六十九時限目 夜の帳が下りる頃[後]
「それはどうでもいいんです」
「どうでもいいのかよ!?」
すかさずツッコむ。
楓は俺を揶揄うのが楽しくなってきた様子で、
「佐竹さんの胃袋であれば、病原菌も消化できそうですし」
小憎たらしく皮肉を吐いた。
「順序の話に戻りますが、佐竹さんは先ず私に一報を送るべきではないですか?」
「出来立てでさ? めっちゃ美味そうだったから、つい」
「小腹も満たせれてよかったですね……じゃないでしょう? お兄様が焼いたマフィンを優先したい気持ちはわかりますが、報告、連絡、相談。これ、社会の常識です。報連相は徹底していただかなければ困ります。第一、佐竹さん以前から……」
ああああっ!
「ストップストップ! この通りだ、俺が悪かった!」
持っていたマフィンを皿に戻し、手のシワとシワを合わせたはせがわ式合掌を『南〜無〜』って具合に決めた。脳内では『祈りの老舗〜♪』ってメロディが、女優の笑顔とともに再生されている。
俺の祈りは目の前に座る少女に届くだろうか……届いてくれないと社会的に抹殺されてしまう。
楓は荒々しくテーブルに両手を付いて、ぐいっと顔を近づけた。
「首尾はどうなったんですか?」
「先ずは座れって……」
楓は向かいの席にふんすと息巻きながら座り、ぎろりと俺を睨む。
「それで?」
落ち着け、と両手でどうどうしながら、これまでの経緯を端的に説明した。
「……まあ、佐竹さんではそれが限界でしょうね。このチャンス、絶対にモノにしてくださいね」
「……おう」
そんなこと、言われなくてもわかってる──。
ここまでお膳立てしてくれれば、後は俺がそのお膳をひっくり返すような真似をしなけりゃいいだけだ。それに、一緒に宿題をするだけで状況が悪くなるなんてことは、そうないだろう……多分。
* * *
静まり返る店内で、ボクはいつも通りの手順で閉店作業をする。
掃除の基本は上からだ、と、天井で飽きもせず回り続けるシーリングファンライトの羽部分を丁寧に拭いてから、電球の感度を確認──うん、まだ当分切れそうにないなと頷く。
足を滑らせないように脚立から下りて、その脚立を倉庫へ運んだ。
毎日、ここまで隅々掃除して帰っているわけじゃない、今日は気が向いたから、とか、単純な理由だが、それと同じく、胸に引っかかっている魚の小骨のような疼痛の意味を探したかったからそのついでに、だろう。
実は、楓の申し出を最初は拒もうと思った。
どうしてそうしなかったかというと、本来、それは楓が交渉するものではなく、彼自身がボクに直接交渉するべき事案……だけど、ボクは以前、彼に『相談する相手が違う』とアドバイスしているので、彼はそのアドバイスに従ったまで──ゆえに、これはボクの愚痴でしかない。それに、珈琲一杯程度のお金で店が傾くものでもないし、楓の友人とあらば、それくらいのサービスは普段からしてあげてもいいと思っている。
ボクの疼痛は、そんなケチ臭い理由ではない。
倉庫の天井の角に蜘蛛の巣を見つけて、近くにあった箒で駆除した。ではなぜ、どうして、いっかな……どうやら箒程度では小骨に届かないらしい。
「お兄様、キッチンはある程度磨いておきました」
頼んでもいないのにキッチンの掃除をしてくれた楓が、満遍の笑みを浮かべてボクに報告する。
その頬は『褒めてください』と言わんばかりだ。
こういうところは昔から変わらないな、とスラックスのポケットにしまっていたハンカチで手を拭いてから頭を撫でてやった。
「ありがとう、楓。助かったよ」
「フフッ♪ 妹として当然のことをしたまでです」
友達の前では気を張っている楓も、ボクの前では年相応の子どもだ。
「もう外も暗い。高津さんを呼んで帰りなさい」
「はい。その……お兄様、ちょっとだけ宜しいですか?」
「うん?」
「私は、またお兄様と一緒に暮らせたらいいなと思っています……」
「そうだね。そうなるといいな」
「はい……」
寂しい思いをさせてしまっていることに、罪悪感を感じないわけではない。
ボク自身もそうなればいいと思っているけど、その日は永遠に訪れないだろうことも、楓は理解しているはず。
「不憫な思いをさせてしまって、すまないね」
謝罪の言葉と共に楓の身体を抱き寄せると、思っていた以上に身長が伸びていた。一緒に住んでいれば楓の成長を見届けられたであろうに……離れて暮らす時間を疎ましく思う。
楓はボクの腕の中で静かに抱きしめられているが、やがて、顔だけをボクに向けた。
「私は……楓は立派にやり遂げてみせます。だから、お兄様はお兄様の住む世界を大切にしてください」
「……ありがとう」
いつから楓は、こんなにお利口になってしまったのだろうか?
ボクが知らない間に、身体も、心も成長していく楓を、嬉しくもあり、悲しくも思う。
──そうか、小骨の正体はこれだったのか。
楓からの電話を受けた時、それを拒もうとしたのは、楓の成長を認めたくなかった自分の弱さだったんだろう。
これではどっちが兄で、どっちが妹かわからないな。まだまだ未熟。
ボクの腕の中からゆっくりと離れた楓は、寂しげな笑顔を向けてボクに会釈した。
「……では、高津さんを呼んで帰りますね」
「わかった。気をつけて帰るんだよ」
「はい。それでは……おやすみなさい」
「うん。おやすみ」
カランカランとドアベルが鳴って、楓が出ていったことを告げる。
「変わらないのは、ボクだ」
そう吐き捨てるように倉庫から出て、楓が掃除してくれたキッチンを確認しに行くと、冷蔵庫の扉にマグネットで貼られた一枚のメモがあった。
『いつかきっと、お迎えにあがります。 楓』
本当に、よく出来た妹だ。
整理整頓され、水滴ひとつ残っていないシンクを見ながら、あのとき下した選択の意味を、ボクは、夜の帳が下りるまで考えた──。
【備考】
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by 瀬野 或
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