二百二十八時限目 雨地流星は何かを隠している
庭で虫を啄ばんでいた小鳥たちが囀り、一斉に羽ばたいていく。青い車体のごみ収集車が、袋を破り破裂させた音に驚いたのだろう。かーっと、退屈そうにカラスが鳴く。ごみ収集車が零したおこぼれを狙っているのかもしれない。
知り合いと世間話をするおばさんの声が終わる頃、母さんは手元にある珈琲を二、三口飲んで、カップをテーブルに置いた。今更ではあるけれど、そのマグカップは僕の物だ、と思う。他にもマグカップはあるので構いはしないが、数あるマグカップ、そしてコーヒーカップからそれを選んだ理由は、流し台に干してあり、手頃だったからに違いない。
「なるほどね」
母さんは、僕の話をただ黙って訊いていた。
話の腰を折りたくなかったのかもしれない。時折、顎を引く程度に頷いてはいたけれど、頭を横に振ることはなかった。否定されないのはとても有り難いが、ちょっと拍子抜けしてしまった。
親の心子知らずというように、子の心親知らずともあり、親知らずは早めに抜いたほうがいい。それが激痛であるというのは、人伝てに訊いた話だ。その忠告を無視するならば、今度は恩知らずとなって、知らずのうちに親を泣かせる。
僕は、どうだろう。
母さんは涼しい顔をしているけれど、内心、僕を哀れんでいたりするんじゃないだろうか。私の息子は、どうしてこんなことになっているんだろう──と、胸を痛めているだろうか。怒られるかもしれないという感情が、まだ、僕の心をびくつかせている。怒らないとは言っていたけれど、事情を話したあとは、事情を話す前とは違う。
僕が定期的に女装して過ごしていることを、母さんはよしとしないはずだ。おどおどしながら様子を窺っていると、母さんは僕の様子を見て破顔した。
「なんて顔してるの。まるで、蛇に睨まれた蛙じゃない」
「……怒るかなって」
「怒らないって言ったでしょう? 母さんはハブに見えるかしら?」
どちらかと言われると、マングースのほうだ。
「まあでも、驚いたのは事実よ。それだけ」
「お咎めは?」
「なにか悪いことをしたの?」
「してない」
「それなら問題ないわね」
真相がはっきりしてよかったわ──と、母さんは優しい笑みを湛えた。
僕も、話せてよかったと思う。
いつまでも隠し通せるようなものじゃないし、胸のうちにあるもやもやが晴れていくのを感じた。けれど、これで終わりじゃない。父さんにも伝えるのが約束だ。父さんは、こんな僕を受け入れてくれるだろうか? 母さんには包み隠さず、僕に女性という感覚、感情があることも伝えたけれど、父さんには隠すほうがいいかもしれない。
「父さんにも、今、母さんに伝えたことを全て伝えるのよ?」
「……はい」
僕の考えることなんかお見通しだと、先手を打たれてしまった。
アニメやラノベの母親キャラって、大体は「あらあら」と言いながら、優しく微笑んでいるイメージだ。そして、やたら色気があって胸がでかい。然し、僕の母親の鶴賀英美里はそれとは真逆だ。優しいところは同じだけれど、細身で、胸は掌に収まるサイズ。髪は肩甲骨辺りまで伸びていて、仕事中は団子にしているらしい。以前、父さんが言っていた。身長は父さんと頭一つ分違う。女性では高身長の部類だろう。足が長いので、体のシルエットだけを視たら、女優さんと引けを取らない。これも、父さんが言っていた。
自慢の母親だ、と思う。少なくとも、ジャイアンのかあちゃんよりは綺麗だ。のび太のママは眼鏡を外すと美人らしいけど、あの世界で眼鏡を外したら、目が数字の〈3〉の形になるから、やっぱり僕の母親のほうが美人だ。
性格は明るくて、たまに素っ頓狂なことをする。大仏のマスクを被るとか。これは、父さんの影響が強いらしい。夫婦揃ってそんなことをするもんだから反応に困る。今日は父さんの帰りを待つ身なので、絶対に何かを企んでいるはずだ。でも、死んだ振りだけはやめて頂きたい。
親というのは、ときに煩わしくて、ときに面倒な存在だ。僕の両親は放任主義だったから、宿題をやれとか、勉強をしろとか口煩く言わない──言われる前にやっているからだろうか──。だが、これまで関わってきた同級生は、「親うぜぇー」と口を揃えて言う。
当時は首を傾げていたけれど、今になって、その気持ちがわかったような気がした。
腹の中を覗かれるのは、気持ちがいいものじゃない。
さすがに「親うぜぇー」とはならないが……なんだろう。
なんだろうって感じ、なんだろう。
「あ、そうだ」
母さんは家事をしようと立ち上がったが、なにか言い忘れたように声を上げた。
「優志の部屋って、とってもいい香りがするんだけど、シャンプーやリンスは、なにを使ってるのかしらねぇ?」
「……ジュレーム、です」
──それでバレたとあらば、母さんは探偵に向いているんじゃないか?
──嗚呼、そうだ。
──母さんは筋金入りの、ミステリーマニアだった。
* * *
朝っぱらから神経を擦り減らした。
生きた心地のしない時間から解放された安堵感で、頭の中がすっからかんになっている。『風吹けば名無し』さんから送られた手紙を眺めては、ぼうっと、秒針が刻む音を訊いていた。その針が一周した頃にはっと我に返った僕は、やらなければならないことを思い出して、手紙を勉強卓の引き出しにしまい、ノートパソコンを立ち上げた。
格安温泉宿は、案外直ぐに見つかった。ただ問題なのはその場所と、宿の少なさである。今調べているサイトでは、関東圏に一十五件あり、埼玉と千葉に二件、栃木と群馬に一件ずつ、群馬は四件で、神奈川には五件というのが内訳だ。然し、『格安』と謳っている割には、これまたどうして宿泊費が高く、一泊二万とかざらにある。昨日の夜、それらを全て視て回ったが、「これだ」と言える宿を見つけるまでに至らなかった。いくつか候補はブックマークしたけれど、月ノ宮さんなら兎も角、佐竹と天野さん、そして僕も「うーん」と唸るような値段だ。
そもそも高校生風情が、温泉宿に宿泊しようというのが間違いなんだろう。都合よく福引きで引き当てたのならまだしも、イチから……いいえ、ゼロから! 始めようと言うのだから、値段に躓いて当然だ。誰だよ、最初に温泉なんて案を出したのは──僕か。言い出しっぺがこの有様! アナタ、怠惰ですねぇ? ペテルギウス様はもういいよって。
「取り敢えず、これでいいや」
サイトのURLを携帯端末に送信して、パソコンを隅に追いやった。それよりも、だ──引き出しにしまった手紙を、もう一度勉強卓に広げる。夜の時間の大半を注ぎ込んだこの手紙こそ、僕が一番頭を抱えている問題であり、最重要項目だ。
こうして改めて全体を通して視ると、筆ペンを普段から使いなれていると感じる。教員って、誰しもが筆ペンを巧みに操れるのだろうか? そんなことはないだろう。そこから考えるに、書道に精通した人と限られてくるが、梅高に書道部は無い。ということは、国語科目の教員が一番濃厚だけれど、梅高の国語科の教員に、残念ながら女性はいない。昨年まではいたらしいけれど、寿退社したらしいのだ。風の噂曰く、美人で、教養があって、淑やかで、胸が大きくて、昔はレディースで頭を張っていたとか──それ、設定盛り過ぎじゃない? 霊感も強かったと訊いたことがあったけれど、ここまでくればファンタジーだ。
「教員の線は無い、かぁ……」
数学、理科、社会、体育、英語──それらの教職を総当たりするとさすがに骨が折れるし、そのうちの数人は筆ペンを巧みに操れるかもしれないけど、組み立てた仮説に自信が無い。
「あの日、あの時、あの場所で……」
どうにも、この一節がひっかかる。
手紙の主は小田和正のファンなのか? ──いや、もしそうだとしたら、他も歌詞も引用するだろう。つまりこの一節は、得てしてラブストーリーは突然になったのではなく、こういう言い回しが、僕と手紙主の間柄を適切に言い做す言葉だった──とするほうがしっくりくる。どこで出会ったんだろう。僕はそれらしい場所に検討を立ててようと、ここ最近の記憶を振り返ることにした。
文面と、学校という特定の場所から察するに、梅高関係者であることは、概ね間違い無い。教職員ではないと結論を出したのでそれを省くと……、三組の誰かと限定されはしないだろうか?
「僕の靴箱がどこにあるのかも知ってるしな」
梅高の下駄箱には、名前の記載が無い。クラスの割り当てはあるけれど、『お好きな下駄箱をどうぞ』というのが梅高流なのだ。
こういうところは大雑把なんだよな、梅高って。
過去に何かあったとも訊かないので、どうしてこういったスタンスになったのか、という経緯はわからない。単純に、面倒だったという理由なら怠惰ですねぇ。……だから、ペテルギウス様はもういいって。とどのつまり、僕の靴がどの靴箱に隠されているのかを知っている人物に限られてくる。やばい、どうして僕は『教員かもしれない』なんて疑ったんだろう、まじやばい。
僕の靴箱を知っている人物は、佐竹、天野さん、月ノ宮さんで、もしかすると宇治原君、関根さんも知っているかも知れない。だが、彼、彼女らが僕に手紙を書く理由が見当たらない──これは、昨夜に答えを出した。流星か? とも思ったけれど、流星は僕をそういう眼で見ていないと、本人から言われたしなぁ。
割と普通にガチで八方塞がりで、見当をつければそれを潰す、を往々と繰り返した。こんなことになるのなら、愛されるより愛したいマジで──母さんがまだ若い頃、この曲が人気だったらしく、今でもたまに掃除をしながら口ずさんでいる。そういう世代だったんだろう。未満都市。
「駄目だ。全っ然わからない」
全然の『然』に、ありったけの『降参』という意味を詰め込んで、「はあ」だか、「ぶはあ」だか、大きく溜め息を吐いた。
リビングから訊こえてくる掃除機の轟音が猛々しい。
そろそろ掃除機を買い替えてもいいのでは? 時々、掃除機の先端が壁にぶつかる音も訊こえてきて、問答無用で壁ドンされる掃除機を不憫に思ってしまう。サイクロン掃除機はもっとうるさいらしいけど、吸引力が変わらないのは素晴らしいし、何より手入れが楽だ。それに、フィールド状にある魔法カード、あるいは、トラップカードを一枚破壊できる。それは速攻魔法カード、サイクロン。岩石の巨兵は『月』を破壊できる。これは八百長。
──学校外に焦点を合わせてみよう。
例えば、ここ最近はあまり行かなくなった百貨店。いやいや、百貨店に出会いを求めるもは間違っているだろう。他だと、ダンデライオンくらいしか目星を立てられない。
そうは言ってもな……。
あの店に入り浸っているのは僕らくらいなもので、関根さんや流星がくることがあっても、それは手紙と繋がらない。
「琴美さんのイタズラ? ……ないな」
その線で考えると、弓野さんも無いし、村田美由紀というのも考えられない。ハラカーさんこと春原凛花も無いだろう。彼女には想い人がいる。僕の中学のクラスメイト、柴田健。通称『柴犬』と呼ばれている彼は、夏に一度、ファッションセンター島村で出会ったが、中学の頃よりもイキり散らかっていた。ハラカーさんの趣味をどうこう言うつもりは無いけれど、悪趣味だと言わざるを得ない。それとも、柴犬には忠犬ハチ公のような性質も備わっていたのか? それも無いだろう。いつも通り話が脱線してるンゴ。草ァ! ──こういうノリは性分じゃないな。
もやもやしてどうしようもないときは、流星にメッセージを飛ばすのが最も解決策に繋がる気がするが、それは単なる八つ当たりに他ならず。どうせ今日も出勤だろうから返信は期待せずに、『おはようアマっち』とだけ書いて送ってみたが、意外にも既読マークは直ぐに付いて、いつも通りの決まり文句が返ってきた。『そのあだ名で呼ぶな殺すぞ』君も、起床時間に起きることが習い性となっていたりするんだろうか?
* * *
「起きるの早いね」──既読
『考えごとをしていてあまり眠れなかった』
「考えごとって?」──既読
『あ? ああ、まあこっちの話だ』
「実は僕も、考えごとしていてあまり眠れてないんだよ」──既読
「もしかして運命かもね」──既読
『何の用だ』
「気つけ代わりに、流星に軽口をと」──既読
『殺すぞ』
* * *
以降、流星はうんともすんとも言わなくなり、無視を決め込んだ。
「……まあ、そうだよね」
流星だって、僕のサンドバッグにはなりたくないだろう。
「流星の考えごとって……なんだ?」
手紙と関係があることだったりするのだろうか?
「いやいや、まさかね」
そう、断言していいものだろうか──。
流星は僕の『考えごと』には一切触れてこなかった。それは『面倒に巻き込まれたくない』という意思表示とも考えられるけれど、僕が流星におうむ返しでメッセージを送信したとき、流星は『あ? ああ、まあこっちの話だ』と言葉を濁している。
──変じゃないか? と、違和感を覚えた。
もし、流星の悩みごとが、僕に関係の無いことならば、流星ははっきりと『お前には関係無い』と断言する。そうしなかった理由は、つまり、そういうことなのではないだろうか? 意図的に候補から外していたけれど、もしかして、〈らぶらどぉる〉の誰かが絡んでいる可能性もあるんじゃないか? ……誰? 役職の二人は候補から外す。あの二人は夫婦関係にあるらしいし、カトリーヌさんは、ローレンスさんを愛していると言っていいだろう。ローレンスさんだって同じだ。臆面もなく惚気話をするくらいだしな。正直、訊かされる側の気持ちも考慮して欲しいものだ。
「あの日、あの時、あの場所で──」
この一節を〈らぶらどぉる〉に当てはめてみると、これまたいっかな、パズルのピースがぴったりとハマったような気がした。
「流星は、絶対になにかを隠してる……」
この時間に出勤していないということは、午後勤務か、それとも休みかの二択。午後勤務だった場合は、二度寝してでも休息したいだろう。メイドという仕事はそれだけ重労働だ。
僕はもう一度、事の真相を確かめるべく、流星に電話をかけることにした。
【備考】
この度は『女装男子のインビジブルな恋愛事情。』をご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
今回の物語はどうだったでしょうか? 皆様のご期待に添えるように全力で書いていますが、まだまだ実力不足な私です。次はより面白い作品が書けるように、これからも努力して参ります。
【瀬野 或からのお願い】
この作品を読んで「面白い! 応援したい!」と思って頂けましたら、お手数では御座いますが、『感想・ブックマーク・評価、等』を、どうかよろしくお願いします。
【誤字報告について】
作品を読んでいて〈誤字〉、もしくは〈間違った言葉の使い方〉を見つけた場合は、どうぞご遠慮なく〈誤字報告〉にてご報告下さい。その全てを反映できるかはわかりかねますが(敢えてそういう表現をしている場合も御座います)、『これはさすがに』というミスはご報告を確認次第修正して、下記の【修正報告】に感謝の一言を添えてご報告致します。
「報告したら不快に思われるかも」
と躊躇されるかも知れませんが、そもそも『ミスしているのは自分の責任』なので、逆恨みするような真似は絶対にしません。どうかご安心してご報告下さいませ。勿論、誤字しないのが一番よいのですが……。
報告、非常に助かっております。
【改稿・修正作業について】
メインストーリーを進めながら、時間がある時に過去投稿分の改稿・修正作業を行っております。
改稿・修正作業はまだまだ終わりませんが、完成した分は『活動報告・Twitter』にて、投稿が済み次第お知らせ致します。
最後になりますが、現在ブクマして下さっている方々や、更新してないか確認をしに来て下さる方々、本当にありがとうございます。完結を目指してこれからも書いて参りますので、引き続き応援して下さると嬉しいです。
これからも、
【女装男子のインビジブルな恋愛事情。】
を、よろしくお願い致します。
by 瀬野 或
【誤字報告】
・現在報告無し