四十三時限目 初めての感情[中]
「やあ、優志く……いや、優梨ちゃん。こんにちは」
遠慮がちに手を挙げて、精一杯の笑顔を湛える照史さん。私がくるまでの数時間になにが起きたの? 顎のラインがしゅっとしているだけに、頬が大分窶れた気がする。
「こんにちは。……お店は大丈夫なんですか?」
嫌味になってしまったかなって、自分の発言を後悔。そういうつもりで言ったわけじゃないけれど、嫌味に受け取られてしまうような質問だった。
「あ、あの……、ごめんなさい。変な意味じゃなくて、疑問が口を衝いて出てしまいました」
「いいよ、気にしないで。今日は予定があって休みにしたんだけど、その予定が無くなってね。どうしようかと思っていた矢先に彼女から連絡を受けたんだ」
照史さんが店を休むほどの予定って、どんな予定だったんだろう?
訊きたいけど、目が『訊いてくれるな』と言っている気がして、迸る好奇心をぐっと呑み込んだ。
「ツケを払うと言われたら、来ない手はなかったよ」
「だからって、こんなところにこなくても」
ツケ、という弱味を握っているはずの照史さんが、逆に手玉に取られているなんて。自分の弱点さえも武器にするとは、さすが琴美さん。略して『さす美さん』。@の後ろに『がんばらない』が付きそう。
「こんなところとは、随分なご挨拶じゃなあい?」
言いながら、「よいしょ」と口にして椅子に座った。
食卓の上に、何枚もの画用紙が散らかっていた。……模写? 顔の無い男性が、様々なポージングで描かれている。その中には、ポーズを取るのを躊躇ってしまいそうな物もいくつかあった。この枚数分、照史さんがポーズをしたと思うと、かなりの無理難題を迫られていたみたい。窶れた頬の理由は、これが原因か。
これ、完全に琴美さんの趣味でしょ? って疑ってしまいそうな絵もちらほらあって、これから私もこんなことをさせられるのかと、気が遠くなりそうだった。
隅っこに置いてある手動の鉛筆削りで、がりがり鉛筆を削る琴美さんの目は真剣そのもの。さっきまで冗談を飛ばしていた人とは思えない豹変っぷり。ただただ、その容姿だけが残念。
「佐竹君は」
いないんですか? と訊ねる前に、「いないわよ」って返事がくる。
「たしか、仲間うちとどこかの川でBBQするとかで。日帰り旅行? みたい」
「BBQか。もう何年もしてないな」
照史さんが呟くように言って、その足で台所へと向かっていく。
リビングに入った瞬間、馴染みのある匂いがするとは感じたけど、まさかまさか、佐竹宅で照史さんが淹れた珈琲が飲めるとは……しかも無料で。
「優梨ちゃんはホットとアイス、どちらがいいかな?」
「じゃあ、アイスをお願いします」
「私はホットでおねがーい!」
はいはい、と苦笑いしながら台所の奥へ。
状況を鑑みるに、私も照史さんのようにポージングをさせられるのだろう。モデルなんてしたことがないから、上手くやれる自信がない。というか、私がモデルでいいの? 可愛い人だったら、琴美さんが通っている大学にも沢山いるだろうに。もしかして、琴美さんはサークル以外の友人がいない? やだ〜、しんぱしい〜。
「次回作のキャラが、どうしてもこう……インスピレーションが湧かなくて」
「次回って、冬ですか?」
「そう」
同人誌即売会は、毎年、夏と冬に開催される。まだ、今年の夏コミが終わってないのに、琴美さんの頭は次の即売会にシフトしている様子だ。私が琴美さんの立場だったら、目先にある夏コミで頭がいっぱいになっているだろう。そうならないのは、自分の作品が間違いなく売れる、と自負しているからだ。
並大抵の努力では届かない頂で、自分が生み出す作品に自信がなければ靄然としていられるはずもなし。こういうところだけは、「格好いいな」って思う。
「実物を見ればイメージも湧きやすいでしょう? でも、この調子じゃ間に合わないから、今年の冬は予定通りになりそう」
「え? 冬に出す作品も、もう完成してるんですか?」
「完成はしてないけど、その一歩手前の段階まで進めてる」
春になれば夏の商品を出し、夏になれば秋の商品を打ち出すファッション業界のようなテンポで企画を進めるのは、サークル活動の領分を超えているような気がする。琴美さんは、このまま、自分が所属しているサークルを仕事にしようと考えているのかも知れない。
普段はちゃらんぽらんなのに、BL漫画家然とした琴美さんは、一流の風格を纏っていた。
私がこの家に到着して直ぐ、休憩時間になった。
私と照史さんは、テレビ前にあるソファに並んで座っている。必然的に、朝に読み終えた〈unhappy umbrella〉の話題になり、私の解釈と照史さんの解釈を照らし合わせ……とは見せかけの答え合わせ。私はこれでも、趣味で読書をしている者だ。肌に合わなかったといえど、内容は覚えているし、感想文を提出しろと言われたら、容易く一〇枚ほどは書けると思う。でも、照史さんの話を訊いていると、自分の読み方はまだまだ未熟だ、と痛感させられた。
「すごいですね、そんな風に考えたことはありませんでした」
「ハロルド・アンダーソンは異質な作家だからね。伏線の張り方が独特なんだよ」
私たちが雑談をしている合間にも、琴美さんのスケッチは止まらない。後方で、「うーん」とか「ガッデム!」などと唸りながら、カリカリと鉛筆を画用紙に走らせる音が訊こえてくる。
「そう言えば、照史さんと琴美さんってどういう関係なんですか?」
「お客様以上友だち未満、というところかな」
つまり、常連客の上位互換?
考えていると、
「私と照史さんは、優梨ちゃんが思ってるような関係じゃないないわよー。私、彼女いるし」
と、殊更に興味なさそうな声が飛んできた。
「その割には親しげに見えますけど……」
「まあ、付き合いも長いから」
「そうねえ……、足掛け四年くらい?」
琴美さんはたしか、佐竹君の三つ上だったはず。なら、琴美さんも私と同じように、高校時代にダンデライオンを知ったことになる。そして、いまでは琴美さんのキャラデザの元になっているわけで、その間柄は友だちというよりも腐れ縁って感じだ。
「照史さんは、彼女を作ろうとは思わないんですか? 格好いいし、スタイルも抜群だし、女性が放っておかなそうですけど」
「ボクは仕事が恋人だから、これからも作るつもりはないよ」
その声音には、確固不抜の信念すら感じ取れた。どうしてそこまで頑なになっているのか。照史さんの過去は謎だらけで、想像しようにも妄想の域を出なかった。
「さあ、二人とも! そろそろ休憩はおしまいにして、ポージングしてもらうわよ!」
琴美さんが二回手を叩いた。
「優梨ちゃん、覚悟は決めておいたほうがいいよ。……とんでもない要求が飛んでくるからね」
【備考】
読んで頂きまして、誠にありがとうございます。もし差し支えなければ、感想などもよろしくお願いします。
これからも、当作品の応援をして頂けたら幸いです。(=ω=)ノ
by 瀬野 或
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