一百七十一時限目 男装の麗人が婀娜めくまで ⑧
ほっと息を吐ける場所、それは自分が自分を隠せる場所であり、自分を晒け出せる場所でもある。
見慣れた天井、フローリングの床に敷かれた絨毯、木製の黒い本棚と年季が入った机。表面には何かを擦った後が残り、所々の塗装が剥げている。こちこちと秒針が進む音を鳴らす壁掛け時計は『お値段以上』の店で適当に選んだ物。特徴としてはよく時間がズレる。
さすがはお値段以上のお店だ。
安いなら安いなりの理由があるのも納得。
その店で買ったベッドの下はちょっとした小物入れになっているけど、そこに卑猥な本を隠している、なんて事はない。
『年頃の男子がすけべな本を持っていないとは何事か!?』
と、性の喜びを知ったおじさんは叱咤するかもしれないけど、最近の若者は紙媒体よりも映像だ。
……なんでこんな話になっているんだろう? ぶんぶんと頭を振って、邪魔な思考を振り解いた。
両親は今日も夜遅くまで残業らしい。
それならそれで好都合、容易く優梨の姿で家を出入りできる。
近くにある公園のトイレで一々着替えなくて済むし、息を殺し、足音を盗みながら抜き足差し足忍び足と、ステルスゲーム的な展開にならなくていい。バレる心配が無いというのは気楽だ。
さくっと着替えてお風呂に入り、帰る途中に寄ったコンビニで購入したお弁当を食べ終えて、自室の勉強卓の上に置いた漫画を読むべく椅子に深く腰掛けた。机の端にはホットコーヒーと一口サイズのブロックチョコレート。そのチョコレートをぽいっと口の中に放り投げて、ころころと転がしながら漫画のページをぺらりと捲る。
──それからどれくらい経過しただろうか。
ホットコーヒーは既にアイスコーヒーへと変わり果て、ブロックチョコレートはどこかへと消えてしまった。毎回思うけど、もう少し多めに持ってくればよかったな。
学習しないのはいつもの事だけど。
窓の外、遠くの方で高速道路を走る車の音が『なかなかにいい時間だ』と告げる。そりゃあ二巻から四巻までぶっ通しで読んだら夜も遅くなるはずだ。早く続きが読みたいけれど、五巻が発売するのは一ヶ月先のようで、いい所で終わらせる当たり出版社も悪賢いと思わざるを得ない。
この漫画を読んで、流星は〈女の子らしさ〉のヒントを得られるのだろうか? ……ふっと、そんな身も蓋もない事を思ってしまった。
漫画の内容は間違いなく面白い。
なんなら来年の春に実写映画化して、全国のファンから盛大にブーイングが巻き起こる、まで想像できるような仕上がりだが、流星の求める〈理想〉かと言われると首を傾げてしまう。
僕の場合、〈優梨〉は僕と正反対の性格で、『別人』として振る舞う事で優梨の潜在意識にある〈優志〉を除外している。
だから天真爛漫に、ちょっと意地悪に、普段の僕とは掛け離れた行動ができるのだけれど、流星にそれができるとは思えなかった。
とどのつまり、流星は〈男性〉という自分の中に含まれている〈女性〉的な部分を見つめ直しているように感じる。
そこが僕と流星の考え方の決定的な違いだ。
僕は〈切り離す〉であり、流星は〈取り戻す〉なのだから上手くいかないのも当然か。
「取り戻す、か……」
頭の中で浮かんだ言葉に引っかかりを覚えて口遊む。
一度は放棄した者をもう一度取り戻す作業というのは、それ相応に時間を要するだろう。一日二日で何とかなるとは考え難い。それでもやらなければならないのは、雨地家の命運がかかっているから──だろうか。それともそれは建前であり、本当は『女性としての存在意義を確かめたかった』とか?
──いや、それはさすがに考え過ぎだろう。
断固として『男性である』と主張してきた流星に、そんな意識があるとは思えない。……嗚呼、こんな時に相談できる相手が近くにいれば、もっと早く答えを導きだせるのになんて、無い物ねだりしても仕方が無い。それに僕は、流星の力になると違ったじゃないか。今更になって臆したのか? 臆病風に吹かれたら、それこそ『裏切り者』になってしまう。
だから──
最後の最後まで足掻いてみよう。
* * *
──翌日。
昨日と同じ時間、同じ場所で待ち合わせして私と流星は合流した。昨日と違う点と言えば、流星は昨日選んだ服を着ている事。つまり、流星ではなくエリスとして改札前で待っていたのだ。
「おはよ、エリス」
「お、おはよう」
元気が無いではなく、緊張しているせいで声が小さいのだと察した。それもそのはず、今日がエリスにとっての『ターニングポイント』になり得る日なのだ。自分がやらなければならない事の重大さや、責任、それらが心にのしかかっているのだろう。ゆえに、表情が暗いのもそのせいだ。それでも昨日、私が施したメイクを忠実に再現しているので、エリスのメイク力は、もしかすると私を凌駕するのではないだろうか? ……なんだろうこの気持ち、勝負じゃないのに負けた気がする。
それにしても今日は買い物があるわけでもないので、どうしてこの時間に招集をかけたのだろうか? 理由は色々とあるだろうけど、察するに『心細かった』のかもしれない。
雨地流星は芯が強く、何事にも動じない人物だ。
そう思っていたけれど、眼の前にいる少女は表情に影を落としている。プレッシャーからくる不安がそうさせているのは最もな理由だけど、それ以上に私はエリスの心が揺れているような気がしてならない。
快快として楽しまず、いつも不機嫌そうな表情でアナキー・イン・ザ・UKを演奏しているシド・ヴィシャスのそれだけれど、いつもとは違い、不安定な心情が表に出てしまっているのだろう。
「大丈夫? 顔色が悪いよ?」
「問題無い」
いやいや、問題があるからこうして集まったんじゃないの? なんて言えばエリスの不安感を煽るだけだろう。私は首肯して、それ以上の言葉を呑み込んだ。
エリスの煩雑した胸の内を、本当の意味で理解するのには情報が足りない。『こういうことだろうか?』と予測は立てられるけれど、それは憶測の域を出ない『妄想に近い何か』でしかないのだ。それを然も知ったようにとやかく論ずれば、エリスだって面白くはないはず。今は黙する事が正解だろう。
「それにしても、どうして私までこの格好をさせられてるの?」
昨日、ある程度の買い物は済ませたので、私が〈優梨〉である必要は無いはずだけれど、エリスは朝、私に『優梨の姿で来い』と連絡を寄越した。
依頼人からの要望ならばそれに従うけれど、私が優梨である事に何の意味があるのだろうか?
「乗りかかった船ってやつだ、最後まで付き合え」
「それは私の台詞でしょ? ……もう、わかったよ」
駅前ロータリーへと続く階段を下りながら、そんな雑談を交えていると、エリスも皮肉を言える程度には安定したきたようで、暗い影が差していた表情にもほんの少しばかり光が差した。
日曜日だからと言って昨日と大差無い。
埼玉の田舎なんてその程度だ。
休日に行く所と言えばイオンモールか、自宅から距離のあるアウトレットモールであり、東京では風が吹けば桶屋が儲かるような事象があったとしても埼玉にそれはない。
風が吹けば屋根が吹き飛ぶのを恐れ、雨が降れば近くに流れる川が 氾濫するのではないか? と恐怖する。そして、その川の近くを車で通った時に「おお、凄いな」と傍観するまでが流れ。川だけに。
「それでだが」
何の気なしの会話の中、エリスは虚を衝くようにしてきまり悪げに呟いた。
「今日は〝演技指導〟をして貰いたい」
「演技指導? 劇でもやるの?」
ちょっとした軽口を叩いた私に対して、エリスは首を振る。
「ある意味それも間違ってないが、……ほら、お前も読んだだろ」
藁にもすがる思いで購入したあの漫画に勝機を見出した、と言わんばかりに、隣を歩く私に訴えてきた。これがもし少年漫画だったら、『なんて綺麗な眼をしてやがる』とでも言いたくなるような雰囲気。
「……ってことは、覚悟を決めたってことだね」
「そうだ。やるからには徹底的にやってやる」
「私の指導は厳しいよ?」
バイト先のマナー教育よりはマシだろ、とエリスは鼻で笑った。
会話を交えてすっかり元の調子を取り戻せたようで、ふてぶてしい態度も──
「……迷惑をかける」
どうやら私が思っているよりも事態は最悪らしい。
今まで交わした言葉の数々を『痩せ我慢』と見抜けなかったのが情けないにも程がある。
懊悩としているエリスの心持ちは絶望そのもののはずだ。
『雨地流星は芯が強く、何事にも動じない』
──なんて、よくもまあ知ったように語ったものだ。
私はエリスの言葉の重圧を一心に受けて、改めて気を引き締めた。
「気にしないで。……友達でしょ」
「そうか」
演技指導というからには、それ相応な場所が必要になる。まさかカフェで藤原竜也ばりの『どうしてだよおおおおおおっ!』をする訳にもいかない。そんな事をすれば摘み出されるだろうし、最悪の場合は警察を呼ばれるまである。
そうなると必然的に『カラオケルーム』という案が出るのは自然だ。昨日も行って今日も行く。カラオケ大好きさんか。目的は違えど、受付けの従業員にそう思われてもおかしくはない。
──いや、視点を変えよう。
世の女子高生がする娯楽と言えばファミレスで駄弁る、カフェチェーン店で流行りのドリンクと一緒に写真を撮ってインスタにアップする、ラウンドワンでボーリングする、そしてカラオケである……偏見が酷いな。
だから二日続けてカラオケを選んでもそれは自然な流れであり、女子高生足らしめる行動ではないか? よし、何とか誤魔化せそうだな、主に自分を。
「選択肢が狭いのは致し方無いだろ」
「……そうだよね」
私達は須らく、『女子高生』ではないのだから──。
【備考】
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これからも『女装男子のインビジブルな恋愛事情。』をよろしくお願いします。
by 瀬野 或
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・現在無し