七十二時限目 彼と彼の宿題 9/16
「もうちょい食おうかなあ……普通に、マジで」
「ここに来た理由も忘れないでね?」
「ああ……でもその前に」
頭を使うんだから糖分は欠かせないだろ? と言って立ち上がる、佐竹君。いまさっき食べたドーナツは、カウントされないらしい。追加のフレンチクルーラーとハニーディップをトレーに乗せて戻ってきた佐竹君を見て、胃がもたれそうになった。
なんだろう、この人。ドーナツを食べるとレベルアップする、異世界転生主人公なんだろうか。
魔力で作り出したドーナツで攻撃したり、相手を拘束しそう……そういう特異な能力を、ユニークと呼ぶ。
「ふう、食ったわ」とお腹を摩りながら、佐竹君は食後のアイスコーヒーを一口。さすがに、ロイヤルミルクティーではなかった。
「琴美さんが言った意味、佐竹君はどう思う?」
頃合いを見て、私は本題を切り出した。私も、佐竹君も、琴美さんに言われたことが引っかかってここにいるのだから、話題は必然的にそうなる。
「そうだな……」
佐竹君は腕を組み、右手を顎に当てた。考える人、のポーズ。
「つまり〝胃の中のカエル〟ってことじゃねえか?」
ゲロゲロ、吐きそう。『い』のイントネーションが違うだけで表現が変わるのが、日本語の難しいところだ。喩えば「蜘蛛」と「雲」や「雨」と「飴」なんかも、それらに該当する。
「気持ち悪い言い間違いしないでよ……井の中の蛙、ね」
「そう、それだ」
琴美さんの言葉を、もう一度思い出してみる。
──アンタ、なにも見えてないのね。
それと、
──同じ場所から違う景色を見ようとしても、それはただの羨望に過ぎない。
の二つ。
前者は、弟である佐竹君に宛てた言葉で、後者は、私。
井の中の蛙、と佐竹君は発言したけど、私には、どうもしっくりこない答えだった。
『井の中の蛙大海を知らず』
このことわざの意味は、自分だけの狭い見聞や知識が全てだと思い込み、他に広い世界があることを知らないこと、だ。
琴美さんは、私たちに、もっと広い世界を知れ、と伝えたかった?
あのタイミングで、いったい、なんのために?
「どうして佐竹君は〝 井の中の蛙〟だって思ったの?」
「なにも見えてない、そう言われたからだな。いまいる場所から見えてないなら、違う視点から見ろってことじゃねえの? たぶん、わかんねえけど」
違う視点から物事を見る、それは、とても重要なこと。でも、琴美さんはあのタイミングで、わざわざそれを伝えるがために、弟の部屋を訪ねたのか……違う気がしてならない。
「姉貴の言葉なんて、考えたって姉貴にしかわかんねえよ。どうせ、俺たちがその言葉について考えているのを、密かに嘲笑ってるんだぜ? いい性格してるよ。ガチで」
それならそれで琴美さんらしいと思えるけど、だったらどうして『同じ場所から違う景色を見ようとしても、それはただの羨望に過ぎない』なんて、含蓄のある言葉を残したのか。
抽象的過ぎるメッセージに秘められた意味、それは、答えを求めること事態が無意味だ、という琴美さんの悪戯だったとしても、私の中で真っ黒い塊になって、ぐねぐねと蠢いていた。
「お前はどう思うんだ?」
「正直に言うと、わからない。でも、わからないことこそが、答えなんじゃないかな……とも思う」
「どういうことだよ。俺でもわかるように説明してくれ」
佐竹君でもわかるように説明するなんて、それこそ無理難題なのだけれど……。
「えっとね? 琴美さんは、先ず、佐竹君に対して〝見えてない〟と言ったでしょう? それは、視覚的なことじゃなくて、内面的なものを指していたんじゃないかなって思ったの。だって、琴美さんは〝なにが〟とは言明してないし。琴美さんの性格はサバサバしてて、物事をはっきり言う人じゃない? それを敢えてぼかして伝えたってことは、佐竹君が〝なにが〟のところを考えなければいけない……と問題提議した、みたいな」
自分でもなにが言いたいのか曖昧で、上手い言葉になっているとは思えなかった。でも、私の言葉から、思考のヒントのようなものを見つけてくれればいい。
「なるほど……つまりあれだ。シックスセンス的な!」
ああ、そういう発想になってしまうのか──。
「第六感なんて、人間にあるわけないじゃん」
「だけど、目に見えないことを考えるんだろ? じゃあ、シックスセンスじゃねえか」
「シックスセンスって言いたいだけじゃないよね?」
──バレたか。
──バレバレ。
つい最近、こんなやり取りをした気がした。
「俺はいつも間違えてばかりだな」
「それは私も同じだよ」
私と佐竹君は違う。だから、答え合わせをしようにもすれ違ってしまう。それでも寄り添うことを選ぶのなら、私たちは往々に間違い続けてしまうだけだ。愚行も矜恃と信じて徒労を積み重ねるだけ。それを『優しさ』と唱えるなら、私は『優しいひと』になんてなりたくない。
でも、佐竹君はそう思わないだろう……優しい、から。
他人の痛みに敏感で、自分の痛みには鈍感だから。
格好いいよ、私なんかよりも遥かに。
自己犠牲を『正義』と掲げる日本では、彼ほどヒーローの素質を持ち合わせる者はいないんじゃないか? ってくらいに思う。その物語のヒロインは、私じゃなくていい。
「俺、もっと勉強して強くなるわ」
突然、そんなことを言う。
「姉貴のアレについては、取り敢えず置いとく。その答えが出せるほど聡くねえし……だったら先ず、目の前のことに集中するべきだろ?」
「はあ……?」
なんという切り替えの早さ。
「いままでの辛気臭い雰囲気はなんだったの……真面目に考えてた私がバカみたいじゃん……ばーか」
「うっせ。こういうのは性分じゃねえんだよ。普通に、ガチで」
いまは、彼の空元気に乗っかっておこう。
そうじゃないと、私の悪癖が出てしまいそうだ。
「よし、ぱっとカラオケで憂さ晴らしでもす」
「それはパス」
即座に答える。
なにかにつけてカラオケに行きたがるの、なんなの?
「拒否が早えよ!?」
「私の性分じゃないもん」
佐竹君の言葉を、そのまま返した。
悔しそうに唸る、佐竹君。
「お前なあ……そういうところだぞ」
私は、ふん、とそっぽを向いた。
「カラオケがダメなら漫喫はどうだ?」
「変なことされそうだから、個室は無理」
「じゃあどこがいいんだよ」
「本屋」と私が言うと、佐竹君は小首を傾げた。
「なんで本屋なんだ? まあ、たしかに個室ではねえけど……」
「もっと勉強して強くなるんでしょ? 語彙力も鍛えないとね」
さっきの仕返しに皮肉を込めてそう提案する。
佐竹君は殊更に嫌そうな顔をして、
「鬼め……」
とぶつぶつ言いながらも、後片付けを始めた。
【備考】
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by 瀬野 或
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