一百七十四時限目 男装の麗人が婀娜めくまで ⑪
エリスの特訓に付き合ってから数日後、僕はある問題に直面していた。あの日、僕は流星の事を散々『エリス』と呼んでいたので、ふっとした拍子に、気を抜いた矢先に、ついつい流星の事を源氏名である『エリス』と呼んでしまう癖がついてしまったのだ。これは『呼んだら殺す』レベルの騒ぎではない。末代まで祟られて呪い殺されるレベル。その〈末代〉というのは僕の事なのだが。
学校での様子はいつもと変わらず、ふてぶてしい表情で自分の席に腰掛ける流星。周りには佐竹軍団幹部である蛆虫君──ではなく、宇治原君。ようやく名前を覚えたけれど、彼を呼ぶ機会なんてそう滅多にくるもんじゃない。だから佐竹の取り巻き達の名前と顔と趣味と家族構成まで把握した所で、その真価を発揮するのは数年後、僕がマルチ商法に手を出した時だけだ。とどのつまり、その機会は一生来ないに等しい。
それだけだったらいつも通りの朝で、窪田君、かっこよくない? なくなくない? なくなくなくない? なくなくない──と、最近話題に上がる俳優の話や、人気のユーチューバーの動画が云々。意識高そうな連中は、昨日観たのであろうニュースを引っ張り出して雁首揃えてブレインストーミング。なんで彼ら、彼女らはそんなに会話の引き出しを持っているのだろうか? コミュ力が凄い。小並感。
そうそう。小並感と言えば子供の頃に、駄菓子屋で粉末のオレンジジュースを好んで買っていたけれど、それは粉蜜柑ではなくて粉オレンジだね! HAHAHAHA! オレンジだけに外国人風の笑い方を一つ。何だかとても切ない気分になった。
そんないつも通りの朝なのに、浮かない顔して項垂れているのは、月ノ宮家の跡継ぎである月ノ宮楓嬢その人。お正月からずっとひっきりなしの出ずっぱりだったらしく頬が窶れていた。世間では正月太りでぎゃーぎゃーと騒いでいるのに、彼女だけはどこか一回り痩せたように感じる。もう冬休みが明けて二週間は経過したはずだが、未だに忙しいのだろうか? 社会とはそういうものなのかもしれない、僕が知らないだけで。
佐竹も、天野さんも、流星も、各々の友人達と楽しそうに話をしている中、僕だけは自分の席で蚊帳の外的に窓の外、雲り空をぼんやりと眺めていた──これもいつも通りだ。そこに悲観は無い。あるとすればそれは、悲観ではなく傍観だ。だけど一つだけ言える事は、『趣味は人間観察です』というヤツ程碌に知りもしないで他者を値踏みするものだ。だから僕は人間観察を趣味としない。偏見過多ではあるけれど。
* * *
暖房の効いた教室というのはやたらと眠気を誘う。特に今日は理系科目が多かったので、体を動かす事も無いのだから余計に眠くなるのも当然。ふわぁと気の緩んだ欠伸が涙腺を刺激して涙ぐんでいると、前に座っている佐竹義信が声をかけてきた。
「よう。メシどうすんだ?」
「食べるよ?」
「……そうじゃなくて、どこで食べるか訊いてんだ。普通に」
今日の弁当のおかずは母さんが手作りしたエビチリだ。これを食べずして何を食べる。冷凍物とは一線を凌駕するこれを、空腹になった胃袋へ今すぐにでも詰め込みたい所だが、佐竹の質問に対してこう答えたのは、普通に揶揄っただけ。
「外は寒いからね。このまま教室で食べようかな」
「そっか。じゃ、俺は学食だから行ってくるわ」
それなら僕に、「どこで食べる?」と訊ねる意味はなかったのでは? 僕がお弁当なのは佐竹に限らず、僕の顔見知りは知っているはずなのに。もしかして、僕が今日お弁当を忘れていたら、「ご一緒にランチでもいかがでしょうか?」というお誘いだったのだろうか? でも、仮にそうだったとしても、僕はそのお誘いを断っていただろう──だって、流星が物凄い形相で僕を睨んでいるのだから。
佐竹は「食堂行く人いるかー!」と叫びながら、数人を引き連れて教室を出ていった。
騒音の根源を失った教室は忽ち静かになる。それもそうで、佐竹が普段からつるんでいる連中は、バイブステンアゲなバーサーカー達なので、そういう連中がクラスから抜けるとまるでもぬけの殻状態。何ともまあ、微妙な雰囲気に包まれるもので、クラスのリーダー的存在でもある佐竹の存在感を殊更に感じる。『他人感が強くなった』とでも言うべきか、そもそもこういうものだったか、まあ、僕が気を揉む必要も無いだろう。いつかきっと、佐竹が何とかするはずだから。
僕が憂慮すべき事柄は他にある。
先程からじっと僕を捉えている視線の先にいる流星。
あの件から特に会話という会話をしておらず、バイトがどうなったのかも知らない。僕と流星は学校外で会う事はほぼほぼと言ってないし、流星は連絡を頻繁に寄越す性格でもない。
因みに一番連絡を寄越すのは佐竹。次に、なぜかは知らないが、関根泉、そして、ハラカーさんこと春原凛花が続く。月ノ宮さんは佐竹達程連絡を寄越して来ないけど、極稀に『まだ勝負は決していませんので』と釘を刺してくるくらいだ。
……そろそろ相手をした方がいいだろう。
いつまでもこの視線を向けられていたら、僕の顬辺りに穴が空いてしまう。
僕は鞄の中から携帯端末を取り出して、流星に「何か用?」とメッセージを飛ばした。流星は僕のメッセージを受信した端末を両手で操作しながら素早く返信。
『話したい事がある。面を貸せ』
これだけの一文を読むと、僕はこれから校舎裏でぼこぼこのぼこにされそうだ……でも、そういう意味でこのメッセージを送ってきたわけじゃないはずだ。一考するに、件のバイトのアフターストーリーを語ってくれるのだろう。
椅子から立ち上がり、流星に目もくれず教室を出た。視線を合わせない方が『示し合わせた』みたいでかっこいいでしょ? 闇の取引のようで厨二心を擽られる。
僕が教室を後にしてから数秒の間を開けて、流星も教室を出たようだ。項辺りに強烈な視線を感じる。これが殺気ってやつか!? いやいや、流星に殺される謂れは無いので、それは勘違いだろう。
適当に廊下をぶらぶら歩いていると、背後にくっついて来ていた流星が隣に並んだ。
「おい。どこまで行く気だ」
「さあ、どこだろう?」
とりあえず今は校舎の二階、軽音楽部が酷い演奏をしているのを肌で感じながら、音楽室の横を歩いている。どうしてこんな場所まで歩いてきたのか、その理由は僕にもわからなかったけど、酷い演奏ながらも知っている曲だったので、つい足が向かった、とでも適当に返事をした。
「……行くぞ」
流星はそれだけを僕に告げて、先頭を歩きだした。
「どこに?」
「決まってるだろ。体育館二階だ」
まあ、外よりはマシか。
今日は曇りなので気温が一段と低い。
風に当たるよりはいいけど、体育館の床もなかなかに冷える。どうせなら座布団の一枚くらいは欲しいけれど、贅沢は言っていられないか。
嗚呼、最近本当にこういう事が多い。
午後の授業は空腹との戦いになりそうだ。
***
この場所に来るのも久しぶりだ。
下の階ではどたばたと、運動部が精を出している。ばつんという破裂音は、バレーボール部がボールをスマッシュした音だろう。ピッ! っという笛の音が得点したのを告げてた。
部活動は主に体育館一階で行われている。
どうして二階では行われないのかという疑問は、うちの学校の体育館が広いので、わざわざ二階を使わなくてもいいという他に、機材関係の理由もあるのだろう。二階に上がるまでに踊り場が幾つもある階段を、機材を持ちながら行き来するのは一苦労だ。それに、梅高で大会を目指すような根性のある部活は少なく、どちらかと言うと『体を動かしたい』という理由と、『運動部はモテる』という二つの理由が大きい。とても健全な理由だなぁ。
体育館二階も一階と広さは変わらない。
だだっ広いこの空間で、流星は入口から少しばかり離れた壁際に腰を下ろしてから、僕に『座れ』と顎を引いた。僕は流星の右隣に腰を下ろす。こうして隣同士で座ると、あの時の光景が脳裏を掠める。僕にとってあの瞬間は、フランス革命よりも革命的な事件だった。そういう意味でこの場所は、僕にとって特別な場所に位置づけられていた。
流星は壁に背を預けて、左足を立膝に、その膝の上に左手を置いた姿勢で眼の前を視ながら、優しい声音でもなければ、激情した声音でもなく、まるで無感情と思えるくらいのフラットな声音で僕に語りかけてきた。
「バイトは、……上手くいきそうだ」
バイトは、の後に間があったのは、何か危惧するべき問題でも発生したのか? と思えなくもない。そして、『上手くいきそうだ』という言い回しにも違和感を覚える。
「どういうこと?」
「ある意味上手くいったんだ。だが、上手くいき過ぎて困ってる」
「なるほど。……え?」
流星の話を要約すると『強気なエリスちゃん』というのが一部の男の性癖にどん刺さりして、店はかなり賑わっている……という事らしい。それだけ訊けば『めでたしめでたし』であり、くまの子見ていたかくれんぼ、おしりを出した子一等賞なのだが、話しているうちに流星の顔色が悪くなっていったのが気がかりだ。
「よかったね。……とは、言えない状況なの?」
「よくないからこうしてお前に愚痴ってんだ」
あ、ああ……、これは愚痴だったんだね。僕はてっきり『あの時は助かったぜ』的な、お礼の一つや二つ訊けると思ってたんだけど。
「あのクズ共から学んだ〝悪ノリ〟ってのは、人間を変えてしまうものなんだと知った」
「それは、どういう意味で?」
「悪い意味もあるが、いい意味でもある。……そうだな、オレは悪い意味で使いたい」
げんなりして肩を落としている流星に、何と言葉をかければいいのかわからず沈黙していると、流星は両足を放り投げるように床に伸ばした。
「けど、……助かった。お前のおかげで何とかなりそうだ」
「──そっか」
その一言を訊くに、今までの愚痴は長い枕詞だったんだと察した。あれだけの醜態を僕に晒しておいて、今更恥ずかしがるのもおかしい話だけれど、雨地流星はそういう人間なのだ。羞恥心が先走って、悪態が先に出てしまう。ここだけを切り取れば、天野さんと性格が似ているような気もしないでもない。
「それで、だな」
「うん?」
流星はもごもごと口の中で舌を転がしながら言い淀む。
そして、意を決したと言わんばかりに僕を視て──
「お前を店に招待したい」
「……はい?」
まさかの言葉に、僕は狐につままれたような気分だ。だって、流星はあれ程にまで、職場の場所を言わずとしていたのだから、こりゃ一体どんな風の吹き回しだい? と、時代劇さながらに疑問をぶつけてしまった。
「言っただろあの時、〝礼は持ってきている〟って」
「ガルボのいちご味じゃなくて?」
「あれはその……あれだ」
──どれだ?
「こっちが本命だ。ほら」
そう言って、胸ポケットから一枚のプラスチック製のカードを抜き取り、人差し指と中指に挟んで僕に差し出す。表面はピンク色で、色々と文字が記載されているそのカードの中央には、アニメチックなフォントで『メイド喫茶♡らぶらどぉる』と記載されていた。
まるでキャバクラのメンバーズカードみたいだ──なんて言ったら、さすがに怒られるだろうか。流星が〈執事〉として以前は働いていたから、もう少し古風というか、それこそダンデライオンをメイド喫茶に改築したようなイメージを持っていたので、このカードを手にした瞬間そのイメージは崩壊した。
「……変なお店じゃないよね? コーラ一杯ウン万円とか取られない?」
「さすがに失礼過ぎるだろ。……まあ、その気持ちはわからないでもないが、ちゃんとしたメイド喫茶だ」
「そこに僕が行けと? ……一人で?」
「ああ、その通りだ」
それ、どんな罰ゲームよりも重いんだけど。
メイド喫茶は違法な店ではないのに、いざ行くと思うと背徳感が尋常ではない。
「いつ、行けばいいの……?」
「決まってんだろ、今日の放課後だ」
「はぁっ!?」
「お待ちしてますね、ご主人様……っと」
きーんこーんかーんこーんと予鈴が鳴ったのをきっかけに、流星は勢いよく立ち上がった。
「こうなったのはお前のせいだからな。……最後まで責任持って付き合いなさい?」
その横顔は流星ではなく、あの日、僕が女性の何たるかを教えていたエリスと重なる。
なるほど、これが悪ノリの極みか──。
男装の麗人が婀娜めくまで、僕はきっと解放される事はないのだろう。それなら僕も甘んじて、お店でエリスを扱き使うまでだ。やるならやってやるさ、徹底的にね。それに、悪ノリを覚えたのは流星だけじゃないんだって事を、僕は流星に教えてあげないといけない。
それもきっと、いい薬になるだろう。
一足先に体育館一階へと下りる階段に向かった流星の背中を視ながら、事程左様にほくそ笑んだ。
【備考】
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by 瀬野 或
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