七十六時限目 彼と彼の宿題 〜佐竹義信の場合〜[前]
優志と顔を合わせられず、そっぽを向いた視線の先に、背丈の違う鉄棒が三つ並んでいた。
一番小さな鉄棒から、緑、黄、青で塗装されているが、雨風に晒され続けたせいで赤茶色に酸化し、ところどころ塗装も剥げている。
人気の無さが一目瞭然だが、それもそのはずで。この公園にはブランコや砂場など、童心を擽るような遊具がある。数ある遊具の中、わざわざ鉄棒で遊ぼうなんていう子どもはいない。ちょっと触ってみようか、と興味本位で触れる子どもは、数人いるだろうけど。
鉄棒を〈遊具〉と呼んでいいのだろうか? 俺の中では〈運動器具〉という印象が強いし、ちょっと苦い思い出もある──。
小学校三年か四年生の体育の授業で、『逆上がりを習得する』というカリキュラムがあった。大半のクラスメイトは、逆上がりなんて余裕綽々といった具合で、苦戦することもなくクリアしていく。
俺は、逆上がりができなかった──。
そのせいで姉貴に馬鹿にされたし、友だちにも「だっせー!」と罵られた。当然、体育教師が『できない』を許すはずもなく、放課後、校庭にある遊具で遊ぶ友人たちを尻目に入れながら、逆上がりの特訓をさせられた。
特訓の成果もあり、逆上がりを体得した俺だったが、その頃には、跳び箱の授業に移っていた。
ある程度のことはそつなくできていた俺が、逆上がりに躓くなんて。幼な心に感じた虚しさと悔しさ、鉄棒を握った手の鉄臭さ、皮が剥けた痛み、何度試みてもできない焦燥感を、いまでも忘れずに覚えている──。
いまにして思うと、逆上がりが上達しなかった原因の一因として、体育教師・山田の教え方に問題があったような気がする。
山田の容姿は、ビールっ腹の中肉中背で、いやらしい笑い方をする男性教員だった。そして、無闇矢鱈に体を触ってくるので、俺たちは山田のことを、陰で『エロ親父』と呼んでいたりもした。
その標的は、女子だけに留まらない。俺が逆上がりの練習をしているときも、敢えて背後に回り込んできた記憶がある。
指導方法がとても気持ち悪くて、何度も投げ出そうと思ったことかわからない。
そんな山田は、俺が中学に進学して数年後に退職したらしい。
風の噂で訊いた話だと、男子生徒に暴行をしたとか。暴行といっても殴る蹴るではなくて、犯罪的な──。
山田は、自分の理性を制御することができなかったようだが、俺の隣で手持ち無沙汰にしている優志は、良い意味でも、悪い意味でも、自分を抑制することに長けている。
だから、優志が抱えている悩みを、俺が窺い知ることはできない。
いつも影を落として笑う優志を見る度に、その憂いを晴らしてやりたい、という思いに駆られるけど、優志は顧みて他を言うように、上手くその手の話題を逸らしてしまう。
知られたくない、のか。
知って欲しくない、のか。
そういった感情を表に出すこと自体を『悪だ』と捉えている、のか──。
悩みを打ち明けてくれない優志に、不満がないといえば嘘になる。
だが、だれにだって知られたくないことのひとつやふたつあるだろうし、踏み込んで欲しくない事情もまた、あるわけで。そんな優志を不憫に思い、俺は都合のいい友人を演じていた。
馬鹿で、声がでかくて、ノリがよくて、適度にツッコミを入れる佐竹義信は、優志にとってどう映っていたのだろうか。おそらく、楓にはとても歪に見えていたに違いない。
だからこそあの日、『佐竹義信を辞めろ』と俺に提案したのだ……単刀直入過ぎて、受け入れるのに苦労したけどな。普通にガチで。
* * *
夏らしからぬ涼しさを纏う風が、俺と優志の隙間をさらりと吹き抜けた。蝉の鳴き声の中に混ざって、カナカナカナと鳴くのは蜩。俺が住む町ではあまり馴染みのない音色だが、どこか懐かしい気もする。田舎だからと一蹴してもいいが、そんな言葉で片付けてしまうのは情緒がない。
幼心に感じた憤りだって、そうやって簡単に割り切ってしまうのも、なんだか勿体ないような。
どこからともなくカレーの匂いがしてくると、
「そろそろ帰ろうか」
優志はブランコから飛び降りる要領で、ひょいっと立ち上がった。ざざっと砂の地面を擦れる音がして、優志の体が前方へ滑る。
「夕飯の準備もしなくちゃだし」
もうそんな時間か、と空を見上げる。
陽が落ちて夕焼け色に染まった空の片隅に、ぼんやりと月が浮かんでいた。
犬の散歩をする人たちも、増えてきたようだ。
まだ真新しい通学自転車に乗って家路を急ぐ中学生たちの姿に、かつての俺を重ねる。中学生になり、新しい友だちと出会い、知らなかった遊びを知る。毎日が刺激的だったけど、高校生にもなればそうはいかない。ガキだった感性が徐々に大人へと変わり、他人との距離を気にするようになる。
いずれあのチャリ小僧たちも、理解するときがくるんだろう。大人に近づくにつれて自由になるけれど、それと同じ分だけ柵も増えていくことを──。
「そうだな」
と、俺も優志に倣って立ち上がる。勢いが強過ぎてちょっと転けそうになったが、先を進む優志には気づかれてないみたいだ。
もし見られていたら、優志は鼻で笑うだろう。そして、冗談っぽく皮肉を吐くんだ。その皮肉に対して大袈裟なツッコミを入れるまでの一連の流れは、割と嫌いじゃない。
「夕飯は優志が作るのか?」
数歩先を歩く優志に届くように、声量を上げて訊ねた。
「そうだけど」
振り返らずに答える、優志。隣に並ぶと、気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
その姿を見て、ちょっといいな、と思い、顔がにやけそうになった。が、咳払いでなんとか誤魔化した。
暫し間を開けて、
「夕飯はカレーでいい?」
俺の顔を窺うみたいに、優志はちらりと目だけを向ける。
「俺もカレーが食いたいと思ってたんだ」
カレーの匂いを嗅ぐと、もうカレーの口になってしまう。
動機として、これに勝るものはない。
ぐう、と腹の虫が鳴った。
【備考】
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by 瀬野 或
【修正報告】
・2019年2月28日……読みやすく修正。
・2020年11月3日……加筆修正、改稿。