六十三時限目 佐竹義信、売り子になる[中]
「アンタがいると売り上げ伸びるわねえ……まあ、私とサークルの実力が九割だけど」
「俺の貢献度は一割かよ!?」
餃子の満州だって三割は美味いのに、俺の功績は一割らしい。
「そうよ? 午前中だけの時間、座って本やキーホルダーを売れば一万円手に入るんだから、むしろ好条件じゃない」
「まあそれは……そうか」
溜息が出そうな姉貴の言葉を訊いて、うんざりしながら立ち上がる。ぐいっと背伸びをすれば腰の骨がごきっと鳴った。鳴ったと同時に、痛え、と思った。これはゲームしているとき、自分が操作しているキャラクターが被弾した際に、つい「いってえ」と言ってしまうのと同じやつだ。きっと、脳の中に小さな俺がいて、小さな義信が叫んでいるんだ……早く帰りたい、と。
「それじゃあ、俺は帰るわ」
会場にいる人々が放つ熱気というか、迸るパトスと呼ぶべきか、そういう色々な要素が混じった臭いを嗅ぎ続けるのが嫌だったのもある。だけど、それだけじゃない。興味がないバンドのライブを見ているような感覚に近い。疎外感、とか言うんだったかな。
優志もこんな感情を抱きながら、毎日学校に通っていたのかもしれないと思うと、殊更にいまいる場所が自分には相応しくないような気がしてきた。
「せっかくだし、企業ブースでも見ていけば? 最新鋭のVR技術を使った体感型ゲームとかあったわよ?」
「興味ねえ……つかそれ、もう体験済みとか言わないよな?」
「義信。大人には付き合いってものがあるのよ……わかるでしょ?」
神妙な趣きで、姉貴は言う。
「わかんねえよ、ガチで」
「おすすめはカプンコさんのヘリコプター操縦ゲームね」
「墜落前提のゲームじゃねえか!?」
カプンコのゲームに登場するヘリは絶対に墜落する。これはもう常識と言っていい。他にも、電車は脱線するし、車は衝突するし、救助船は沈没する。まさか、カプンコ側がそれを認めるようなゲームを持ってくるとは。これも、夏コミならでは。ガチの冗談ってやつだろう。知らねえけど。
「でーもー。アンタはコスプレのほうが興味ありそうよねえ? 際どい衣装のレイヤーさんのローアングル撮影は禁止よお?」
やけにねっとりした口調だ。
気持ち悪い。
「しねえよ!」
「じゃあ、アンタの好きな〝どすこい初恋〟の新刊だけ? 今回は行司と禁断の愛だって」
うげえ、と舌が出た。
「俺のトラウマを抉るな……つか、まだ続いてたのかよ」
悪夢はカプンコのゾンビゲームだけで充分だっての。
「コアなファンが多いの。あのサークルって」
「怖いもの見たさの間違いだろ……ネタコスでも見て帰ることにするわ」
ふうん、と興味なさそうな返事をした姉貴に「じゃあな」と別れを告げて、会場の出入口を目指した。どすこい初恋を販売しているサークルの様子を見てみようなんて、俺は絶対に思わないが、行司と相撲取りの禁断の愛──想像しただけでもぞっとしないな。
* * *
会場から一歩出ると、磯の香りが夏の生温い風に運ばれてくる。周囲に広がる青黒い海は、東京湾だ。海を見ればバイブスも上がると思って隣接した公園のベンチに座って眺めてみたが、周囲の騒音と人の群れに阻まれて、それどころではない。おそらく、会場の半径一キロ圏内に落ち着ける場所はないだろう。
「どうせ海にくるんだったら泳ぎたいよなあ……ガチで」
さすがに、東京湾を泳ごうとは思わないけど。
しばらくぼけっと周囲を観察しながら休憩していた俺の隣に、すっと女性が腰を下ろした。白いストローハットを被ったその女性は、ちらと俺を窺うような視線を向ける……どこかで見たような横顔だ。
「お疲れ様」
ふわりと吹いた潮風が、ストローハットの鍔を鳴らした。
「ありがとう……ございます?」
女性の声は風鈴の音のように涼しげで、一瞬でも暑さを忘れさせてしまうほどだ。淡い色の花弁が空を舞うような、見事な刺繍が施されている白のワンピースを着ている女性は、薄っすらと口元に慈愛の満ちた笑みを湛え、垂れた瞳で俺を見つめる。この人はもしかすると、俺が知っている女性かもしれない……多分、いやきっと。
「紗子さん?」
「そうよ。久しぶり」
名前は弓野紗子。姉貴のサークルに在籍しているメンバーの一人で、婉美な容姿はさぞ男子からモテるだろうことは、火を見るより明らかだ。
がさつな姉貴に紗子さんの爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだけど、それを言えば、姉貴は文字通りに実行しそうだ。絶対に言えない。
「実家の用事は?」
紗子さんは実家の用事があったらしく、数日前から離れていたと訊いていた。そういう経緯もあって姉貴は俺を頼ってきんだろう──そうじゃなくても駆り出されるだろうけど──。紗子さんの実家は、たしか仙台だった。朧げな記憶を辿り思い出したのは、牛タンが上手い場所。我ながら、食い意地の張った覚えかたをしている。
「実家の用事はもういいんですか?」
「そう。でも、思ったよりも早く終わったものだから、荷物を部屋に置いてくる時間ができたの。私の代わりを務めてくれた義信君には、ちょっと申し訳ないけれど、そのおかげでゆっくり支度ができたわ」
数日前から実家に帰っていたってことは、急を要する用事だったのかもしれない。気持ちの整理とか、そういうことをしなければならない事情があったと鑑みれば、俺ができることなんてサークルの物販を売り捌くくらいだなものだ。
「いや、別に気にしなくていいっスよ」
「ふふっ、優しいのね」
それにしても、紗子さんとこうして二人きりで話のは初めてかもしれない。いつもは隣に姉貴がいて、あわよくばって感じだったしな。俺だって年頃の男子なんだから、そういう行為は二人きりの状態でして欲しい。姉貴の部屋と隣り合わせってのも、なあ……。
「紗子さん。なんかいつもと雰囲気が違いますね」
「そういう義信君は、ちょっと大人っぽくなったかしら?」
「成長期っスかね」
冗談めかしていうと、紗子さんは頭を振る。
「それもあるけれど、外見じゃなくて、纏っている雰囲気のことを言っているのよ」
纏っている雰囲気なんて鏡を見てもわからないのに、紗子さんにはそういった『目に見えないもの』を見る力があるみたいだ。俺の戦闘力はいくつくらいだ? せめてヤムチャくらいは、と思う。ラーメンが食いてえ、とも思った俺の思考はえらく単純だ、と姉貴は言うに違いない。
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by 瀬野 或
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