カフェ・ミット・シュラゴーバー
今回は少しだけ番外編です。
月代雄哉先生とのコラボレーションです。
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旅館の主人という仕事を長年続けていると、様々なお客様に出会う。親子連れの方、お一人の方。美しい方、そうでない方。にぎやかな方、寂しい方。そんな多くのお客様に共通していることがある。それはこの旅館を愛してくださるということだ。
還暦はとうに過ぎた私は、今は家内共々、静かに残り少ない余生を楽しんでいる。庭園に出て、庭木の手入れをしていると、お客様が来られたとの知らせがきた。今では経営を息子夫婦にまかせ、旅館経営の第一線から退いているが、こうして毎日訪れるお客様をお迎えすることは今でも主人として大切な仕事であった。
「いらっしゃいませ。」
玄関口で、大女将である家内とともに深々と頭を下げ、顔を上げてお客様のお顔を見た。私は驚きとともに、懐かしい感情がよみがえって来た。お客様は学生のようで、まだ表情にあどけなさが残っていたが、10年ほど前によく会っていた女性に面影が瓜二つであったのだ。
「ん?私の顔に何かついていますか?」
年若いお客様に言われ、私ははっとなった。
「あ、いえ、何でもございません。お部屋のご用意が出来ておりますので、どうぞごゆっくりなさってください。」
私は仲居を促すとお客様をお部屋にお通しさせた。
「あなた・・・どうしたのですか?」
いつもと違う私の様子に、家内が心配そうに声をかけて来た。
「いや、何でも無い。少しの間あけるが、よろしく頼む。」
私は羽織を羽織り、帽子を被り、外出用の格好になると、杖を持ってゆっくり商店街へ歩いていった。
高台の中腹、月見台展望台とは対をなす場所にある私の旅館「望月館」から商店街まではさほどの距離は無い。坂道を下り、海と空と街の風景を楽しみながら、私は兎屋珈琲店にたどり着いた。
どっしりとした木の扉を開けると、香ばしいコーヒーの香りと、ジャズの音が私を包み込んだ。兎屋で飲む楽しみはいつもここから始まる。こもれ日が店内を暖かく照らし、兎屋が持つ優しく、暖かい雰囲気を幾倍にも増していた。
「いらっしゃいませ・・・これは望月館のご主人・・・ご無沙汰しております。」
マスターが少し緊張した面持ちで挨拶した。
「こちらこそ、なかなか顔を出さなくてすまんの。なにぶん年なのでな。許してくれ。」
私の方も頭を下げると、カウンター中央の席に腰掛けた。10年の歳月を経たカウンターテーブルが、初めて来た時よりもずっと優しく私を出迎えてくれたような気がした。
ふと、隣から、若々しく、かわいらしい声が聞こえた。
「ご隠居さん。お久しぶりです。」
今は亡き親友の孫娘、悠ちゃんだった。私の親友だった祖父に連れられて兎屋に来るようになった悠ちゃんは私と並んで、兎屋の最も古い常連の一人だ。
「これはお久しぶり。あれ?今日は兎屋の日だったかの?」
「違います。今日は、学校も部活も休みだったので、マスターに会いにやって来たんです。」
「ほほぅ・・・マスターも隅に置けんな。」
私は意地悪く、すっかり長く伸びた白いあごひげを撫でながらマスターに言った。マスターはこういう話には昔から弱く、顔を真っ赤にして、カップを磨いていた。
「ははは・・・久しぶりなのに、お厳しい・・・それで、ご主人。ご注文はお決まりでしょうか?」
「あぁ、カフェ・ミット・シュラゴーバーにしてくれんか。」
この注文にマスターは驚いているようだった。
「懐かしいですね。」
マスターは口に指をあて、考える仕草をした。
「無理かね?」
「いえ、大丈夫です。ただ、懐かしいと思いまして。」
マスターは瓶から粉を取り出すと、準備を始めた。
「そうだな。昔、ここでそれを飲んでいた客のことをふと思い出しての、飲みたくなってしまったんだ。」
「カフェ・ミット・シュラゴーバーって言うのは、なんですか?」
マスターとの会話に悠ちゃんが入って来た。聞き慣れない名前に、好奇心を抱いたのだろう。
「そうだな・・・ちょっと待った方がいいかもしれんぞ。もうすぐわかるから。」
しばらくして、香りの良いコーヒーと、粉砂糖がかかったホイップクリーム、チョコレートがトレイに乗ってカウンターに出された。
「どうぞ。カフェ・ミット・シュラゴーバーです。」
「これがそうなんだ・・・」
好奇心豊かに、悠ちゃんがカフェ・ミット・シュラゴーバーを見て来た。さて、そろそろ説明に入った方がいいかもしれない。私はマスターに頼んだ。
「これは、オーストリアのコーヒーの飲み方なんだよ。悠ちゃん。」
マスターが悠ちゃんに教えてくれた。
「昔、この飲み方が好きなお客さんがいての。それはきれいなお嬢さんだった。若いのに、娘さんがいて、よくお母さんと来ていたもんだった。」
「あ、私、その子覚えてる!私とあまり年が違わないのに敬語使ってて、びっくりしちゃった。」
悠ちゃんも何度か会っているようで、その親子を思い出したようだった。
私は、スプーンでクリームをすくい、コーヒーに浮かべた。濃厚なクリームはコーヒーにコクを与えてくれていた。一口飲むと、あの10年前のカウンターがよみがえってくるようだった。
「私は、彼女の真似をして、よくカフェ・ミット・シュラゴーバーを飲んでいたよ。その時はこんな風な映画音楽がかかっていたかな。」
いつの間にか店の音楽が、ジャズから、古い映画音楽に変わっていた。マスターが私に気を利かせて、音楽を変えてくれたのだ。
「マスターも、若いのになかなか・・・食わせものだな。」
私は一口コーヒーをすすり、年寄りじみた笑みを浮かべた。
しばらくコーヒーを味わい、口直しの水を飲みながら、店の中を眺めた。兎屋は10年前と変わらない。重厚な調度品の位置も、流れる音楽も、そして私達を包むコーヒーの香りも。私は目を閉じてセピア色の思い出にひたった。
10年前のように、カウンターの左奥の席で、娘さんと今でもカフェ・ミット・シュラゴーバーを飲んでいるあの女性がいるような気がした。
「さて・・・と。マスター。私はそろそろ帰るとしよう。楽しかったよ。」
コーヒーを飲み終えると、私は席を立ってマスターに挨拶をした。
「いえ、こちらこそ、懐かしい思い出をありがとうございました。」
マスターが、礼儀正しくお辞儀をした。
「あ、じゃぁ、ご隠居さん。私、望月館までお送りします。」
悠ちゃんも席を立ってエスコート役を申し出てくれた。
「ありがとう、悠ちゃん。よろしく頼むよ。」
私と悠ちゃんは兎屋をあとにし、望月館に帰ることにした。兎屋を出てすぐ、魚茂の前で私達はあのお客様にすれ違った。どうやら、彼女も兎屋に行くようだった。
あの子もカフェ・ミット・シュラゴーバーを頼むのだろうか、10年前の母親と同じように。アーケード街を出たとき、少しだけ高くなった青空が私達の上で広がっていた。
楽しんでいただけたでしょうか。
カフェ・ミット・シュラゴーバーは初めて知ったのですが、なかなか面白い飲み方です。これが飲めるところで飲んでみたいです。