七〇時限目 彼と彼の宿題 4/16
「楽しみにしていた予定が、実は地獄の猛特訓だった……みたいな感覚は?」
ムキムキマッチョの鬼教官的な男性が、陽気な音楽に合わせて筋トレをする様子を思い浮かべた。
「がっかりするね」
筋肉フェチだったら或いは……ないな。
「だろ? 俺はいま、そういう気分なんだ」
とどのつまり、落胆しているってことを、佐竹君は伝えたいらしい。
「勉強を教えるという点で言えば、お前は百点満点だ。でも、勉強を楽しませる点においては、残念ながら赤点だな」
「勉強を教えてもらう側の台詞じゃないよね、それ」
図々しくない? と私は抗議した。
「いいや! 俺は言わせてもらうぞ!」
佐竹君は息巻いて立ち上がり、拳を高く突き上げる。
「我が夏休みに一変の悔いあり!」
ずどーん、となにかが天に召された気がした。
私が唖然としてその姿を見ていると恥ずかしくなったらしい。耳を赤らめて、ぷいっとそっぽを向いた。
「なにかリアクションしろよ……ガチで」
「だって突然過ぎたから」
佐竹軍団のだれかであれば、佐竹君の奇行にも、なにかしらのアクションを行えただろうけど。
「立ち上がったついでに、アイスコーヒーのおかわり要るか?」
「あ、うん。おねがい」
「はいよ」
どたどたどた、と階段を下りる音がした。暫くして、どすどすと階段を踏み込む音がする。がちゃとドアを開けた佐竹君の手には、アイスコーヒーが入ったピッチャーが握られていた。
百均で売っている円柱の形をしたピッチャーは、私の家にもあるやつだけど、佐竹家で使われているのは、蓋が黄色だった。私の家にあるのは、蓋が緑色をしている。
さっき飲んだアイスコーヒーよりも、濃い苦味。
「これ、佐竹君が淹れたやつじゃないでしょ?」
「そうだけど、どうしてわかったんだ?」
「明らかに味が違うもん」
「そうかあ? ……マジだ、全然違う」
にっげえ、と大袈裟に舌を出した。
窓の向こうは、夕焼けが広がっていた。
佐竹君は、近くに置いてあったリモコンに手を伸ばし、スイッチを押す。白色蛍光灯の光が部屋を照らすと、窓の外が少しだけ暗くなった気がした。
くわあ、と背伸びと欠伸をした佐竹君に「お疲れさま」と労いの言葉を声かける。すると、私のほうを見てへなりと脱力してみせた。
ここまで続いた集中力もさすがに限界を迎えたみたいで、佐竹君の額にローバッテリーのローマ字が浮かんでいるみたいだった。
「一生分の集中力を使った気がするわ。ガチで」
いつもの調子でへなりと笑う。
一仕事終えた気分になっているけれど、佐竹君の課題は数学が終わったのみだった。一日一教科終わらせる予定で進めているとはいえ、先は長い。
「明日は来世分の集中力を使ってね」
「んんっ」
佐竹君は口に含んだ麦茶を飲み込むと、ごほごほ噎せた。
「あぶねえ、吐き出すところだった……」
「私が帰宅した後も、課題を進めてくれると助かるんだけど」
「ま、まあ……やる気になったらやるわ」
あまり期待はできそうにない。
会話が途切れた途端に静かになった佐竹君は、じいと窓の外を見ている。私も外に視線を向けた。遠くには夜が控えていて、烏は、かあかあ、と鳴く。
なにを考えながら遠くの空を眺めているんだろうって、佐竹君の背中を見ていると、私の視線に気がついたかのように、ゆっくりと振り返った。
「なあ、優梨」
改まって、私の名前を呼ぶ。
「うん?」
「隣に座ってもいいか?」
隣にいるのに「隣に座っていいか?」とは、どういうこと?
返答に困っていると、佐竹君は立ち上がり、私の体を背凭れにして座った。佐竹君の両手は床についていて、一応、全体重を預けるようなことはしないけど、それでも重いし、触れる面が熱を持って暑苦しい。
「重いんですけど……」
「いやあ、疲れたなあと思ってさ」
「返事になってない」
「まあいいじゃねえか」
佐竹君はかかと笑った。
伝わる重みに、絶対退かない、という意志を感じた私は、仕方がないと佐竹君の背中を押すように体重を預けた。ぐいい。
「いやお前、軽過ぎねえ?」
「佐竹君がゴリラなだけだもん」
「お前のその〝だもん〟って語尾、あざといよな」
うるさいばーか、と心の中だけで悪態を吐く。
「でも、ちょっとかわいい、と思う」
「うるさい……ばか」
かわいいと言われて、頬に紅がさしていくのがわかった。
可愛いってなんだろう、と考える。世の中には数多の〈可愛い〉があって、可愛いの意味も同じくらい存在する。女性を褒める言葉の代表みたいなイメージがあったけど、昨今では男性に対しても用いられるケースが多い。
佐竹君の中にいる私は〈かわいい〉らしい。
かわいいのは優梨で、可愛いのは優志だと仮定すると、漢字表記の〈可愛い〉には、どこか皮肉めいたものを感じた。
「このまま膝枕ご褒美とか、ねえ?」
「ねえです」
脇腹を小突くと「いて」って音がした。
「ねえです、かよ……そこは〝ねえもん〟じゃねえの?」
「佐竹君が私をイジるなんて、あと二年半早いの」
「冗談にしては、年数が妙にリアルなんだよなあ……」
二年半が経過すると卒業だよって、私は口の中だけで答えた──。
* * *
それからの私たちは、夕焼けの空に夜の帳が下りるまで、いろんなことを話した。二組にいる大村君という男子と知り合ったこと、大村君のグループと一緒にカラオケにいったこと、大村君は音痴という要らない情報。琴美さんの手伝いで夏コミに参加したこと、夏コミ会場は独特な雰囲気がある、と佐竹君は得意げに言う。
独特な雰囲気の内訳を訊ねると、ちょっと間を開けて「戦場っぽい?」と言った。壇ノ浦なのか、関ヶ原なのか、桶狭間なのか訊ねると「戦場ヶ原」と答えた。
戦場ヶ原。
そこでは、男体山の神が大ムカデの姿に、赤城山の神が大蛇の姿となって、中禅寺湖を奪い合った場所、という謂れがある。激闘の末に、見事勝利を勝ち取ったのは、男体山の神、らしい。
人間同士の争いがあった史実はなかったような……まあいいけど。
「そんなことはどうでもいいんだ」
と言って、佐竹君は私の目を真っ直ぐに見た。
弛緩していた空気が一瞬で張り詰めて、肌がぴりぴりする。
「ガチで無理してないんだよな?」
またその話? と思った。
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by 瀬野 或
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