一百九十一時限目 そして僕らのチョコはレートを上げてパーティーはサークる ④
「私、琴美からアナタの事を訊いて確信したのよ」
僕は弓野さんの気迫に気圧されて後方へと追いやられた。気がつけば背中に打ち付けのコンクリート壁が触れて、逃げ場所は無い。
「本当は自分でもわかっているのよね。でも、それを否定すれば、今までの自分を、これまで生きてきた全てを否定してしまうようで怖い……違うかしら?」
「な、何を言って──」
「大丈夫よ、お姉さん。ちゃんとわかってるから」
弓野さんは僕との距離をどんどんと縮めていく。
それは正しく、獲物を捉えた蛇のよう。
舌嘗めずりするかのように一舐めした唇は、妖しくも美しく、艶やかに輝く。だが、その艶めいた唇には毒がたっぷりと浸透している。
僕はその毒牙に掛かった獲物。
後一歩距離を詰められたら、弓野さんの毒を体に受けて、張り裂けそうなくらい脈打つ心臓の動きも止まるのだろう。
「さあ、これでアナタは逃げられない──」
弓野さんの唇から、甘い吐息が僕の耳にかかる。
嗚呼、僕はもうこの人に何もかも奪われてしまうのか──そう覚悟した時だった。
「とっても可愛いらしいわぁ……」
──え?
僕の両頬に、これまでの人生で経験の無い、柔らかでいて弾力のある感覚を感じて閉じた眼を開く。
僕はこの状況をどう言い表せばいいだろうか? そうだな、喩えるならばラノベにありがちなラッキースケベとでも言うのだろう。主人公が鼻を伸ばしてだらしない表情をしているのはちょっとエッチなやつ。なるべく気にしないように澄まし顔で耐え忍ぶのは異世界転生、転移系。どちらにも言えるのはハーレム。それなら僕はどうなのだろうか? 年頃の男子高校生であるならば前者だろう。春日部在住の五歳児のように、欲望を晒け出すのが普通なのかもしれない。逆に、後者であればヘタレ根性満載に、一人になった時『ふう、危なかった』と他人事を決め込むのが定番。そのどちらも選べない僕は、本当に甲斐性の無いヤツだと言わざるを得ない。
僕は弓野さんに抱き締められて、頭を撫でられ、頬擦りされて、一通り満足した弓野さんに苦言を呈した。
「あの、一体何なんですか……」
「ごめんなさいね。私、両性具有もイケる口だから」
どれだけレパートリー広いんだこの人……いや、もう深くは語るまい。
確かにこの人は厄介だ。ある意味、その厄介さは琴美さんを凌駕する。琴美さんのは〈ネタ〉として受け取れるけれど、弓野さんの場合は眼が本気であり、鬼気迫るものがあった──過激派、という言葉が相応に似合う人なんて、革命家であるチェ・ゲバラくらいなものだと思っていたけれど、この人の場合、性に関して貪欲であり、欲望のままに動く獣そのもの。遠目からカウンターでミユキさんと談笑している時は『綺麗な人だな』と思ったけれど、中身を知ったら欲望の権化。弓野さんが扱う化身の能力はきっと、フィールドにいる選手を悩殺する『色欲のサキュバス』に違いない……天馬君が悩殺されるシーンなんて観たくないなぁ。ブロッコリー先輩に期待はするな。
「もういいですから、……着替えるので出ていってもらえますか?」
乗り込むはずであった市営バスにはもう間に合わないだろう。だから、次のバスを逃すわけにはいかない。もし逃してしまえば遅刻は確定、月ノ宮さんの予定を狂わせてしまう。
「何で出ていく必要があるのかしら……言ったでしょう? 女の子にしてあげるって」
ちらりと向けた視線の先を辿ると、僕が用意した道具一式の隣に、見覚えの無い黒のトランクが置いてあった。
「さあ優梨ちゃん……仮面を剥がすのよ!」
月影先生が訊いていたら、鬼のように怒り狂うであろう台詞を堂々と宣言。……このパターンは琴美さんと同じ。
言い出したら訊く耳持たないのは、恋人同士だからか──。
* * *
あまり時間が無いはずなのに、完成した姿を鏡で確認した私は、これまでに無い衝撃を受けた。
仮にも師匠である琴美さんの腕も然ることながら、師である琴美さんの恋人である弓野さんの腕はそれを遥かに上回るもので、むしろ、鏡に映る私が優梨である事すらわからなくなる程だった。
──正直な所、驚きで声が出ない。
「私、メイクアップアーティストになるのが夢だったのよ。だから琴美よりもメイクには自信あるわ」
弓野さんはパレットのような化粧道具を巧みに操り、地肌を滑らかに走る魔法のような筆を何本も使い分けながら、あっという間に私を〈女の子〉に仕立てあげた。
「でもね、優梨ちゃん。これは私の腕がいいだけじゃないの。アナタが本来持っているものが素晴らしいからよ。いたいけな瞳、小さく控え目な鼻、きめ細かい肌、どれをとっても女の子なのよ」
まるで洗脳されていくようだ、と私は思った。
弓野さんの言葉には、それを促す暗示のような響きがある。
話し方がそうさせているのか、この人の纏うミステリアスなオーラがそうさせているのかは、まだ判断できないけれど、脳に直接言い訊かせるような口調は、魔女の淫靡な囁きに近い。
「ねえ、優梨ちゃん。アナタは、……本当は女の子なんでしょう?」
「わ、私は……」
「──いいえ、答えなくていいわ。私はわかるの。アナタが本当に欲しているものが。だから私はそれを与えてあげただけに過ぎないわ」
心が、ふわりと浮つくのを感じた。
全ての枷が外れて心が開放感で満ちていくのを、脳が受け入れ始めている。
「ちゃんと鏡を視て、……アナタの名前はなに?」
「優──」
突如、ドアを叩く音が倉庫に転がり込んだ。
「そろそろ向かわないと時間に間に合わないわよ。紗子、まだ時間かかりそうなの?」
ミユキさんの声にはっと意識を取り戻した私は、霧が晴れたかのように視界が広がるのを感じて、自分が今、何をして、何をしようとしていたのかを思い出した。そう、私は倉庫で手早く着替えて市営バスに乗らなければならなかったのだ。
「ええ、もう終わったわ」
弓野さんは触れていた両肩から手を離して、
「それじゃ、そろそろ向かいましょうか」
何事も無かったかのように後片付けを始めた。
「優梨ちゃんは着替えちゃってね。さすがに着替えまでは手伝えないから……ブラなら手伝えるけど?」
「だ、大丈夫です!」
弓野さんが荷物をまとめている間、私はその後ろで着替える──不思議だったのが、下着を履き替えるのを躊躇しなかった事。どうしてか、弓野さんが同席しているはずなのに、私はまるで『それが当然だ』と思うくらい、躊躇う事もせずに全ての着替えを終えた。
「優梨ちゃん、準備はいい?」
弓野さんは右手の人差し指に車の鍵のリングに指をを通してぐるぐると回しながら、「私の車で向かうわよ」と、倉庫に入った時と同様に、私の背中を強引に押して、照史さんに挨拶する時間も与えて貰えずに外へ。
倉庫を出る直前、「もう少しだったのに」と呟いた弓野さんだったけど、私には何が、もう少しだったのか検討もつかなかった──。
右にミユキさん、左に弓野さん。
真ん中にいるのは攫われた宇宙人のような私。
私よりも背格好のいい二人に挟まれるのは、あまりに人心地無い。いや、生きた心地がしない。ミユキさんも弓野さんも、二度視してしまう程に綺麗だ。
そんな二人に挟まれていては、そう思ってしまうのも仕方が無い。
「メイク一つでこんなにも化けるものねぇ……」
ミユキさんは関心しているのか、感動しているのか、感嘆すら零しそうになりながら私を視て微笑んだ。
「私がメイクをしたんだもの、当然よ。──ねえ、優梨ちゃん?」
「あ、はい。そう、ですね……」
いまいち、記憶が定かじゃない。
弓野さんにメイクをして貰ったのは確かなのだけれど、弓野さんがどうやってメイクをしたのか、メイクされている時の『気持ちいい』という感覚は残っていたけれど、その一部始終を覚えてはいない。これが琴美さんだったら、私は琴美さんの腕を盗む為に目を見張るのに、弓野さんがメイクしている時は頭がぼうっとして、気がついた時には鏡の前で自分の名前を口にしようとしていた。
そう言えば、今日来るはずの琴美さんはどこにいるんだろう?
「琴美ならもう向かったはずよ? ギリギリまでネームを描いてから向かうって言ってたから。私は優梨ちゃんがどんな子なのか知りたくて、先にサークルを抜けてきたの。隣にいる美由紀も同じ」
「私はただ、あの時の謝罪をちゃんとしたかっただけよ」
弓野さんとミユキさんの会話について行けずに、訊き流しながら進んでいると、百貨店裏手にあるコインパーキングに辿り着いた。
「あれが私の車ね」
数メートル先にあるオレンジ色の軽自動車が、主の帰還を喜ぶようにヘッドライトをぴかりと光らせ、ドアのロックを解除させた。
「二人共、後部座席に乗ってね? 助手席は琴美専用なの」
「はいはい。惚気はもう訊き飽きたわよ……」
琴美さんと弓野さんの関係は、あの件以来どうなったのか佐竹君から訊いていなかったけれど、ここまでの話の流れから察するに、良好な関係を築いているようで安心。佐竹君の安寧も守られたようだ。
「卒業したら内輪で些細な式を挙げるつもりだから、優梨ちゃんも来てね?」
「え、私も?」
「当然じゃない。アナタは私と琴美の亀裂を繋いだ愛のキューピットなのよ? スピーチの一つや二つしてもらわないと」
結婚式に呼ばれた事が無いので、結婚式がどんなものなのか想像すらできないけど、スピーチというからには下手な事は言えないなぁ──そして、そんな先の予定を言われても、今の私では理解もできない。ましてや私が愛のキューピットなんて有り得るはずもないのだから、もし招待状が来ても欠席に寿を記して送り返すだろう。
一昔前の車ならキーを回すとエンジンが唸り、回転速度が上がっていくのを肌で感じ取る事ができたが、今の軽自動車はとても静かだ。静粛性を高めた結果、車の発進に気が付かずに事故を招いてしまった──という悲しい事件も耳にする事はあるけれど、時代が進むに連れて様々な機械が進化を遂げていくものだ。
特に医療機器に関しての進歩は目を見張るものがあり、いずれ、全ての手術がAIを搭載した機械によって行われるという日も来るだろう。失敗しないドクターことXも、検診する機会が減っていくかもしれない。
然しそれらも、私には想像もつかない程の未来の話。
明日には世界各国の株価が暴落して、ユーがショックな世紀末を迎える可能性だってゼロじゃない。何億分の一の確率だとしても、ゼロでなければ可能性はある──そうだとするなら、私がこの先、自分の性別をどちらか選ぶという未来も否定はできない。
その時、私はどちらを選ぶんだろう──。
車窓から視える景色が田園風景に変わる。
遠くに視える奇抜なデザインの市民会館が、異様で、圧倒的な存在感を醸し出していた。
「そろそろ到着ね」
その様子を一緒に視ていたミユキさんが、優しく微笑みながら私に訊ねた。
「チョコを手作りしたこと、ある?」
原料となるカカオから──という意味ではない。
小学生の頃、埼玉県にあるお菓子メーカーの工場見学に行った際に、純度一〇〇%のチョコになる前のカカオペーストを試食した事を思い出して口の中が苦くなった。
「いいえ……でも、料理はそれなりにできるので、苦戦する事は無いと思います」
どれだけ女子力あるのよ、とミユキさん。
「私の実家はお菓子屋で、小さな頃からパティシエの父に色々と叩き込まれたわ。だからお菓子作りなら得意なの」
でも、料理に関してはからっきしで、と自分を嘲笑するような笑みを浮かべた。
「じゃあ、今回のイベントに参加したのは、その腕を琴美さんに腕を買われて……ってことですか?」
「そうね。それもあるけど──あの二人の悪行が琴美にバレて、そこに同伴していた私も同罪で、半ば強引に」
まあ、保護観察不足と言われたら反論はできないかなぁ……、私も弁明の余地は無いと言わざるを得ない。
その後、あの二人がどうなったのか気になる所ではあるけれど、それを訊ねる前に、私達を乗せた車は市民会館の駐車場に停車した。
「さて、私の愛する琴美はどこにいるのかしら?」
目的が違うのでは? とは言えず、私とミユキは互いに苦笑いを浮かべながら車から下りる。
弓野さんを先頭に、私達は駐車場を抜けて市民会館入口へ向かうと、入口には琴美さんが腕を組んで仁王立ち。まるで「この先を進みたければ私を倒してからにしろ!」と言うかのような佇まい。
「ねえ視て? 今日も可愛いわぁ……」
弓野さんはうっとりとした声音で琴美さんをべた褒めしながら、早足で琴美さんの元へ駆け寄ると、そのまま飛び付くように抱き締めた。そして、人目をはばからず熱い接吻を交わす。
「──あれをいつも視せられているのよ」
「お気持ち、お察しします……」
お互いが愛し合っているのなら、人目なんて気にならないのかもしれない──それだけ愛情が深いなら、どうして琴美さんは弓野さんとの結婚を渋ったんだろう? 自分からプロポーズしたかったとは言っていたけれど、それは言い訳でしかなく、弓野さんの愛をしかと受け止めていたら迷う必要なんて無かったのだ。
迷いがあったから、なのだろうか?
その迷いって、なんだろうか?
愛する人から一世一代の告白を受けて気に迷うとは、それこそ不誠実と言えないだろうか? 弓野さんはどうして、人生のパートナーに琴美さんを選んだんだろう。
あんなに大人びて視えた弓野さんが、頑是無い子供のようにはしゃぐ姿を、琴美さんはどう思ってるんだろうか?
知りたいようで知りたくない。
知ってしまったらもう、後戻りはできない気がする。
どこに戻るかもわからないけど、知ってしまった後と知らなかった今では、それこそいい意味でも悪い意味でも、『世界が変わったような感覚』になるに違いない。
人を幸せにするのが愛ならば、人を不幸にするのも哀だ。私がその意味を本当に理解した時、隣には誰がいるんだろうか。
今はまだ、誰もいない。
【備考】
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by 瀬野 或
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