一百三十一時限目 ***
百貨店の裏手にあるコインパーキング。その奥に煌々と辺りを照らす自動販売機の明かりを前に、一人の女性が丁度取り出し口から二つの缶を取り出した。
「そんな所で何をしてるんだ、琴美」
さして大声を出したわけじゃないが、ちゃんと相手に届くくらいには声を張り上げた。その声はやけに静かなパーキングの中を突き抜けるかのように、琴美の耳へ届いただろう。オレの声に気がついた……というよりも、オレがここを通ると確信しているような表情だ。どうしてそう思ったのかはわからない。
……少々不気味だ。
だが、相手は魑魅魍魎の類ではない。ある意味〈珍種〉ではあるが、歴とした人間だ。
数メートルまで近づくと、その珍種はオレに缶を下からぽいっと投げた。投げられた缶は綺麗な放物線を描いてオレの下腹部辺りにストンと落ちるだろう。落下する手前で両手を受け皿にしてキャッチする。
「わさびソーダ? ……何だこれは」
緑色に塗装された缶の中央部分に黒字白枠でそう記されており、やたらとポップなフォントの下に、親指くらいの大きさで、イラストレーターが適当に描いたのではないかと思えてならないわさびのマスコットが描かれている。意外な事に、長野県産のわさびから抽出しているらしい。飲む人を選びそうな炭酸飲料なのに、贅沢なものだ。
「新商品らしいわよ、それ」
そう言ってにやけ面を浮かべる琴美の左手に握られているのは、赤いパッケージのコンソメスープだった。自分はホットで温もって、オレには奇を衒った冷たい炭酸か。これが普通のソーダだったら文句も無いが……
「オレはわさびが苦手なんだ」
こんな物、飲めるはずがない。
「琴美お姉さんからの奢りが飲めないって言うのぉ?」
「お前はパワハラ上司か」
致し方無しと、プルタブに爪を引っ掛けて開けたその瞬間、わさびの匂いが鼻を劈く。思わず眉を顰めて、こんな禍々しい物を寄越した琴美をギロリと睨むと、嘲るような朗笑を浮かべて、
「ほらほら、一口♪」
「飲めるか」
まさかこの為だけに一〇〇円を浪費したわけじゃないだろう。その答えに心当たりが無いわけではないが、取分け興味のある話でもない。だからオレはこんな寒空の下で、琴美の真意を暴こうとは思わないのだ。
──しかし、そうは問屋が卸さない。
「……アマっちはさぁ、気がついているんでしょう?」
「さあ。一体何の事だか見当もつかないな」
「嘘ね」
そう言い切った琴美の表情は冷えきった氷のようで、オレの背筋が粟立つのを感じた。
──思わず生唾をごくりと呑み込む。
オレが琴美を『珍種』と言い切ったのはこういう事だ。……まるで蛇のように小賢しく、相手の心理を突いてくる。しかもそれがハッタリだとしても、ブラフだったとしても、相手が怯んだ隙を見逃さない。……しかし、琴美だって嘘を吐いている。
「それはお互い様だろ。これから恋人に会う約束をしてるヤツが、こんな所で油を売ってるはずが無い」
「アナタと優梨ちゃんは似ているわね。臆病なのに、それを必死に隠して虚勢を張る所なんて瓜二つ。……可愛いらしい子」
演技掛かったねっとりとした口調でふふっと冷笑する琴美の嫣然たる様に、ぞぞっと身の毛がよだつ。
『魑魅魍魎の類ではない』
そう思っていたが、これはどうも怪奇だ。……いや、魔性と言うべきだろう。ダンデライオンで見せていたあっけらかんな性格とは裏腹に、どす黒い感情を内側に秘めている気がしてならない。
オレらから数メートル先に駐車してある車のライトが点灯して、鍵が開く音がした。その時初めて沈黙していた事に気がついて、はっと我に返る。
「私はアナタが名探偵のように推理ショーをしたいのかと思ったのだけれど?」
「興味無いな。琴美が結婚しようともオレには全く関係無い」
「……そう?」
横髪が気になったのか、琴美は右耳にセミロングの髪をかける仕草をする。
「それじゃあ私は先にお暇するわ。またね? ……ちゃん」
オレの横を通り過ぎる瞬間、オレを睥睨した琴美の眼は恐ろしくも儚い、そんな光を宿しているように思えた。
「結婚か。……する気も無い癖に」
あんな白々しい嘘を臆面も無く堂々と言い張った彼女を、オレは心底軽蔑する。
……だが、これは件はもう終わった話だ。
義信達の中でこの件が幕を引いたのなら、アンコールの拍手を鳴らすべきじゃない。
握ったままのわさびソーダを一口飲む。
やっぱり、オレとわさびは相入れない関係のようだ──。
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今後も【女装男子のインビジブルな恋愛事情。】を、よろしくお願いします。
皆様が当作品を楽しんで頂けたらと、願いを込めて。
by 瀬野 或
【修正報告】
・2019年3月5日……『温もる』と『温まる』がわかりにくかったのでルビを振りました。
温もる:あたたかくなる。あたたまる。ぬくまる。
「こたつで─・る」(デジタル大辞泉/小学館 より引用)
ご報告ありがとうございました!