五十七時限目 初デートは愁いを帯びて ③[後]
海に足をつけると、温暖化の影響なのか、思っていたほど冷たくはなかった。これくらいの温度のほうが、いいかもしれない。とはいえ、冷たくないわけじゃない。炎天下に晒された体を冷やすには、充分過ぎる温度だ。
海を見ると、浮き輪でぷかりと浮いている子どもや、シュノーケルの先端が飛び出していたりと、思い思いに海を満喫している海水浴客が目につく。大学生風の男女がキャッキャウフフしながら、バナナのような浮き輪でイチャイチャしているのが鼻について、下から昇竜拳をかましてやりたい気分になったが、私の戦闘スタイルは、常日頃から待ちガイルである。
彼らはおそらく、中央から流れてきた組だろう。
熊田さんの海の家の隣は出っ張った地形をしていて、テトラポットが囲ってあった。日本語名は〈消波ブロック〉という。波の力を減衰、または消散させる効果があるらしい。
離岸流の発生条件に、この場所は当てはまり過ぎている。人が寄り付かない孤島みたいになっていたのも、そのせいかも知れない。
今日は海も穏やかで、空に雨雲もないのだから、そこまで離岸流を気にする必要はないか。……なんて、油断は禁物だ。異変を感じたら直ぐに引き返そう。海に慣れていない私がその異変に気がつければの話だけれど。
なにはともあれ、ネガティブに構えていたら楽しめない。せっかく海にきたのだからと足を進める。海水が腰部分にまで浸るところで足を止めた。
ああ、気持ちがいいな。
なんて思いながらぼうっとしていたら、パシャリと水しぶきが顔にかかった。
「ひゃっ」
出し抜けに海水を顔にかけられて、男子らしからぬ変な声が出た。いくら『気分は女子』だからって、自分の声帯を疑う。私に変声期は訪れないのだろうか。きてほしいような、ほしくないような、複雑な心境になった。
「なにをぼうっとしてるの? えい」
追い打ちの海水がひらひらした水着のトップにかかって、すっかりお辞儀してしまった。
海に入るからシャツを脱いだけれど、やっぱり恥ずかしい。
「油断大敵♪」
レンちゃんは、三度海水を抄って投げた。
「ちょっと、レンちゃん!?」
「心ここに在らず、みたいにしているからよ」
そう言って、不敵な笑みを湛える。
「倍返しだー!」
右手を広げて、そのまま海水を振り抜いた。レンちゃんの上半身目掛けて、うねる飛沫。「きゃっ!」と身構えてもとき既に遅しで、全身ずぶ濡れになった髪の毛の先からぽつりと水滴が垂れていた。
「……やってくれたわね」
ならば戦争だ、と言わんばかりの目だ。
「え、えへ?」
「笑って誤魔化そうとしても無駄よ。神妙にしてなさい?」
うりゃ、と突き飛ばされて、そのまま海の中へ。
水泡が舞い、そのまま上に浮かんでいく。したり顔で私を見ているレンちゃんが見えた。私たちが立ち止まった場所は、浅瀬と深間の中間だったようで、どんどん体が沈む。
青を濃くした砂の地面に、ごつごつした岩がいくつも点在している。表面には珊瑚や、深緑の苔が生息していた。急に人間が潜ってきたものだから小魚たちが驚いて、わっと四方八方に散っていく様を見ながら、静かな海の世界に踏み入れた、と実感した。
空から注ぐ太陽光が、木漏れ日のように地面を照らしている。岩と岩の隙間には、ウツボなんかが住んでいるのだろうか。もっと遠くへ行けば、大きな魚たちも見れるかも知れない。見たい、という気持ちはあったけれど、そろそろ息が限界だ。
「ぶはっ」
勢いよく顔を出す。
私の隣で、レンちゃんが「綺麗ね」と呟いた。
「うん。でも、海水が目に染みるよ」
今日の日のために新品の目薬を用意して正解だった。これで目薬がなかったら、帰りの電車で目を開けられないかも知れない。
「というか、危ないじゃん!?」
「だって、私だけ全身ビショビショじゃフェアじゃないもの」
「そうだけど……」
海の中で見たレンちゃんは、美しかった。ワンピース水着がひらりと揺れる様は、人魚の足のようだった。ドレスを着て泳ぐと、こんな感じになるんだろう。ドレスを着て水中を泳ぐ、なんてシチュエーションは不吉かもしれないけど。
「これ以上進むのは危ないから、足がつく場所まで戻ろうよ」
「そうね。ここより奥に進むのは、怖いわ」
浅瀬に到着するまで、前だけを見ながら泳いだ。
足が着いたところでほっとしながら、レンちゃんの姿を探した。
「……あれ?」
いない。
私の後ろを泳いでいる、とばかり思っていたのに。
「天野さん!」
遠くで、水しぶきが上がっていた。状況から察するに、足がつって泳げなくなったのだ。思うが否や、僕は地面を蹴り飛ばす。
準備運動が甘かった。久しぶりの海に見とれて、我を失っていた。天野さんは僕を突き飛ばした。……あのとき、もしかすると、足に異変が起きていたんじゃないか?
楽しい時間を台無しにしたくない、と我慢していたのかも知れない。その気持ちはわかるけど、教えて欲しかった。足がつるなんて、そんな。
「……!」
潮の流れが変わっている。
離岸流──。
脳が、心臓が、これ以上進むなと警告を鳴らしている。このまま飲み込まれたら、僕だってひとたまりもない。
──ライフセーバーを呼びに行くのが正しい判断だ。
海の危険を調べたときから、そんなことは理解している。でも、それで手遅れになったらどうする? 僕は、天野さんを見捨てて、岸で無事を祈るだけでいいのか。
いいわけ、あるか!
離岸流の対処方法は、頭の中にある。
「悩んでいる場合じゃなない。……そうだろ!」
正しい判断じゃないってことは、百も承知だ。愚か極まりない行動をしている、という自覚だってある。勇気と無謀は別物で、僕がやろうとしていることは、火災現場に防具を付けずに入るような自殺行為かも知れない。
だけど。
それでも。
僕らしくないってことも。
冷静さに欠けて判断力が甘くなっていることも。
全部、重々承知の上だ。
慣れないクロールで、天野さんの元へ急いだ。
【備考】
読んで頂きまして、誠にありがとうございます。もし差し支えなければ、感想などもよろしくお願いします。
これからも、当作品の応援をして頂けたら幸いです。(=ω=)ノ
by 瀬野 或
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