一百五十七時限目 鶴賀家の年末
勉強卓の端に置いていたホットコーヒーはすっかり冷めて、口が寂しい時に食べようと小皿に移して持ってきたブロックチョコレートだけが瞬く間に減っていく。本を読んでいると、どうしても甘い物を摂取したくなるので、珈琲とチョコレートを口に含む割合は、チョコレートの方が多くなる。気持ち多めに持ってきたチョコレートは残り一つとなり、これでは珈琲が好きというよりもチョコレート好きを語った方がいいのかもしれない。
あと数時間で今年が終わる。
〈紅白〉を観るか、それとも毎年趣味趣向を凝らしている〈笑ってはいけない〉を観るかで悩む人も多いだろう。でも僕は両方共に興味が無いので、自室で読書を決め込んでいる。時折、リビングから訊こえる両親の笑い声を鑑みると、〈笑ってはいけない〉を選んだらしい。今年の紅白には人気の男性アーティストが登場すると話題になっていたけど、父さんも母さんも興味無いようだ。
椅子にずっと座っていると、肩やら腰やらが強張ってくるので、偶に凝りを解すように両肩をぐるぐると回したり、肩甲骨を広げるストレッチを試みているものの、凝り固まった筋肉をちゃんと解すにはラジオ体操くらいしなければ無理だろう。誰が年末にラジオ体操をするのか──と思いながらも、頭の中では軽快なピアノの伴奏が流れ出した。誰しもが聴いた事があり、誰もがあのピアノ伴奏を覚えているってことは、即ち、日本で一番聴かれているのはラジオ体操の伴奏では? 老若男女問わず、イントロだけを聴いて何の曲か当てられるのって、実はもの凄い事なんじゃないだろうか? そんなくだらない事を考えていたせいで、小説のページは一向に進まない。同じ行を何度も繰り返しているので、読むのを諦めて本を閉じた。
空気の入れ替えをしようと、締め切った窓を開いたら、とびっきり冷たい冬の夜の空気が部屋の中へと入ってくる。空には薄っすらと雲が掛かり、月も星も見当たらない。この調子だと、初日の出は拝めそうもないが……まあ、毎年恒例である〈富士のご来光〉をテレビで観ればいい。それに、新年を迎えても僕はまだ高校一年生だし、一年が過ぎたと実感するには、もう少し時間が必要だろう。卒業式を経て、入学式を終える頃に、僕はようやく『新しい年が始まった』と実感するタイプだ。とどのつまり、僕の年の節目は三月三十一日であり、十二月三十日ではない。僕ら学生の二割くらい共感を得そうな愚考を披露する相手も無し、そろそろ室内の空気も入れ替わった頃だろうと、ゆっくり窓を閉めた。
僕の住む町に神社やお寺は無いので、遠くで鳴り響いている除夜の鐘は、隣町にある神社から聴こえてくる。
「さて、新年の挨拶でもしてくるか」
そうぼやいて椅子から立ち上がり、僕は部屋を出た。
リビングのドアを開くと、リビングは乾き物の臭いが充満している。ソファーの前にある膝下テーブルの上には日本酒の一升瓶と、ビールの空き缶が散乱していて、テレビは〈ゆく年くる年〉を映していた。そして、酒盛りを堪能していた両親はというと、二人共ソファーでぐっすり眠っていた。
──いや、それはどう考えてもおかしいだろう。
両親は〈笑ってはいけない〉を観ていたはずだ。僕の部屋にも笑い声が洩れていたので、それは間違いない。だって、〈紅白〉にお笑い要素なんか一つも無いのだから。では、どうしてテレビは〈ゆく年くる年〉を映している? テレビの視聴予約でもしていれば、チャンネルが自動で切り替わるのも頷けるけど、両親がこの機能を使いこなしているとは思えない。テレビ番組をDVDに録画するにも「優志、ちょっとお願いがあるだけど」と僕を頼る始末なので、視聴予約の線は無い。僕がリビングに下りたのは、除夜の鐘が鳴り響いて直ぐだ。ゆく年くる年は二十三時四十五分から放送なので、この時間に合わせてチャンネルを変えて、そのまま寝落ちしたと考えるのが普通だろう……けど、それを解とするには何か引っかかる──先程まで爆笑していた人間が、こんなにあっさり仲良く二人で寝落ちするだろうか? いくらアルコールを摂取していたからと言っても、チャンネルを変更するくらいの意識はあったはずだ。という事は──
「狸寝入りするなら、もう少し上手くやった方がいいんじゃない?」
「……やっぱりバレたか。英美里、今年もサプライズは失敗したみたいだよ」
「──そう。今年も失敗したのね? 残念だわ。優太郎さん、来年は必ず優志をあっと驚かせましょうね」
僕の両親は毎年、何かしら仕掛けてくる。昨年は台所に隠れて、僕が挨拶に来るのを見計らって「わっ!」と驚かせようとしていたが、それも僕は見抜いて、今みたいな反省会を二人でしていた。
僕の父、優太郎と、母親の英美里は、大学で知り合い交際が始まって、二人共同じ職場を選んで、その後、めでたくゴールインしたらしい。現在、父さんは部長、母さんは主任の地位についている。仕事を滅多に休めないのはその為でもあり、帰宅が遅いのは付き合いやらなんやらで、僕がこうして両親と顔を合わせるのは少ない。
「優志。あけましておめでとう」
父さんと母さんは僕ににっこりと微笑みながら、新年の挨拶をする。こうして改まられると何だか気恥しいが、これも礼儀だと、僕も顰みに倣うように頭を下げた。
「さて、今年のお年玉だが」
父さんはソファーとクッションの間に隠していた、大きさの違う二枚の茶封筒をテーブルの上に置いた。
「片方には一万円が入っている。もう片方には五千円だ──優志、お前はどちらを選ぶ?」
──全く、父さんは本当に子供っぽい事をする。
隣に座る母さんは、テーブルに散乱しているビールの空き缶や、食べ残していた乾物の片付けを始めているので、母さんの眼の動きを察して選ぶのは不可能。無論、父さんは僕を視ているので、父さんの瞳孔を探る事もできない。
「質問していい?」
「ああ。構わないぞ」
「封筒の大きさと、中身が比例しているとは限らないんだよね?」
「そうだな。でも、もしかしたらって事もあるぞ?」
こういう場合、どちらが先に優位を取るかで勝敗の八割は決する。FPSで高い場所が強いのは、上空からの方が視野が広がるからだ。それに、下から狙うより、上から狙った方が的に当てやすいというのもある──では、この不利な状況をどう打開するか……それは、どれだけ機転を利かせるかで変わってくる。
さっきの返答で、『封筒の大きさと金額は比例しない』という言質は取れた。僕は別に一万円が欲しいわけじゃないけど、ドヤ顔をしながら勝負を仕掛けて来る父親に一泡吹かせたい。
こういうやり取りは、これまで何度もしてきた。
琴美さんに始まり、月ノ宮さん、そして高津さんみたいな大人ともはったりとブラフを混ぜながら、何とかその場をやり過ごしてきた成果を、今、発揮させる。
「父さん、決めたよ」
「よし、どっちだ?」
「僕は一万円が入った封筒を選ぶよ」
* * *
ゆく年くる年の放送が終わり、番組は〈朝まで生テレビ〉になって、さだまさしがホワイトボードを後ろに、両隣に座るコメンテーターと緩い会話をしている。その間にテーブルの上は綺麗さっぱり片付けられて、二枚の茶封筒だけが残された。母さんは台所で洗い物を始めて、水道から水が流れる音と、食器がぶつかる音がやたら耳に入っくる。
父さんと僕の形勢は逆転していた。
それまで余裕綽々としていた父さんは顎に手を当てながら眉を顰めて、僕が何を言っているのか考えているのだろう。でも、考える余裕を与えるつもりは無い。
「父さんは最初に言ったよね。〝どちらの封筒を選ぶか〟って」
「あ、ああ。言ったぞ? だから、どっちを選ぶんだ?」
「僕は〝一万円が入っている封筒を選ぶ〟って答えたんだよ? それが僕の答えであり、選択。父さんは〝どちらか選べ〟とは言ったけど、〝どちらかを取れ〟とは言ってない。つまり、選ぶ権利は僕に託されている」
「ぐぬぬ……」
「仮に父さんが〝どちらかを取れ〟と答えていたら、僕に打つ手は無かった。五千円の封筒を選んでも、甘んじて受け入れるしかなかったんだ。そこが父さんの敗因であり、僕の勝因だね」
父さんは黙ったまま俯いて、眼下にある二枚の茶封筒をじっと見つめながら、「まさか頓智を披露されるとはなぁ」と苦笑いを浮かべた。
「でもな、優志。お前は一つだけ失敗したぞ?」
「え?」
「父さんは確かにどちらかを選べと言った──だが、それを差し出すとは言っていない! 惜しかったな、優志! まだまだ詰めが甘いぞ!」
「……っ!?」
父さんはテーブルを叩く勢いで『小さい方の茶封筒』を取り、「これが優志へのお年玉だ!」と、僕に突きつけた。
「上手く父さんをやり込めたと思っただろう? だが、まだまだだな。これが大人のやり方というものだ」
「くっ……、汚い、大人って汚い!」
「そうだぞ? 大人は汚いんだぞ? 平気で嘘を吐くし、納期ギリギリになってから変更を言い渡したりな! それが大人の世界だ!」
最後の最後で、僕は判断をミスってしまった。もし、裏の裏まで父さんの思考を読んでいれば、結果は僕が望むものになっていたのかもしれない。まるで、ミイラ取りがミイラになるような話だなぁ……けれど、僕の慢心がこの結果を生んだのだから、甘んじて受け入れるしかないだろう。
「……あれ?」
封筒の中身を確認してみると、そこにはピン札の福澤先生が入っていた。
「父さん、これは?」
「ハッハッハ。最初から封筒には一万円しか入ってなかったんだよ、ほら」
父さんは残された封筒の口を、ぱかっと開いて僕に視せた。そこには、僕の手にある福澤先生と同じ物が入っている。
「何だよ。最初から僕は父さんの掌の上で踊らされてたのか」
「ま、そういう事だ。大事に使えよ? ガチャガチャとかに使うなよ?」
「ガチャガチャって、小学生じゃないんだから……」
でも、偶にやりたくなるんだよね、ガチャガチャ。正式名称は確か〈カプセルトイ〉で、〈カプセル自動販売機〉という名称はアメリカが最初だったんだったかな。地域によって呼び方が変わるけど、僕の住んでいる地域では『ガチャガチャ』、または、『ガチャポン』が主流である。
そんなやり取りをしていたら、洗い物を終えて母さんがおしるこを作ってくれたらしく、食卓の上には三人分の器が用意されていた。
「よし、優志。次はどっちが早くおしるこを食べ終えるか勝負するか!」
「いや、お餅なんだから、……最悪の場合、喉に詰まらせて洒落にならなくなるよ」
「あ、そうそう」
僕と父さんが席に着いて、手を合わせた所で思い出したかのように、母さんが不穏な事実を呟いた。
「誰かのお餅の中に一つだけ、わさび入りのお餅が入ってるから気をつけてね?」
父さんも父さんだが、母さんも母さんだ。どうして新年早々に、運否天賦を試さなければならないのか。でも、普段、両親とあまり顔を合わせないので、こうやって接してくれると、僕も気を使わずに済む。父さんも、母さんも、ちゃんと考えてくれているんだろう……多分、知らないけど。因みに僕は、おしるこを最後まで美味しく堪能できたけど、父さんは涙目になりながら食べ終えた。きっと、母さんの作ったおしるこが美味しくて感動したんだろう。年を取ると涙脆くなるって言うし、おしるこに何かしら思う所があったんだろうなぁ。どことなく母さんの含み笑いが気になったけど、僕はそれを知るぬ振りして自室に戻る事にした。
【備考】
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by 瀬野 或
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