二百二十七時限目 鶴賀英美里は息子と語らう
翌朝、僕はいつも通りの時間に目を覚ました。
今日から三日間の休みであり、ダンデライオンへ行くのは昼頃。『久しぶりにサーモンサンドが食べたい』という僕の要望に合わせて集まることになっている。だが、起きてから気分はサーモンサンドではなくツナメルトサンドになっていた。朝、だからだろう。ツナはなんとなくだけど、朝に食べたい。ツナおにぎりとかいいな、と思いながら、強張っている体を手摺りで支えて、のっそりのっそり階段を下りていくと、リビングから珈琲の匂いが洩れていた。
「おはよう、母さん」
僕の読書趣味は母さんの影響だ。然し、母さんと僕の趣向は違う。僕は雑食だけれど、母さんはミステリーが好きなのだ。東野圭吾やアガサ・クリスティ、京極夏彦など、本格派のミステリー小説を好んで読んでいたけれど、最近は少し趣向を変えて、コメディ寄りの東川篤哉にも手を広げている。母曰く、『登場人物たちのやり取りが面白い』とのこと。以前、母さんにそう言われて物は試しにと、ポンコツな探偵と女助手の話を読んでみた。この作品はドラマ化もされているだけあって、なかなかに面白かった。ドラマは不批評だったけれど、映像作品にすれば、そういった声が上がるのは仕方が無い。アニメ原作の映画とかね? 何とは言わないけどさ。でっびーる。
母さんは食卓の椅子に座り、ホットコーヒーを飲みながら、朝のコーヒーブレイクを楽しんでいた。僕が居間に忘れていた、ハロルド・アンダーソンの最期の作品である〈It‘s a lie〉を片手に、真剣な表情でページを捲っている。僕が声を声をかけるまで、僕の存在に気がついてなかったらしい。母さんは視線を僕に移して、にっこりと微笑んだ。
「おはよう。よく眠れた? 朝食はどうする?」
「うーん、まあまあかな。朝食は自分で作るからいいよ」
「そう? サラダは冷蔵庫にあるからね」
「ありがとう」
まあまあとは答えたけれど、実際はそうでもない。夜遅くまで格安宿探しをしていたし、いざ眠ろうとベッドに潜ったものの、勉強卓に置いてある『風吹けば名無し』さんの手紙が気になって、なかなか寝付けなかった。それでもいつも通りの時間に起きるのだから、習性というのは恐ろしい。どんなに部屋の中が寒かろうと、脳が『起きろよ寝坊助』とするのだ。ダンデライオンに向かう時間まで、まだまだ余裕があるし、朝のルーティンをこなしたら、惰眠を貪るのも悪くない。然し、そうも言ってられないのだ。資料を精査しなければならないのと、もう少し、あの手紙について考えたい。
洗面台で顔を洗い、ごしごしと歯を磨くと、心做しか、頭の中に張っていた蜘蛛の巣のようなものが取れてすっきりした気がする。そうは言っても、巣を精製する大元を退治できていないので、暫くすれば再び元通りだ。鏡の前で無理矢理の笑顔を作ってみたけれど、これはどうも決まらないな。
朝食を作りに再びリビングへと戻ると、そこにはドンキで購入したであろう大仏の仮面を被った母さんが、黙して語らず、何事も無いように本を読んでいる。大仏様がハロルド・アンダーソンを読む姿は殊更にシュールだ。然も、着ている服は白のパーカーに黒のジーンズという現代仕様。聖なるお兄さんかな? 立川に住んでそうな佇まいだが、ここは生憎の埼玉である──どうして、僕の両親はこういったサプライズが好きなのか。それは、僕がまだ泣くのが仕事だった頃まで遡るのだけれど、今更、そこまで記憶を呼び起こすのも億劫だ。
「ねえ、母さん。息苦しさは無いの?」
「大丈夫よ。口元に切れ目も入れてあるから」
そう言って、近場にあったボールペンを咥えてみせた──なんて罰深いことを。シュールな絵面が、先程にも増して極まっている。
「そっか、頑張ってね」
僕はそれだけ言い残して、キッチンへと向かった。
大仏と食事をするなんて、おそらく、現代では僕が初めてではないだろうか? 大仏様は未だに、神妙な趣きで活字を追っている。
「そろそろさ、そのマスクを外さない?」
「そうね。そうさせてもらうわ」
大仏様はようやっと、人間のお姿になられた。僕は心の中で、『はんにゃーはーらーみーたーはんにゃーしんぎょーう』と唱えて合掌していると、薄ら汗をかいている母さんが、僕のほうに表紙を向けて本を差し出した。
「ヒューマンドラマはお母さんの趣味じゃないけど、いい作品ね」
とんとん、と右手の人差し指でタイトル辺りを小突きながら、左手を杖代わりに顎を乗せて、含蓄のある笑みを湛えている。
「その本はハロルド史上、最も売れた駄作らしいよ」
かつて、照史さんがそう言っていた──。
「そう? お母さんはいい話だと思うわよ?」
「読み終わったの?」
答えの代わりに、母さんは頭を振った。
「ねえ、優志」
「なに?」
「優志は〝嘘〟をどう思う? 優しい嘘も、悲しい嘘も、全て引っ括めて、優志はどう思うのか訊かせてくれない?」
そう一概に言われれも、明確な答えは出せない。
「必要なときに、必要なら──かな」
「答えになっていないわよ?」
「〝はい〟か〝いいえ〟で答えるなら、僕は〝はい〟を選ぶしかないかな」
母さんは特に何も言わず、続きの言葉を待っているかのように頷くだけだった。
僕はこれまでに何度も嘘を吐いた。それは、必要だったから吐いただけで、それ以上でも以下でもない。学校に行くのが面倒で、仮病を使ったこともあるし、買い物のお釣りをちょろまかしたこともある。指折り数えたら両手だけじゃ足りず、足の指を使ったって数え切れないくらいの量の嘘を、これまで往々と吐いてきた。
嘘を吐いたことがない人間なんて、この世に存在するはずがない。正直者だって例外無く、小さな嘘を積み重ねているはずだ。
それを言い訳にするつもりはないけれど、
嘘つきを正当化するようなこともしないけれど、
『知らないほうが幸せ』
という場面は数多にある──そのときに嘘を選ぶか、真実を選ぶかは人それぞれだ。
「……僕は嘘つきだからね」
「そうね。母さんだって嘘つきだし、父さんだって嘘つきよ。今日は接待ゴルフなのに、〝急な会議が入った〟って、家を飛び出していったんだもの」
同じ職場で働いているのに、よくもまあ、いけしゃあしゃあとバレる嘘を吐くものだ。我が父ながら、そういうところは抜作である。
「だから母さんね、送り出すときにこう言ってあげたのよ。〝ファー!〟って」
「父さんの焦る表情が眼に浮かぶようだよ」
「嘘が下手なところも、愛嬌があっていいじゃない」
──まあ、イケオジではあるかな。
父さんと母さんは、『旦那元気で外がいい』というような関係ではなく、『旦那元気なら共に外へ』くらい仲がいい。多分、性格やらなんやらが一致している似た者同士なんだろう。毎日帰宅が遅いのは──これは詮索しないと心に決めているけれど、母さんはもう子供を作ることができない体になってしまっているので、これから妹や弟ができることもない。
……難産だったらしい。
それ以上深く理由を訊くのは、母さんの精神面を傷つけてしまう恐れがあるので、『僕が難産の果てに生まれた』としか知らない。実は双子で、もう一人が女の子だった──としたら、今の僕がどうしてこんなことになっているかの理由にもなり得るのだけれど、そういう込み入った事情は無い。仮にそうだったとしても、僕はきっと、今のような事情になっているんだろう。それが、鶴賀優志という人間の有り様だったのだ。挫折、後悔、それらを繰り返して、受け入れて、また後悔する。だから今度こそ、同じ轍は踏まぬぞとしているのかも知れない。
「さて、そろそろ家事を始めようかしらね」
そう言って立ち上がろうとする母さんを呼び止めた。一応、まだ決定事項ではないけれど、温泉の件は通しておかなければならない。
「春休みなんだけどさ、もしかすると、友だちと一泊二日くらいの旅行に出かけるかもしれないんだ」
「あら、いいわね。お母さんもついて行こうかしら? ……冗談よ。そんな嫌そうな顔しないでくれる? 優志が心配しているのはお金でしょう? それくらい払ってあげるから心配しないで。父さんのへそくりがあるから大丈夫よ」
父さん、ごめんね。今度、肩叩き券でも発行してあげるから。
「でも、問題が一つあるわね……」
母さんは口元に指を当てて思案投げ首しながら、
「そこに女の子もいるの? ──その様子だと男女混合なのね」
僕の表情から読み解いたのか。……さすがは母親だと言わざるを得ない。
「旅と言っても険しい山道や、永遠の丘を目指すわけじゃないんでしょう?」
こういう言い回しは、母親譲りなんだろうな──。
「宿泊は旅館かしら? まあ、なんて贅沢なのかしら!」
「ご、ごめんなさい……」
「冗談だって。でも、そうなると──」
母さんはそこで言葉を止めて、うーん、と唸った。
「優志はどっちのお風呂に入るのかしら? 男湯? それとも女湯?」
ぞわり──と、背筋が一瞬にして凍りつく。
「お、男湯に決まってるじゃないか……」
然し、母さんは僕の言葉を待たずに続けた。
「優志は〝嘘〟をどう思う? 優しい嘘も、悲しい嘘も、全て引っ括めて、優志はどう思うのか訊かせてくれない?」
これはもう、死刑宣告と言ってもいいだろう。
「〝はい〟か〝いいえ〟で答えるなら、僕は〝はい〟を選ぶしかない──か、な」
母さんは気づいていたんだ。
僕も僕で、色々と迂闊だったのかもしれないけど、バレないように最善は尽くした。洋服だって、わざわざコインランドリーで洗濯したし、化粧道具も箪笥の奥に隠してある。たまに購入している女性用ファッション雑誌だって、机の引き出しに鍵をかけて保管したりもしていたし、穴はなかったはずだ。それでも母さんは気づいて、わざわざここまでお膳立てをしたんだろう。……おかしいとは思ったんだ。母さんが僕の眼の前にある本を、興味本位で読むはずがない。ミステリーとヒューマンドラマでは、丸っ切り毛色が違う。スターウォーズとショーシャンクくらい、別物の作品だ。仏様のマスクを被っていたのは、『全てお見通しである』という意思の表れか──そればかりは考え過ぎだろう。
「優志、何か弁明はある?」
「〝ファー〟って言いたい気分だよ……」
「ふふっ。なんでも隠し通せると思ったら大間違いよ?」
「そう、みたいだね。御見逸れしました──怒ってる?」
怒る? どうして? と、母さんは首を傾げる。
そりゃ、僕だって怒られるような謂れはないけど、胸を張って言えるような事情でもない。母親からすれば、腹を痛めて産んだ我が子が、まさか女装を趣味としていたなんて、驚天動地の真実だ。
知らぬが仏ということであのマスクか! ──多分、そういうことでもないだろう。
「息子がこんなので、恥ずかしいって思うでしょ」
「そんなこと、ちっとも思わないわよ」
「え?」
「確かに驚きはしたけど、怒るようなことじゃないわよ。優志は優志らしく、優志の人生なんだから、優志がしたいようにすればいい──でもね、自分がすることの責任は、自分で取れる範囲でしなさい。あと、この件はお父さんにも伝えるけど、今度、優志から父さんに話しなさい。いいわね?」
「はい」
そういう流れになるだろう、とは思っていた。でも、いざそうなると体が震えて止まらない。女装は悪いことじゃないし、法に触れることでもない。ただ、親バレというのは相当に堪える。穴があったら入りたいレベルじゃない。蓋をして、そのまま穴の中で一生を終えたいくらいの絶望感だ──もぐらになりたい、そう思った。もぐらになって、地中深く掘り進んで、ブラジルまで到達したい気分だった。
「ねえ、優志。訊かせてくれる? どうして優志がそうなりたいと思うようになったのか、その経緯を」
僕は首肯して、これまで何があったのか、僕に何が芽生えたのか、それを洗いざらい吐こうと、観念の臍を固めた。
【備考】
この度は『女装男子のインビジブルな恋愛事情。』をご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
今回の物語はどうだったでしょうか? 皆様のご期待に添えるように全力で書いていますが、まだまだ実力不足な私です。次はより面白い作品が書けるように、これからも努力して参ります。
【瀬野 或からのお願い】
この作品を読んで「面白い! 応援したい!」と思って頂けましたら、お手数では御座いますが、『感想・ブックマーク・評価、等』を、どうかよろしくお願いします。
【誤字報告について】
作品を読んでいて〈誤字〉、もしくは〈間違った言葉の使い方〉を見つけた場合は、どうぞご遠慮なく〈誤字報告〉にてご報告下さい。その全てを反映できるかはわかりかねますが(敢えてそういう表現をしている場合も御座います)、『これはさすがに』というミスはご報告を確認次第修正して、下記の【修正報告】に感謝の一言を添えてご報告致します。
「報告したら不快に思われるかも」
と躊躇されるかも知れませんが、そもそも『ミスしているのは自分の責任』なので、逆恨みするような真似は絶対にしません。どうかご安心してご報告下さいませ。勿論、誤字しないのが一番よいのですが……。
報告、非常に助かっております。
【改稿・修正作業について】
メインストーリーを進めながら、時間がある時に過去投稿分の改稿・修正作業を行っております。
改稿・修正作業はまだまだ終わりませんが、完成した分は『活動報告・Twitter』にて、投稿が済み次第お知らせ致します。
最後になりますが、現在ブクマして下さっている方々や、更新してないか確認をしに来て下さる方々、本当にありがとうございます。完結を目指してこれからも書いて参りますので、引き続き応援して下さると嬉しいです。
これからも、
【女装男子のインビジブルな恋愛事情。】
を、よろしくお願い致します。
by 瀬野 或
【誤字報告】
・2019年11月17日……誤字報告にて修正。
報告ありがとうございます!