五十三時限目 月ノ宮照史は結末に影を落として濁す[前]
「それじゃ、帰るね」
そう言って、琴美さんは椅子から立ち上がった。
「はい、ありがとうございました」
謝意を告げると、満足そうな笑顔で親指を立てる。片手に百貨店のマークがプリントされた紙袋を二つ持っているが、結局、紙袋の中身は訊けず終いだった。なぜ待ち合わせ前に百貨店に寄る必要があったのか、その理由も。
「優梨ちゃんの分も払ってあげる。だって、私は大人だし」
「いえ、自分の分は自分で払います」
大人というだけで年下に奢らなければならない、というのはどうしてだろう。それが社会のルールだからだ、とするならば無理に反発することもないけれども、嫌々奢られるのは落ち着かない。バッグから財布を取り出して、立ち上がろうと腰を上げたら、人差し指で額を押さえつけられた。梃子の原理が働いて、ビクともしない。
「退けて下さい」
とは言わず、目だけで訴えると、琴美さんは悪戯っぽく笑った。
「そういうところが優梨ちゃんの可愛いところよ」
「いまは優志です」
このやり取りが何度目だかもわからないくらい、自分は〈優志〉だと主張した。それでも、琴美さんは僕を〈優梨〉だと言い続ける。最初の頃はふざけ半分で僕を揶揄っているんだと思っていたが、もしかすると琴美さんには僕が優梨に見えているのかも知れない。そう考えを改めるようになった。
「いまは、ねえ?」
からの、この返しである。やはり、琴美さんの瞳に映っている僕は『可愛い優梨ちゃん』なのだと確信した。そして、この〈可愛い〉という単語には、幼い、考え方が甘い、未熟、背伸びした子ども、そういった要素しか含まれていない。
琴美さんを直視できずに逸らした視線の先には、例の紙袋があった。
──気になる?
と訊ねられたときは「別に」と答えたが、最後の最後までなにが入っているのか教えてくれないとは。……いいや、そうじゃないだろう。質問をするときは包み隠さず訊けって教わったばかりではないか。
「琴美さん」
「なに?」
「その紙袋には、一体なにが入ってるんですか?」
訊ねる。
琴美さんは紙袋を軽く持ち上げて、
「パレオ付きの水着三点セットよ」
と、案外すんなり答えてくれた。
だが、それこそ罠だったのだ。
「優梨ちゃんに水着モデルをやってもらおうと思って適当に選んだ物だけど……」
その声音は酷くわざとらしくて、白々しい。
僕が電話したときに、琴美さんは僕の意図とはまったく別の『会うなら水着モデルをさせよう』って魂胆が働いたのだ。だが、肝心の水着がない。いまから水着を買いに走ると待ち合わせに遅れてしまうと悩んだ琴美さんは、ダンデライオンの近くに百貨店があるのを思い出した。
どうせ、『なんて幸運でしょう!』とか思ったの違いない。しかもあの百貨店では、現在、女子中高生から絶大な支持を受けている超人気ブランド〈ファンシーキャット〉とコラボしている。ここまで幸運が重なれば、天啓を得たとすら思ったはずだ。
水着売り場で興奮している琴美さんは、想像に容易い。どれにしようか、神様と相談しているうちに時刻は待ち合わせ時間を超えて、あべべのべだか、柿の種だか、もうひとつオマケにバンバンバンだかは知らないが、そういう経緯で購入した水着が紙袋の中に入っている、というわけだ。
「あ、そうだ!」
パチンという快活な破裂音が店内に響くと、カウンターテーブルの椅子に座って帳面を見ていた照史さんが振り向いた。「何事だ?」って顔を琴美さんに向けている。
「これもなにかの縁ってことで、いま水着に着替えて複数枚写真を撮らせてくれたら、この水着は優梨ちゃんにプレゼントしてあげてもいいわよ?」
悪い話じゃないでしょう? と付け加える。
最初からその水着を着せて撮影するつもりだったのに、よくもまあいけしゃあしゃあと語るものだ。……だが、たしかに悪い話ではない。迫るXデーに備えて水着をどうするか悩んでいたところだし、琴美さんが選んだ水着なら悪いデザインではないだろう。とはいえ、ちょっとでき過ぎた話だと感じた。
「もしかしてその水着は、角度がえぐかったりしないですよね?」
疑うように訊ねる。
「そこら辺の女子高生が選びそうなビキニタイプの水着よ。パレオを巻けば下半身も隠せるし、優梨ちゃんにはお誂え向きじゃないかしら?」
そこら辺の女子高生の水着事情に明るくいない僕にとっては想像し難いけれども、下半身が隠せるとあらば願ったり叶ったりである。水着選びで一番ネックだった問題が解決するとあらば一時の恥は我慢して、水着を頂戴するのもありだ。あり寄りのありだ。既に死語になりつつあるが、まじ卍まである。モデルをするのは非常に嫌だけれども、着心地を確認できるのは有り難い。写真を複数枚撮られるというのは、この際だから我慢する。
いつまでも小胆な態度では、なにも始まりはしないと臍を固めて頷いた。
「そうこなくちゃ♪ 照史さん、倉庫借りるね」
「それはいいけど……、備品には触れないようにしてくれるかい?」
「モチのロンよ!」
「久方ぶりに訊いたよ、その言葉」
照史さんは頬を痙攣らせながら、片手を振って答えた。
「そうと決まれば……」
琴美さんは僕の右手を掴むと、ぐいっと自分の方へ引っ張った。
されるがままに立ち上がった僕を見て、
「優梨ちゃん軽過ぎない? お義姉さんちょっと心配なんだけど」
チビでヒョロガリと言いたそうな目だ。
「義姉という漢字に〝おねえさん〟ってルビが振られそうな呼称はやめてください」
握られた腕を振り解きながら叱咤する。
けれど、琴美さんは僕の怒りなど意に介しない様子で、
「ちゃんと栄養を取らないと、胸は大きくならないわよ?」
頓珍漢な心配をされた。
【備考】
読んで頂きまして、誠にありがとうございます。
こちらの物語を読んで、もし、「続きが読みたい!」と思って頂けましたら、『ブックマーク』『感想』『評価』して頂けると、今後の活動の糧となりますので、応援して頂けるようでしたら、何卒、よろしくお願い申し上げます。
また、誤字などを見つけて頂けた場合は『誤字報告』にて教えて頂けると助かります。確認次第、もし修正が必要な場合は感謝を込めて修正させて頂きます。
今後も【女装男子のインビジブルな恋愛事情。】を、よろしくお願いします。
by 瀬野 或
【修正報告】
・2019年2月23日……読みやすく修正。
・2020年6月10日……加筆修正、改稿。