二百一十二時限目 彼女は知らぬ存ぜぬと都合よくする
こつりこつりと小雨が窓を叩く音が訊こえる。
午後から雨が降る確率は三割程度だったのにな、とげんなりしながら肩を落とした。
私は俗に言う『雨某』ではない。……多分、きっと、おそらくは。そういう迷信めいた事象に踊らされるような私ではないけれど、駅までも道程を思うと気が滅入ってしまうなぁ。窓を叩く音の間隔が徐々に早くなってきているので、帰る頃には本降りになっていそうだ。コンビニに立ち寄って傘を買うか。余計な出費が嵩んでしまうのは頂けないけど仕方が無い。
この店にある傘を借りるという選択肢も無きにしも非ずだが、返却する事を考えると、自宅に余分なビニール傘が一本増えた方がマシだろう。傘は消耗品だしさ? なんて言い訳をしていても、いつかは箪笥の肥やしになるのだ。なんて贅沢な話だろう。もったいないおばけも全力で祟る件。そのおばけが美少女だったら、他のおばけも美少女化される。鬼太郎の猫娘がその代表──雨が降ってきたという話からここまで脱線できるのは、これはもう一種の才能かもしれない。そんな才能いらない。
* * *
事務所に戻ると、エリス、ローレンスさん、そしてカトリーヌさんの三人が部屋の中央で向かい合いながら、三者三様に腕を組んで睨めっこをしている。
場の雰囲気から察するに、大まかな話し合いは終わったのだろう。
とどのつまり、『私待ち』と言った所か。
着替えるだけだったのに、謎のショートボブ女子と搗ち合ってしまい、余計な時間を食ってしまったからなぁと反省。
「遅くなってすみません」
「何かあったか」
「まあ、色々あって」
エリスの問いに対し端的に返すと、「そうかい」と興味も無さそうに返された。エリスが訊ねたんだよね? と訝しんでも、効果はいまひとつのようだ。
事務所内の空気が悪いのは、私が待たせてしまったからという理由だけではないはず。
そんな事でここまで空気が重くなるなら、ここにいる三人は相当な短気と言えるけれど、この三人、特にローレンスさんとカトリーヌさんは、つまらないことで目くじらを立てるような、程度の低い人間ではない。
「何の話をしてたの?」
「いろいろ」
お返しだ、と言わんばかりにオウム返しされてしまった。
エリスの冷めた顔が癪に障る。
もう! いつも似たり寄ったりな顔して! と、ここで暴れるわけにもいかないので、所在無さげに「ふーん」とだけ、せめてもの抵抗をしてみた。
「エリスから厳しい意見を貰っていた所ですよ」
ローレンスさんは表情を和らげて、「すみませんでした」と謝罪した。
「情状酌量の余地があるとするならば、言い訳の一つや二つもしたい所ではあるのですがねぇ」
その言葉を訊いたカトリーヌさんの眉がぴくりと反応したのを、私は見逃しはしなかった。
「だからあれ程〝やめた方がいい〟と申し上げたんです」
エンターテインメントに無理は付きものですよ、とローレンスさんは一笑したが、カトリーヌさんの表情は先程よりも険しくなった。
カトリーヌさんはここ数時間で、頬が少し窶れたような気がする。それだけ心労が溜まってしまったんだろう。
自由気ままな店主を持つと部下は苦労しますね、なんて嫌味は黙っておく。
「結局の所、私はどうしてメイド服を着させられたんですか?」
「実際にメイドになってみれば、この仕事がどういうものなのかを知るには手っ取り早い──と言うのは建前で、単純に興味があったんです。優梨さんのメイド姿がどれ程のものかを、ね」
メイド喫茶でメイドに扮するなんてそうそう起きるイベントではないから、ローレンスさんの言い分には一理あるのだけれど、『いい経験になった』とまでは言えない。『優梨の姿なら、過激な露出がある衣装でなければ、それなりに楽しむくらいの余裕がある』という発見ができたくらいだ。それだけでも『メイド服を着てよかった』と思える材料になり得るが、口に出せばローレンスさんが再び勧誘をしてくるだろう。そうなるとさすがに煩わしいので、胸の内だけに留めておく。
「だからってコイツの友達まで巻き込むのは勘弁して欲しいです」
「まあまあ、そう睨まないでくれたまえ。それに、楽しんでいたのは事実なのだから、ここは〝そういうこと〟にしておこうじゃないですか……ねえ、優梨さん?」
「はあ……あ、そうだ。さっき〝ショートボブの女性〟に会ったんですけど」
私がそう言うと、
「彼女の名前は文乃です」
カトリーヌさんが眼鏡の位置を直しながら答えた。
キラキラネームが満映している昨今、〈文乃〉とはまた古風な名前だ。そうであっても、あの風貌から『泡姫です』と言われてもぱっとしない。『名は人を表す』ということわざに照らし合わせてみれば、彼女の名前も納得だ。
「多少抜けている所が長所なんですよ、彼女は」
ローレンスさんは鼻を高くしているけれど、ご本人からすれば紛れも無く短所だ。それを『長所だ』などと豪語される気持ちといったら、もぐらにでもなりたい気分だろう。私なら蟻の巣にだって身を隠したい。アントマンでもなければ無理だけど。
「メイド名は〝マリー〟だ」
な、なんて安直なネーミングなんだ……。
「あの。メイド名を考えるのはご本人なんですか?」
「基本的には私が。……何か問題でも?」
そんなに眼鏡の奥から眼光を滾らせなくてもいいでしょう? 怖いですよ? カトリーヌさんはその見た目も相俟って、物怖じせぬ態度といい、有無を言わせないようなオーラを醸し出しているから、『普通過ぎませんか?』なんて口が裂けても言えない。
「い、いえ。とてもメイドらしい名前だったので」
「私は〝アン〟と言ったんですけどね? どうしてもと譲らないもので」
そこまでしてカトリーヌさんは、彼女の事を『マリー』と呼びたかったんだろうか? カトリーヌさんの拘りには、どうしても癖がある気がしてならない。
「彼女は〝マリー〟以外にありませんので」
「どっちも大差無いだろ」
エリスの辛辣なツッコミが静寂を呼び込んだ──。
「そろそろ優梨さんをお返ししなければなりませんね」
時計の針は、私達がこの店に来てからかなり進んでいる。ここまで長いするつもりはなかったけれど……あまりゆっくりする事もできなかったなぁ。私はこの店に何をしに来たんだっけ?
らぶらどぉるに行くと決まってから、『一悶着は避けられまい』と覚悟していたつもりだった。でも、ここまでの面倒事に巻き込まれると、一体誰が予想できようか? そろそろ『トラブルメーカー』のトロフィーを獲得できそう。……なんて不名誉なトロフィーだ。私がトラブルを引き起こしているわけでもないのに。どちらかと言えば巻き込まれているので、そろそろ『巻き込んでますよ』とリプライを送りつけてやりたい。
「エリスも、どさくさ紛れにサボるのは感心しませんよ」
「〝エリスも〟ってことは、もしや私も含まれているのかい?」
「当然です」
「これはこれは、どうも手厳しい──」
こういう弄りをするのは、カトリーヌさんがローレンスさんを慕っているからだろうなぁ。私がカトリーヌさんを一瞥すると、ほんのちょっぴり広角が上がるくらい、笑っているように視えた。
「行くぞ、優梨」
「うん。いこっか」
失礼しました──と事務所を出る間際に、満身創痍っだったのだろうなぁ。カトリーヌさんは無警戒に、自分のパソコンチェアーに崩れ落ちるように座った。
そんな姿を視てしまったもので、途中の廊下でエリスに「カトリーヌさんって緊張しいなの?」と訊ねてみた。
「緊張しいというか、あれは気疲れだろうな」
「緊張するから気疲れするんじゃないの?」
「どっちでもよくないか」
「まあ、それもそうだね」
ホールに出るドアの前で、エリスはふっと立ち止まって踵を回した。雰囲気がさっきまでとは違う。
「──今日はどうして天野は一緒じゃないんだ」
「それは」
「まあ、なんとなく事情は察しているけどな。月ノ宮が弱ってるなら天野だってそうだろ。どっかでフォローしてやれ」
現状では、楓ちゃんとレンちゃんを引き合わせていいのかその判断が付かない。
今でこそはしゃいでいる楓ちゃんだけど、現実逃避しようと躍起になっているだけだ。私達がいなくなった後、虚無感に襲われて自暴自棄になってしまうかもしれない。
私だってレンちゃんの事は気になっている。エリスに言われなくたって、充分に理解しているつもり。でも、よかれと思って出た行動が裏目に出るなんて珍しい話じゃない。だからこそ今日は、楓ちゃんに元気を取り戻してもらうべく付き添っているんだ。
「わかってるよ。……そんなこと」
「そうか。ならいい」
そしてエリスはドアノブに手を掛けた。
「女ってのは面倒臭いだろ。それでもお前は──」
最後の言葉は、賑やかなホールの喧騒に掻き消されて訊き取れなかった。
──でも、何となく察しはつく。
だから私はそのままに、訊こえなかった声を訊こえなかったとして、知らぬ存ぜぬを貫いた。
【備考】
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【誤字報告】
・2019年10月6日……史乃→文乃に修正。
・2021年2月19日……誤字報告による指摘箇所の修正。
報告ありがとうございます!