六〇時限目 初デートは愁いを帯びて ⑥[中]
静まり返る部屋は、耳鳴りが訊こえそうなくらいだった。僅かに、塩素の匂いがする。堂島さんは私をじいっと見つめながら、眉を顰めた。
「あの少年は、先に帰ったのかな?」
どうやら、堂島さんは私の正体に気がついていないようだ。
「私……、僕が鶴賀です」
声を戻して言うと、堂島さんは目を丸くして一驚した。が、直ぐに冷静さを取り戻した。
「見た目が変わっていたものだから別人かと……いや、失礼」
コホン、態とらしく咳払い。
「後藤田から話は訊いている。お礼を、とのことだが」
「はい」
レンちゃんが一歩前に出た。
「お礼もしないまま帰るのは失礼だと思いまして。その節は大変ご迷惑をおかけしました。……ありがとうございました」
「頭を上げなさい。救助は我々の本分だ。わざわざ礼儀を通す必要もない……とはいえ、その気持ちは有り難く受け取っておきます」
「それだけ、ですか?」
今度は、レンちゃんが目を丸くした。大なり小なり、叱咤されるのを覚悟して参じたのに、拍子抜けしてしまったのだろう。
「言うことは全て……、彼女? に言ってある。同じことを二度も言うほど暇ではない。が、それで気が晴れないというのなら、一言くらい言わせてもらおうか」
「はい」
「命に別状がなくてよかった。次は気をつけなさい。……以上」
意外にも、堂島さんは口角を上げた。
「キミたちは県外からきているのだろう。遅くなっては親御さんが心配します。早く帰りなさい」
鬼のような人だと思っていたけれど、根が厳しいだけで、本来は優しい人なのかも知れない。私たちはもう一度だけ謝意を告げて、失礼しますとその場を去った。
夕日が海に反射して綺麗だけど、その素晴らしい光景を楽しめる程の精神的余裕は無かった。
苦々しい気分のまま、海を去ろうと砂浜を歩く。罪の意識は大分薄れたけれど、悔いが残っていた。私が正しい判断をしていれば、ここまで大事にはならなかったと思うと、内心忸怩たるものがある。隣を歩くレンちゃんを見遣った。なんともいえない、痛ましい表情をしていた。
優しい言葉は、時として悲しみや苦しみに打ちひしがれている心を容赦なく劈いたりするものだ。堂島さんに詰られた私のほうが、幾分マシだったのかも知れない。
「おーい」
野太い声にはっとさせられて、声の主を探した。浜辺の出入口。熊田さんが、階段の前で手を振っている。ふと〈森のくまさん〉の歌詞が頭に浮かんだ。海の熊田さん。心の中だけで言う。語感はばっちりだ。童謡の中に登場する〈くまさん〉は、少女のハンカチを届けるために追ってきた優しいやつだが、海の熊田さんは、無礼な物言いではあるけれども、心根の優しい人だった。
私たちが重い足取りで近づくと、熊田さんは手を振るのをやめた。
「見送りにきたぜ」
「ありがとうございます」
レンちゃんはぺこっと会釈をする。生硬い笑み。誠意に応えようとして、無理して笑っているのは明白だったが、私も似たようなものだろう。とても笑える気分じゃなかった。
私たちの様子がおかしいのは、熊田さんから見てもあからさまだったらしい。眉根を寄せて、レンちゃんを見る。
「堂島のやつはなんだって?」
「温かい言葉をかけてくれました」
懐疑的な目をしながら、
「アイツが? ……へえ、可愛いところもあるじゃねえか」
と言って、顎髭を撫でた。
どうやら、顎髭を撫でるのが、考えごとをする際の癖らしい。飲食店を経営しているのならば、髭は極力剃るべきだとは思う。けれど、熊田さんの髭が無くなったら熊田さんとは呼べなそうだ。月並みな譬えを出すと、カカオ八〇パーセントのチョコレート。甘くないチョコなんて、私は断固認めない。
「堂島さんとは長い付き合いなんですか?」
ちょっとした疑問が浮かび、私は訊ねる。
「そうだなあ。長いっちゃあ長いな」
随分と曖昧な答えだ。
「堂島は高校の後輩だ。学生の頃から真面目に輪をかけたようなヤツでな。融通が利かない頑固者だったんだが……あの容姿だろ? なかなかにモテる。オマケに有能なもんで、いまじゃあプロのライフセーバーだ」
ライフセーバーのプロ。つまり、競技としても活動しているってことか。実際問題として、ライフセーバーだけで生活するのは困難だろう。後藤田さんも、仕事の合間を見ながらやっているに違いない。だが、プロとなれば話は変わってくる。大会で優勝したりすれば賞金を得られるだろうし、契約しているスポンサーからも資金が入るだろう。そこら辺は、他のスポーツ選手と同じだ。
「熊田さんは、ライフセーバーにならなかったんですか?」
「昔はやっていたが、いまは引退して気ままな生活をしている。こっちのほうが性に合ってるもんでな。気に入ってんだ」
それにしても、と私をじいと見つめた。
「こうしてまざまざと見ると、お前が男だってわかんねえなあ。大したもんだぜ」
「私だって、初見ではわからなかったんですよ。当然です」
なぜだか、レンちゃんが得意げになっていた。
熊田さんとの会話を功を奏したようで、表情の硬さは大分和らいでいたけれど、まだ笑顔に影が残っている。簡単に割り切れるような些細な出来事ではなかったし、本調子に戻るまでは時間が必要だろう。テストで赤点を取るのとは、わけが違うのだから。
「そのカツラもすげえな。地毛にしか見えん」
カツラと言われると、なんだか馬鹿にされた気分になるのはどうしてだろうか? まあ、そもそもカツラを英語読みにしたのが〈ウィッグ〉なので、カツラと言えばカツラなのだけれど。……ジーパンとデニムくらいの差だろうか。
「それ、セクハラですよ?」
冗談めかして指摘すると、熊田さんはふんと鼻であしらった。
「なあに言ってやがる。男にセクハラもあるかってんだ」
「その発言自体が怪しいんですけど」
最後までデリカシーの無い人だ。
【備考】
読んで頂きまして、誠にありがとうございます。もし差し支えなければ、感想などもよろしくお願いします。
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by 瀬野 或
【修正報告】
・2020年8月22日……報告を受けて誤字を修正。
誤字報告ありがとうございます!