいいものだろうか? 引き返して確認を取るべきか? それが最善策だとは思うけれど、冷え切った体で目の前にある温泉がお預けになるのは我慢ならない。堪らず、ちょろっと中を覗く──大丈夫そうだが、更衣室に女性がいたら完全にアウト。人生が終わる。
「いや……まだだ!」
僕に下心は無い。つまり、声をかけながら入室すればいい。もし女性客がいたら声に気がついて出てくるはずだ。そのときに暖簾のことを説明すれば、警察に突き出される心配も無い。
よし。
「すみませーん」
がらがら、とドアを開ける──。
【備考】
この度は『女装男子のインビジブルな恋愛事情。』をご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
今回の物語はどうだったでしょうか? 皆様のご期待に添えるように全力で書いていますが、まだまだ実力不足な私です。次はより面白い作品が書けるように、これからも努力して参ります。
【瀬野 或からのお願い】
この作品を読んで「面白い! 応援したい!」と思って頂けましたら、お手数では御座いますが、『感想・ブックマーク・評価、等』を、どうかよろしくお願いします。
【誤字報告について】
作品を読んでいて〈誤字〉、もしくは〈間違った言葉の使い方〉を見つけた場合は、どうぞご遠慮なく〈誤字報告〉にてご報告下さい。その全てを反映できるかはわかりかねますが(敢えてそういう表現をしている場合も御座います)、『これはさすがに』というミスはご報告を確認次第修正して、下記の【修正報告】に感謝の一言を添えてご報告致します。
「報告したら不快に思われるかも」
と躊躇されるかも知れませんが、そもそも『ミスしているのは自分の責任』なので、逆恨みするような真似は絶対にしません。どうかご安心してご報告下さいませ。勿論、誤字しないのが一番よいのですが……。
報告、非常に助かっております。
【改稿・修正作業について】
メインストーリーを進めながら、時間がある時に過去投稿分の改稿・修正作業を行っております。
改稿・修正作業はまだまだ終わりませんが、完成した分は『活動報告・Twitter』にて、投稿が済み次第お知らせ致します。
最後になりますが、現在ブクマして下さっている方々や、更新してないか確認をしに来て下さる方々、本当にありがとうございます。完結を目指してこれからも書いて参りますので、引き続き応援して下さると嬉しいです。
これからも、
【女装男子のインビジブルな恋愛事情。】
を、よろしくお願い致します。
by 瀬野 或
【誤字報告】
・現在報告無し