七〇時限目 彼と彼の宿題 3/16
「たしかに、外には出たい」
「じゃあ」と立ち上がろうとした私に、佐竹君は頭を振って答えた。
「俺が言いたいのは、そういうことじゃないんだ。普通に、ガチで」
今日の佐竹君は、どうも一筋縄ではいかないようだ。固い意志のようなものが、佐竹君の瞳から受け取れる。
「散歩はしなくていいの?」
と訊ねた私に、佐竹君は首肯した。
「ああ」
「それじゃあ、なにがしたいの? 言っておくけど、変なことはしたくないからね」
変なこと。つまり、えっちなこと。
いやん。
「隣で勉強を教えてくれ」と、恥ずかしそうに言う。「もっと近くで」なんて、私はそんな風に真っ直ぐになれない。
「そうしたら、もう文句は言わねえから」
はあ、と思った。佐竹君にしては、悪くない妥協点の提示だった。
隣で勉強を教えるのも、向かい合って教えるのも、結果的にいえばそう変わりない。
数センチだけ距離が近づいて、お互いの心拍数が聴こえてしまうかもしれないって気にかかるくらいだ。
それは、佐竹君の好意を知っているからでもある。
まるで恋する乙女じゃないか──。
佐竹君は真面目に勉強をしてくれる。
私も自分の課題を終わらせることができる。
お互いの目的が重なっているのであれば、迷うことなんてないんじゃないか?
「特別だからね?」
立ち上がり、佐竹君の左側に移動した。
「大胆な提案だったね」
座りながら言うと、佐竹君は微苦笑を浮かべた。
「俺だって、言うときは言うんだ」
それに、と付け足す。
「告白紛いなことはもうしてんだし、隠す必要もねえだろ」
「そうだけど……」
「遠慮してたらお前が遠くに行っちまうかもしれねえし、な」
ぼそっと呟くように言ったものだから、私の耳には届かなかった。薄っすらと訊こえた気がした単語は『遠くに行く』だけで、それだけでは佐竹君の発言を想像することもできない。
「なんて言ったの?」
「なんでもねえよ」
何度も訊き返したけど「なんでもねえ」の一点張りで、頑なに教えてくれなかった。よくいう『大切なことだから一度しか言わないぞ』ってやつ? 大切なことだったら尚更に、相手が理解するまで何度も伝えるべきだと思うんだけど。
「さてと、再開すっかな!」
よし、と頬を叩き、投げっぱなしにしていたシャーペンを握る。
プリントの横に置いていたノートを見て、自分の間違いに気がついた佐竹君は、消しゴムで間違えた回答を消し、新たに正解を記した。
「これで合ってるか?」
「うん」
佐竹君は徐々に、昼食前の集中力と調子を取り戻していった。
私が教えたことをノートにメモしながら、真綿のように吸収する。
時折、私が間違いを指摘しても、佐竹君は自分の間違えた点に直ぐ気がついて、是正していった。
その様子を傍らで見守りながら、私も空白を埋めていった。
やればできる子は、やらなければできない子と同義で、問題に立ち向かう意思が無ければ立ち塞がる問題に対し、アプローチをかけることもままならなくなる。が、一番厄介なのは、問題を問題として認識してしまうことにあった。
問題を問題として認識すると、問題は難問に変わり、それを課題に昇華させる為には、遠大な計画と、膨大な時間と、それに伴う精神力と集中力が要求される。
そろそろ休憩を挟もうかな、と佐竹君の様子を窺ってみた。
いつになく真剣な表情を浮かべ、数学の課題と向き合っている姿に私は、ちょっとだけ感心していた。
難関とは言い難い、梅ノ原高等学園高校に入学することを許された身分である佐竹君は、本来ならばそこそこに勉強ができるはずだ。本来の力を勉強に割いていれば、私がこうして勉強を教える必要もなかったと思う。
でも、私が知らないところで佐竹君は〈なにか〉に悩んだり、葛藤していたりしていたのかもしれない。
私たちは世間認知でいうところの〈子ども〉だ。精神的にも、まだ幼い部分がある。
大人ではあり得ないようなことで挫折したり、四苦八苦したりする。私だって例外じゃない。
大人からすれば『つまらないこと』で立ち止まり、進むことを諦めてしまったりする。
そういう稚拙な面を大人に暴かれてしまうと、言い逃れ出来ず、容易く絶望してしまうのが、私たち〈子ども〉だった。
佐竹君は、きっと、大人に近づき過ぎたのかもしれない、と思った。
大人たちは『勉強は大切だ』と言いながらも、
『学校の勉強なんて社会に出ても使わない』
と、矛盾したことを然もありなんと言う。
たしかに社会に出れば、二次方程式や、サイン、コサイン、タンジェントなんかを、日常で使うことはなくなるし、無駄だと一蹴してしまう大人たちの言い分だって理解できる。
だけど、だったら、一体なんのために勉強をしているんだろう? と考えてしまうのは、極めて自然だ。
佐竹君はもしかすると、そういう風に吹かれ過ぎて、勉強する意味を見失ってしまったのかもしれない。
* * *
順調に思えた佐竹君の手が、ぴたりと止まった。
集中力が散漫になっている状態では、いい結果にはならない。
目の前にあるプリントとにらめっこを続ける佐竹君に「進まない原因は、もしかして私のせい?」と訊いたけど、一も二もなく私のせいなのは明らかだった。
佐竹君は持っていシャーペンをプリントの上に転がして置き、微妙な表情をした。なにを考えているのか、その表情からは窺えない。
なにも考えてないってことは、さすがになさそうだけど……と思いながら様子を見ていると、佐竹君は「うーん」と低く唸りをあげて、荒々しく後頭部を掻いた。
「なんか違うんだよな」
私は、佐竹君が手を拱いていた問題に、目を を向ける。
逆さまの文字を読み、その問題は昼食前に教えた数式を当てはめるだけなのにと思ったけど、佐竹君は問題を解けない苛立ちを、私に伝えたいわけじゃない。
数式を当てはめても答えが出ないようなややこしい難問を、私に問い質そうとしている気配。
「たとえば、だぞ」
と前置きを入れて、
「目の前に大好物があったとするだろ? 手を伸ばせば届く距離なのに見えない壁が邪魔をしているような感覚……わかるか?」
パントマイムをする佐竹君の姿を想像した。
「大好物って、私のこと?」
言うと、
「あくまでも、喩え話、だ」
喩え話、を一文字ずつ強調して言う。
「わからなくはない、と思う」
曖昧模糊な表現では、想像する他になかった。いや、私はあまりぴんときていないから、想像よりも創造に近い作業だ。
雲のような綿菓子はあっても、綿菓子のような雲があったとしても、雲を原料にした綿菓子なんて存在しない。
だから頭の中で想像して、創造する。
「じゃあもうひとつ」
まだあるんだ……。
【備考】
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by 瀬野 或
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