一百八十二時限目 僕らのバレンは最高にタインっている ⑦
時速四〇キロ程度で公道を走るバスは、大きさと比較しても到底四〇キロ出ているとは思えないくらい遅く感じる。これがもし原付きバイクであれば、そこまで遅さは感じないのだろうか? 車体と比較した体感スピードというのはきっと学術があって、式があって、それに当てはめれば直ぐに答えを導き出せるだろう。サイン、コカイン、タンジェント。うん。一つだけかなり違法な物が混ざっている気がするけど、『違法も法だよ、カイジ君』と豪語する借金取りからすれば何のこともないんだろうな。でも駄目、絶対。
バスはカーブの急な山道を下って川沿いを走る。
梅ノ原高校の付近にはなだらかな流れの川があり、夏場はそこでキャンプを楽しむ人や、川で遊ぶ子供達を眼にする。更には有名なハイキングコースもあって、春頃になると辺り一面に広がる曼珠沙華の花を楽しめたりで、春から夏にかけては観光客が目立つのだが、その姿は秋になると徐々に減ってくる。冬場に楽しめる場所ではないのは確か。当然、僕の学校付近にイオンモールなどの施設は無く、本当に埼玉なのか? と疑いたくなるレベルだ。イオンモールは埼玉の誇りではなかったのか……?
山道を抜けると東梅ノ原駅がある市街地へと風景が変わる。バーミヤンやゲームショップ(主にカードゲーム主体)、他にも細々とした個人経営の店が並ぶ道路をゆったりと進んで行けば、やがて大きな十字路へ。進行方向左前に視えますのは、いつぞや流星と二人で入ったカラオケ。東梅ノ原で唯一の娯楽施設と言っても過言ではないだろう。その隣りに百貨店があり、裏手にはダンデライオンがひっそりと佇む。ここで下りれたらどんなに楽だろうか。然し、このバスは市営バスではないので、下車を伝えるチャイムは存在しない。百貨店の裏にあるダンデライオンを名残惜しみながら見送り、バスはようやく東梅ノ原駅のバスロータリーへと停車した。
「佐竹、下りるよ」
「ん? ああ」
僕の隣、窓際に座っていた佐竹の肩を叩く。佐竹はバスに乗ってからというもの、ずっと黙りこくって窓の外を眺めていた。意気消沈、まるで生ける屍のような虚ろの眼は、これまでの活き活きとした佐竹からは想像できない。教室でも言葉を発する機会が無くなりつつあるので、早急に何かしらの策を練らないと佐竹が潰れてしまうだろう。そんな心配を佐竹に抱きながら、僕は佐竹を誘導するような形でバスを下りた。
このバスには天野さん、月ノ宮さん、流星、そして関根さんも乗車しているが、僕らが集まるのは現地、ダンデライオン。バス停で合流して──だと、他の人達に眼を付けられてしまう。「月ノ宮さんこれからどこに行くの?」やら、「恋莉ちゃん! これからファミレスでお茶するんだけど来ない?」やら、そんな声をかけられて「ごめんなさい。今日は用事があるの」と断るのは忍びない。だから僕らは人目を避けるようにして、ダンデライオンへ向かうのだ。
「トッポ、忘れるなよ」
「わかってるって。じゃ、また明日ね」
バス停で流星と別れて、先に向かった月ノ宮さん達の後を追うようにダンデライオンへと向かう。雨は小降りになったけれど、じっとりとした空気が体にまとわりつくようで気持ちが悪い。当然、折り畳み傘なんて洒落たアイテムを持ち合わせていない僕らは、小走りで、なるべく雨を避けるようにして進んだ。
ダンデライオンの中へ入ると、既に定位置へ腰掛けている三人の姿。照史さんはいつも通りの微笑みを湛えて、「いらっしゃい。珈琲でいいかな?」と訊ねてくる。
「あ、俺はアイスココアでお願いします」
「わかった。優志君はどうする?」
「ウインナーコーヒーを一つ」
ごめんね。生憎、ウインナーを切らしているんだ、という冗談を交えながら、いつもと同じブレンドを注文。珈琲とココアが各々のテーブルへと配られた所で関根さんが、
「──では、始めようか」
どこぞの司令官ばりに肘をついて、組んだ指を顎辺りに。これで眼鏡をかけて、隣にいい感じの初老男性が立っていたら幾分格好もついただろうけど、ここはダンデライオン。店内にはお洒落な音楽が流れていて、珈琲とパンの甘い香りが充満している。つまりは放課後ティータイムであり、死海文書とか人類保管計画とか、パターン青やらオレンジやらの怒号が飛び交う作戦司令室ではない。
「あ、はい。えっと……、始めましょうか」
司会進行を関根さんに取られた月ノ宮さんは、僅かに動揺したのだろう。声をどもらせながら、改めて会議の開始を告げた。
「これから私と優志さんは、車で市民会館へと向かいます」
あ、そう言えばそんな事をするとかしないとか、昨日、月ノ宮さんから伝えられていた……気がする。今の今まで忘れていたけど。
「なので、今決められる事はあまり多くはないのですが……」
場所を押さえられなければ、そもそも僕らが計画しているバレンタインは流れてしまう。それは、昨日の時点で明らかだった。
「今日話し合って頂きたいのは、どの程度の人数を集めるのかと、当日の流れです。私が抜けた後の司会進行は恋莉さん、お願いできますか?」
窓際に座る天野さんに視線を送った月ノ宮さんは、互いにアイコンタクトを取って頷いた。
「それもそうなんだけど……、佐竹っちの件はこのままでいいの? 今の空気、何だかピリピリしてて嫌なんだよねぇ……」
「俺の事はどうとでもなる。だから気にしなくていいぞ。それに、これは俺の問題だしな。……ガチで」
心做しか、いつもの『ガチで』が弱く感じた。
「その俺の問題に、これまで散々付き合わせたのはどこの誰だったかしら?」
天野さんは『やれやれ』と頭を抱える。
「そう言われるとぐう音も出ないが、今回の件と今までの件は違うんだ。俺が解決しなきゃならない、そんな気がする」
そして沈黙──。
誰しも声を出すのが憚られるような空気の中、静寂を断ち切ったのはドアベルの鐘の音だった。
「おや、高津さんじゃないですか。久しぶりです」
「お久しぶりで御座います。坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめてくれないかなぁ……」
そんな会話が聴こえて眼を向けると、カウンターを挟んで、高津さんと照史さんが話をしていた。高津さんは僕の視線に気がついたのか、振り向いて一礼。それに倣って僕も頭を下げる。
「お嬢様、そろそろお時間です」
「ごめんなさい高津さん。……この状況で離れるのは心痛いですが──行きましょうか、優志さん」
「うん」
ダンデライオンの前に停められた黒塗りの車、車体の前方には、今にも駆け出しそうな銀色の虎が輝いている。きっと高津さんは僕らが来るのを近くのコインパーキングで待っていたのだろう。けど、あまりに遅くて痺れを切らし、ダンデライオンへとやって来た──そんな風に見受けられる。そうでなければ高津さんは、ダンデライオンの敷地内へと足を踏み入れないはずだ。
高津さんは月ノ宮側の人間であり、照史さんは月ノ宮から縁を切った存在。月ノ宮の血は流れているものの、勘当された時点で照史さんとの接触は拒まれる。月ノ宮家とはそういう家なのだ。恐らく、月ノ宮さんがダンデライオンへと足繁く通う事を、月ノ宮家の大黒柱、月ノ宮製薬総取締役様、通称〈お父様〉は納得していないだろう。それでもこうして月ノ宮さんは照史さんとの交流を止めないのは、お父様にも多少なりとも人間の血が流れている……という事なのだろうか。テレビで何度か拝見しただけのイメージだけど、厳格な父、そういうイメージしかない。
「こっちは上手くやっておくから、楓、頼んだわよ」
「勿論です。恋莉さんの為なら、市民会館を制圧してでも許可を取ります」
あはは……と、天野さんは苦笑い。
これは月ノ宮さんなりの冗談なのだろうけど、本当にやりかねないから怖いんだよなぁ──市民会館を制圧って、いくらかかるんだろうか。そして、割と本気な眼をしているので、月ノ宮さんはどれ程の資産を持っているのだろうか? さすがは上級国民。札束でぶん殴るような成金っぷりだ。
僕らが店を出る時に、「お土産よろしくねー!」という声が訊こえた気がするけれど、それこそ冗談ですよね? 関根さん。
* * *
「スケジュールがタイトなのはわかるけど、わざわざ今日、あの状況を放置してまで市民会館へ向かう必要はあったのかな」
僕は隣に座る月ノ宮さんに問いかけた。
「そうですね。あまりいい判断とは言えません。──ですが」
そして言葉を付け足すように、
「この状況だからこそ、でもあります」
直面している問題は三つ。
一つはバレンタインをどうするのかだが、これはぶっちゃけてしまえば流れてしまっても問題の無いイベントだ。後日、改めてバレンタインリターンズと称して開催すればいいだけの話であり、早急に取り掛かるような重要性は無い。娯楽と呼んでしまえばそれだけのイベントではある。
もう一つは佐竹の取り巻く環境の変化と、クラスの嫌な雰囲気をどうするかだ。宇治原君を筆頭に『佐竹落とし』が目論まれている。この問題は早急に対処しないと、今後、クラスにどんな悪影響を及ぼすかわからない。しかも、この件を解決しても、内に潜んでいる〈悪意〉が消えないのがポイント。
最後の一つ。取り分け重要とは言い難いけど、宇治原君の恋愛事情について。宇治原君が優梨に恋をしてしまったという問題。これに関して言えば僕が優梨になって、「アナタみたいに友達を大切にできない人は嫌いです」と言ってしまえば事足りるのだけれど、それをしてしまえば〈佐竹落とし〉にどう響くのか、その影響は計り知れないだろう。
……なんだよこれ。
三本揃うとなかなか折れない『毛利家の三の矢』みたいな状況は。三つの事象が複雑に絡み合って、どこからどう手を付ければいいか検討もつかない。
「実は、市民会館への交渉というのは建前です」
「……はい?」
「既に電話で交渉は終えています。間取りなんかはネットで検索すれば直ぐに出てきますし、わざわざ足を運ぶ必要はありません」
……まあ、そりゃそうだ。
今はありとあらゆる情報がネットによって展開されている。個人情報だってそれ相応の技術があれば、誰がどこに住んでいて、どんな事をしているのかもわかったしまう怖い世の中だ。当然、市民会館への連絡手段も記載されているだろうし、こうして現地へと足を向けるのは、バレンタインの案がある程度まとまった後、皆で向かうのが本来の流れだ。
「ってことは、月ノ宮さんは僕と話をするためにわざわざ?」
「そういう事になりますね」
そのためだけに呼ばれた高津さんは迷惑極まりないだろう。こんな足元の悪い中、わざわざ御足労頂いて申し訳なく思う──あれ? そういば今日の昼にもこんな事を誰かに思った気がするけど、まあいいか。
「それで、これからどこに行くの?」
「仮にも皆さんにああ言った手前、市民会館へ向かいます。会議室を借りてますので、そこでお話をさせて下さい」
随分と手回しが早いなぁ、と関心しつつも、その行動力には脱帽だ。常に先手必勝、勝つためならば手段を問わず、札束を片手に無双する──それが月ノ宮楓である。
これまで月ノ宮さんには色々とお世話になっているので、僕も月ノ宮さんには頭が上がらないのだけれど、彼女は僕に『対等』を望んでいる。だからいつか、その時が来たら恩を返せばいいと思うけど、その恩を返す時はやってくるのだろうか? 膨大な利子がついて、自己破産しなければならなくなるまで貯め込みたくないものだが。
車は市街地を抜けて、少し離れた畑風景の広がる場所へと出た。市民会館は人里離れた場所にあるので、ここで夏祭りを開催すれば、かなり大きな規模になりそうなものだ。駐車場が広いのは田舎あるある。
市民会館はまるで新築のように、壁に汚れ等は付着していない。どうやら最近、壁工事が入って塗り替えたらしい。市民会館駐車場入口にある掲示板に、剥がし忘れた『お知らせ』に記載されていた。
外装は楕円に近く、形だけを言うなら『パックマンが口を下に向けた姿』と言えなくもない。市民会館と言うだけあって、堅苦しい役所みたいな姿を想像していた僕は、このデザインに違和感を覚えてならない。この場所で囲碁や将棋、カードゲームの大会が開かれたりするのか。こういう奇抜なデザインというのも、田舎あるあるの一つである。
「では、入りましょうか」
そう言って、月ノ宮さんが先陣を切った。
自動ドアを抜けると風除室。ラベンダーのフレグランスが置かれた爽やか空間。そこの壁にはフロアマップがかけられている。三階建ての建造物で、一階部分に僕らがバレンタインで使う予定の広々としたキッチンがあった。広さはおよそ教室四つ分くらい……なかなかに広いな。その広さを六人で使うのはさすがに気が引ける。
風除室を抜けると正面に受け付けがあり、中年女性がスーツを着込み、パソコンを弄っていた。その受け付けの左右には、二階へと通じる階段が弧を描くように設置されていて、その階段の下を潜るように、一階部分へ進む道があった。
奇抜なデザインというか、ここだけを切り取れば月ノ宮家のエントランスに近いデザイン。白を貴重としたデザインなので、市民会館は月ノ宮家よりも明るく感じた。
「ここをデザインしたのは金森葉一。この道では名が知れた、有名なデザイナーの一人です」
「詳しいんだね」
「我が家のデザインをしたのが葉一さんの師匠であり、父に当たる方で、金森幸之助さんですから」
なるほど、だから似てるのか。
僕らは受け付けで使用許可のネームプレートを受け取って、二階にある会議室へと向かった。
【備考】
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by 瀬野 或
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