二百二〇時限目 彼と彼女は変貌を遂げる
カトリーヌさんが『男の娘』だと知った時の奏翔君は、洗礼されたその姿に一驚していた。
天野姉弟がその事実を知ったのは、二階にある衣装室で、『女性の前で裸になるのは恥ずかしい』と、奏翔君が服を脱ぐのを躊躇った際に、カトリーヌさん自らが、当然のように言い放ったからである。それまで奏翔君も、そして、この場で行く末を見守っている天野さんも、まさか、『カトリーヌさんが男性だった』とは、微塵にも思っていなかっただろう。それだけ、カトリーヌさんの姿、そして、声が『女性そのものだった』のだ。僕だって、真実を知った時は驚きを禁じ得なかったし、二人のリアクションは必然的だった。
「後は、ウィッグにヘッドドレスを付けて──」
以前、衣装室を訪れた際には、気が動転していて気がつかなかったが、今日、改めてこの部屋を訪れて、どうしてこの部屋が『衣装室』と呼ばれているのか、その意味を理解した。
この部屋には、メイド衣装や燕尾服以外にも、ありとあらゆる事態に備えているのか、季節限定衣装──女性用のサンタクロース衣装やナース服、他にもどの用途で使われるのかわからない品々──が多数保管してあり、ウィッグの種類も豊富に取り揃えてある。その中に一つ、見覚えのある金色ロングのウィッグが表情の無いマネキンの頭部に。昨日、エリスが変装に使っていた物だ。奏翔君が選んだウイッグは、ブラウンのセミロング。丁度、天野さんの髪型にそっくりなウィッグ。徐々に仕上がっていくその姿は、無意識に姉を参考にしたかのようだった。
「──メイク終わりです。お疲れ様でした」
パイプ椅子に座って、時折、鼻を撫でるブラシの感触に耐えていた奏翔君は、ほっと安堵したかのような息を漏らして瞼を開く。
「どうでしょうか」
カトリーヌさんは、横に置いていた黒い手鏡を取り、その鏡を向けながら奏翔君に訊ねた。
「……」
絶句──鏡に映った自分の姿が信じられないのだろう。その光景は、僕が初めて琴美さんに女装させられた時と重なった。まだ数ヶ月しか経過していないのに、随分昔のことのように感じる。
「優志君も、あんな感じだったの?」
僕の隣で、ずっと沈黙していた天野さんが、変わり果てた弟の姿に唖然としながら呟いた。
「うん。あんな感じだったよ」
「……そう」
呆れている──ではなく、『諦める』に近い声音だった。姉としては複雑な心境なのだろう。自分の弟が『女性になる姿』を一部始終見ているというのは、雛鳥が巣立っていく姿ではなく、雛鳥が『他の鳥へと変貌していく様子』に、茫然自失としているようだった。
「大丈夫?」
「弟が本当に、女装に目覚めてしまったらどうしよう──そんな事ばかり考えてしまうわ」
「やっぱり、……嫌なんだね」
けれど、天野さんは頭を振った。
「嫌ではないの。ただ、複雑なだけ。これから奏翔と、どうやって向き合えばいいのか、それだけが不安」
その気持ちは、まだ頑是無い子供だった頃から、『弟』として奏翔君と接してきた天野さんにしかわからない、漠然とした不安なのだろう。『受け入れる』と『諦める』は似て非なるもので、天野さんはそのどちらとも言えず、ただ黙して、成り行きを見守っていたに違いない。
「──どう、かな」
すっかり『メイドさん』に様変わりした奏翔君が、はらはらと鬼胎を抱きながら僕らに問う。
「うん。いいと思うよ」
隣で思案に余るようにしている天野さんを思うと、そうとしか言えなかった。カトリーヌさんの腕前は、さすがは熟練者だと言うだけあり、非の打ちようが無い。駆け込むように訪ねた僕らの要望に、見事応えてくれた。
「姉さん」
「え? あ、うん。可愛いわよ、……すごく」
その言葉に、嘘偽りは無いと僕は感じた。だからこそ、姉である天野さんは当惑しているんだろう。可愛い──そう、確かに可愛いんだ。素の素材がよかった。今回はメイド服だが、女性服を着せればもっと変わるんだろう。パットを使って胸を膨らませれば、更に女性らしくなる。解説は、私、鶴賀優志がお送りしております。
素直に『可愛いくなったわね! 素敵よ』と褒めてあげられない姉の心境は、僕の想像では言い表わすことができない。〈あれ〉とか、〈それ〉とか、そういう酷く曖昧な言葉を紡ぐのならば、口出ししない方が懸命だ。
「どう? 実際に〝女装〟してみた感想は?」
代わりに、本懐を遂げた奏翔君に質問してみる。
「よくわからないです」
「だよねぇ」
女装はしたが、心は『天野奏翔』のまま。僕のように切羽詰まった状況でもない限り、全てを変えるのは難しい。……そう考えると、僕はなかなか頑張った。『感動した!』と褒めてくれる人はいないけど。天野チルドレンは、二人共に気まずそうで、視ている僕まで居た堪れない気持ちになる。
「──では次に、お姉様のお着替えと参りましょうか」
カトリーヌさんは空気を読まず。いや『敢えて言明は避けた』と言うべきか、自分のなすべき事だけを視野に入れているようだ。それはまるで、アスリートのようなメンタル。ストイックに仕事をこなす姿こそ、『カトリーヌさんらしい』と言えばらしいのだが……。
「あ、あの。……本当に着替えなければいけないんですか?」
「ええ。そういう契約ですから」
はあ……と大きな溜め息を零して、天野さんはカトリーヌさんの元へ向かい、どのサイズが適正なのかを、カトリーヌさんは巻尺で測り始めた。
「……二人共、いつまでそこにいる気?」
「あ、ああ。ごめん。奏翔君、廊下で待ってようか」
「そうですね。姉の裸に興味は無いですし」
家族の裸に興味を持っていたら、それはそれであれでそれだ。もう、これがああなってそうなってしまうのだけれど、ここまで曖昧な表現をふんだんに取り入れなければならない状態というのも珍しい。
多くは語らず事勿れ、だ。
──この言葉の意味は特に考えてない。
* * *
二人が廊下に出て行ったのを見送り、私は再度、大きな溜め息を吐いた。
──どうして、こんなことになってしまったんだろう。
胸の内を晒け出すのであれば、これ以外の言葉は浮かばない。
「私が寸法を図るのが嫌ですか?」
「いいえ!? ──ごめんなさい。この溜め息はそういう意味ではなくて、その」
「弟さん、奏翔君の姿を直視できない──ですか」
……ああ、そうだ。
私は、奏翔の『あの姿』を、直視できないでいた。家でこそ『寛容な姉』を演じてみせていたけれど、いざ、こうなってしまうと、どう反応するばいいのか思案に余る。
奏翔は、私が想像していた以上に可愛いくなっていた──それは事実。
そうは言っても、奏翔は『弟』であり、『妹』じゃない。それは、どうしても覆す事はできない。これならばいっそのこと、『女の子になりたい』とカミングアウトしてくれた方が、まだ遣り切れた? ──ううん、それはそれでどうだろう。きっと私は、仰天同地と泡を吹いてしいまうかも知れない。
奏翔は真面目で、家族想いの優しい子だ。『あんな事』があってから、反抗的な態度を取るようになったけれど、それは致し方無いと割り切れる。
けれど──
『女装をしてみたい。姉さんの許可が下りないと、鶴賀先輩が許してくれないから、姉さんの許可が欲しい』
あんなに真剣な眼差しを向けられたのは初めてだったし、奏翔にも思う所があったのは理解できる。でも、どうして女装? 優志君のユウちゃんになった姿が、それ程までに印象深く心に刻まれたの? 自発的な行動は大いに結構。でもなぜどうして、女装という奇抜な趣味を選んだんだろう。
男の子ならゲームとか、ギターとか、そういう方に目が向くんじゃないの?
──理解に苦しむ。
「恋莉さんは胸が大きいですね。カップのサイズはDですか?」
「物によりますけど、最近、また大きく……って、どさくさに紛れて何を言わせるんですか!?」
「重要なことです。燕尾服は、主に、男性が嗜む礼服ですから、女性が着用するとなると、女性用を購入するのが適正です。しかしながら、さすがにこの店の予備に、女性用燕尾服は取り揃えていませんので、サイズ選びは慎重にしなければなりません」
「そう、なんですか……」
カトリーヌさんはこんな見た目だけど、一応は『男性』なのよね……? いや、まあ、もう既に胸を晒してしまっているので、それを騒いだ所でどうしようもないのだけれど、異性に胸を見られるのは、やっぱり、いい気分はしないわね。
「もしや、私の性別を気にされていますか?」
──バレた!? え、どうしてバレたのかしら?
「先程から、表情が険しいので」
「そんなに顔に出てましたか? ……正直に言うと、ちょっと抵抗があります」
「ご安心させられるかはわかりませんが、……私の夫はローレンス様です。私はこの世に生を受けてから今まで、自分の性別を〝男性〟と思った事は一度もありませんし、恋愛対象は男性です。女性の体を見て欲情するような、生半可な女ではありませんので、どうかご安心ください」
──何してるんだろう、私。
人にはそれぞれ事情があるのに、それを確かめもしないで。
「すみませんでした」
「いいえ。お気になさらず。もう慣れていますから──苦しくはないですか?」
「え?」
私の胸部に、白木綿の布がぐるぐると巻かれていく。宛ら、私はミイラにでもされるのではないか? その布はお臍の下辺りまで巻かれて、小さな金具で固定された。苦しくないか──とは、晒の締め具合のことであり、私の心境を案じる言葉ではない。
「これくらいなら大丈夫です」
「そうですか。では、燕尾服を着ましょう」
淡々と事が運び、いつの間にか私は、燕尾服に身を包んでいた。
「後は髪ですが……そうですね、後ろに束ねましょう。ワックスを使うわけにもいきませんから。眼帯もしますか? ──冗談です」
「あ、あはは……」
眼帯? 一体、カトリーヌさんは何の冗談を言っているんだろう? ゲームか漫画に、そういう登場人物がいるのかな? 後で優志君に訪ねてみようっと。
「完成です──これはまた、素晴らしい逸材を見つけてしまいました」
* * *
「絶対、姉さん怒ってた……」
廊下の隅で、奏翔君は、全身から悲壮感を漂わせている。
男子更衣室の鍵を、衣装室に行く前に渡されていた僕は、奏翔君の『全身を視てみたい』という要望に応えて、更衣室の姿見で確認させた。その時は、「おお」とか、「すごい」とか、佐竹よろしくな佐竹り方をしていた奏翔君だったのだが、次第に現実へと引き戻されて、現在、誰がどう見ても自己嫌悪中である。
「いや、怒ってないと思うよ? ただ、どう向き合うべきなのか、わからないんじゃないかな」
「そうですかね……。あの、鶴賀先輩」
身を縮めて座り込んでいる奏翔君は、壁に寄りかかって立っている僕を、下から見上げるように視る。『天野奏翔は〝上目遣い〟を覚えた』なんてテロップが、僕の頭の中で流れた。
「なに?」
「先輩はどうして、女装しようと思ったんですか?」
「それは、ええっとねぇ……」
真実を述べるとしたら、『佐竹に女装を強要されたから』なんだけど、これを伝えるのは、あまりよい選択とは言えないだろう。それに、奏翔君はそういう事を僕に訊ねているわけじゃない気がする。心構えや、心積りとか、決意的な心得がどうの──そういうのを引っ括めて、『気構え』を訊ねているんだろう。意味は須らく似た物だが、一つ一つのニュアンスは微妙に異なる。
「僕が女装をしようと本格的に思ったのは、実は、つい最近のことなんだよ」
「え? そうだったんですか?」
「奏翔君は、自分の中に宇宙──じゃなくて、〝女性〟を感じたことはある?」
わかりません──と、奏翔君は塞ぎ込むように答えた。
「僕はね、奏翔君。女装をしている時の方が、自分を上手く表現できると確信する事件、のような経験があってさ。それでも、〝女装は趣味のようなものだ〟と割り切っていたんだけど、とある友人に、〝お前は両性だ〟と断言されてね。その時思ったんだ。〝ああ、だから女装している時は心を軽くしていられたんだ〟って」
「それは、……どういう意味ですか?」
どういう意味、か。
「性別に拘る必要は無い──かな。恋愛もそう。同性の恋愛はタブーとされているけれど、犯罪ではないよね。それで誰かを不幸にさせるわけでもないし、不快感を示す人も多いけれど、触らぬ神に祟りなしとしていれば問題じゃない。問題だとするならば、それは自分なんだよ」
こうしなければならない、ああしなければならない──世間は言う。然し、その実態は、子供のように『受け入れられない』と騒いでいるだけに過ぎないのだ。『ネットキッズ』という言葉を僕はよく目にするけれど、それは『精神的に幼い』という事を皮肉った言葉だと思う。
「なりたい自分になる事に、他人の許可なんて要らないんだ。女装だってそうだよ、僕の許可も、お姉さんの許可だって、本来ならば必要無い。──やりたいことをやればいい。そうして過去の偉人たちは、偉業を成し遂げていったんだから」
──僕はきっと自宅に帰り、自室に戻ったら、『どうしてあんな偉そなことを、臆面もなく言い放ったんだろう。僕のばかばか!』と悶絶するだろう。何なら、今からでもそこら辺の廊下で、『死にたい! ああ、死にたいよー!』と喚き散らしたい気分だ。
「……鶴賀先輩って、実はコミュ力高くないですか?」
「そうでもないよ。今はただ、こんな僕を〝先輩〟と呼んでくれる誰かさんに、見栄を張ってるだけ」
「それでいいと僕も思います。先輩という存在は、後輩に見栄を張ってなんぼですからね」
学校でも、社会でも、先輩とはそういう存在なんだ、と、僕らは一笑した。
「鶴賀先輩の言葉の意味はよくわかりませんでしたが、なんだかすっきりしました。ありがとうございます」
「当然のことをしたまでさ。先輩としてね」
またそれですか──と、奏翔君は朗笑する。
そんな最中、衣装室のドアが開き、燕尾服を身に纏った麗人が、その姿を表した。
【修正報告】
・2021年2月24日……誤字報告箇所の修正。
・2021年6月28日……誤字報告箇所の修正。
報告ありがとうございました!