六十六時限目 禍を転じて福となすかは僕次第[後]
ある日の夜、仕事が早く終わったジョッシュは、帰り道、見知らぬ男と一緒に歩くエミリーを見かける。年季の入ったアパートに、男とともに入っていくエミリー。三階の角部屋の照明が灯り、暫くすると電気は消えた。ジョッシュは酷くショックを受けた。浮気されている。然し、ジョッシュが想像しているよりも、真実は殊更に残酷だった。翌日、エミリーをマンションに呼び出したジョッシュは、昨夜のことをエミリーに問い質す。エミリーはまたひとつ嘘を重ねた。
──自分が売春婦であることを、エミリーはどうしてもジョッシュに知られたくなかったんだ。稼いだお金は妹の癌治療に当てているとしても、自分の行いを正当化できるはずもない。
その日を境に、ジョッシュはエミリーを避けるようになる。ジョッシュはエミリーの嘘を信じることができなかったのだ。信じたいという気持ちはあるが、見知らぬ男の部屋で二人きり。明かりを消してやることは、いくら想像力に乏しい堅物のジョッシュといえどわかる。エミリーは仕事を辞めるわけにもいかない。妹の癌が進行すればするほど医療費は高くなる。ジョッシュと会えない日は、見知らぬ男たちに抱かれ続けた。それは、ジョッシュと会えない寂しさを埋める行為でもあった。精神的に追い詰められていたエミリーの拠り所は、ジョッシュと過ごす時間だった。それが断ち切れたいま、エミリーは快楽に溺れるしかなかったのである。
──エミリーの嘘を信じることができなかったジョッシュが悪いとも言えないし、恋人に真実を打ち明けて相談しなかったエミリーが悪いとも言えない。これは、ひとえに答えが出せる問題じゃないな。
二週間を過ぎたある夜、ジョッシュは意を決してエミリーをマンションの近くにあるBARに呼び出した。別れを告げる。そう決めたジョッシュは、エミリーがくるのを待ち続けた。エミリーがきたのは、待ち合わせ時間を二時間過ぎた頃だった。隣に座るエミリー。どことなく、エミリーも覚悟してこの場に赴いたようだった。「キミのことを愛している。でも、このままではお互いにいい結果にならない。別れよう」そう告げたジョッシュにエミリーは精一杯の笑顔で答える。「アナタの人生が幸せであるように祈っているわ」。エミリーが注文したブルームーンが彼女のテーブルに置かれる。然し、そこにはもうエミリーはいなかった。ブルームーン。意味は〈できない相談〉。
──エミリーが待ち合わせに遅れた理由は、前日に妹がこの世を去って悲しみに打ち拉がれていたためだった。妹がこの世を去ったいま、エミリーにはジョッシュしかいない。一縷の望みを託す気持ちでBARに向かったけれど、その望みが叶うことはなかった。
* * *
愛しているのに離れなければならないなんて、あまりにも悲劇で、悲恋で、救いようがない物語の顛末だ。
──キミのことを愛している。でも、このままではお互いにいい結果にならない。別れよう。
ジョッシュが言った最後の言葉の一節は、酷く言い訳めいているように思える。愛しているのなら、その愛を信じることができなかったのだろうか。理想と現実は常に表裏一体で、真実があれば嘘もある。だけど、愛情はそれらを超越してこその愛情なんじゃないのかな。
多分だけど、だれかを愛することってそういうことなんじゃないかって思う。
つい手元にあったものでざっくり読み返してしまったけど、そろそろ課題に戻らなければならない、と本棚に戻した。
夏休みの課題は残すところ英語のみだけど、夏休みに発生した問題は山積みになっている。最悪なことに、そのどれも解決していない。解決方法がわからず、余計に手がつけられないままである。ああだめだ、だめだめだ。頭の中がこんがらかって、こんらがらって、らがられてしまっている。即ち、とっても大事にしていたクラリネットが壊れてしまった歌のようなパッキャラマーオパオパオ状態。
僕はこの閉鎖空間から飛び出す決意をして、部屋のドアを開いた。
気分転換に外へ出てみたはいいけど、噎せ返るような暑さで家にとんぼ返りしたい気持ちでいっぱいになった。
やはり、夏場のエアコンは最強にして至高。
地球温暖化については由々しき事態だと思う。環境保護、大切!
でも、クーラーをつけなければ死の危険があるような気温では、地球温暖化ガー財団の方々だって見て見ぬ振りをしてくれるはずだ。
鬱然とした気分のまま、自宅周辺をふらふら歩いていると、ポケットに忍ばせていた携帯端末が振動した。『佐竹義信』の名前が黒い背景に白字で映し出されていた。
センチメンタルなサヨナラバスが青春の日々をアゲインしそうになるくらい、僕の心はゆずっこになっているのに、佐竹はからっぽの夏色をスマイルで過ごしながらシュミのハバを広げているに違いない。
この通話に応答したら「遊園地にいこう」とか言い出しそうな予感がするけれど、夏祭りにだっていく気分になれないから、君は東京、僕は埼玉で冷えたコーヒーを飲みながら待っているよ、と断ろう。
「もしもし」
無視することもできたが、さすがにそれは可哀想だ。実は大変なことが起こったって可能性もある。
『ああ、優志か?』
「違います、人違いです」
なんて嘘は、直ぐに看破する佐竹。
『その返しは紛れもなく優志じゃねえか』
メッセージアプリの通話機能を使って間違えるほうが難しいだろ、と佐竹は携帯端末越しに笑った。
【備考】
読んで頂きまして誠にありがとうございました。もし応援して頂けるのであれば【感想・ブックマーク】などもよろしくお願いします。
by 瀬野 或
【修正報告】
・2020年9月27日……誤字報告による指摘箇所の修正。
・2021年2月2日……誤字報告による指摘箇所の修正。
報告ありがとうございます!