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夕焼けの縮図

「まいったなぁ……」


水曜の午後、俺はなじみにしている兎屋のカウンターで深いため息を吐きながら漏らした。


「また、魚茂さんの『まいったなぁ』が始まった。今度はどうしたんですか?」


マスターが苦笑いをしていった。


「いや、明日せがれの三者面談なんだけどよ。先生からどんなお小言食らうのか恐くってよ」


俺はマスターが入れてくれたモカを前に腕組みした。マスターはカップを磨いて笑っている。


「魚茂さんが怒られる訳ではないんですから、大丈夫ですよ」


マスターはいつものように落ち着いた笑みを浮かべて言った。あの笑顔で話されると、大丈夫だと言う自信に満ちてくるから不思議だ。


「まぁ、そうなんだけどよ。あいつぁ、俺と女房に似て勉強なんざかけらもしやがらねぇ。ギターとハーモニカにばかり打ち込みやがって」


「何かに打ち込むのは良いことです。私は目の前に一人、何事にも打ち込みやすい人を知っていますよ」


マスターはいたずらっぽい視線を俺に向けてかけていたメガネを直した。マスターにそう言われるとぐうの音も出なかった。俺は元々コーヒーなんて飲む柄じゃなかった。だが、10年前、うちの店の裏にできたこの店の挨拶に訪れ、一杯のブレンドを飲んだその日から、この黒い液体に夢中になってしまった。


いつの間にか兎屋の全種類のコーヒーを飲み尽くし、今では商店街きってのコーヒー通になってしまった。


若い頃はロックに打ち込み、月見浜で仲間とともに悪の限りを尽くし、「お月見爆弾」の異名を取ったこの俺が、こんな風にコーヒー飲んで、父親面してせがれの進路の心配をしているなんざ、死んだ親父にも想像がつかなかっただろう。


俺は更にマスターに愚痴を言い続けた。マスターは微笑みながら俺の話を聴いてくれている。十歳ほど年が離れているのに、いつもながら感心しちまう。


「このままじゃ。高校も行けねぇかもしれねぇ……その点……」


俺がこの先を言おうとしたとき、兎屋のドアが開いた。ジャズとアンティークに囲まれた大人びたこの店には相応しくなさそうなポニーテールをした小学生くらいの女の子が入って来た。


俺は女の子に挨拶をした。


「こんにちは。望香ちゃん」


「こんにちは。魚茂さん」


マスターの愛娘の望香ちゃんだ。12歳という年の割にしっかりした子で、今では家事を引き受けていると言う。


「あとでうちに寄んな。旬の魚、安くしておくからよ」


俺は望香ちゃんに言った。望香ちゃんはお礼を言うと奥の部屋に入って行った。


「いつもすみません」


マスターが申し訳なさそうにお礼を言った。奥さんを亡くしてこの街に移り住んだマスターは兎屋珈琲店を開いて以来、ずっと望香ちゃんと支えあって生きて来た。いくら俺たちだって、時にはその手伝いをしても、罰はあたらないだろう。


「何、いいってことよ。いつも美味いコーヒーを飲ませてもらってるしな。それより……」


俺は頭をかいて別の話題に切り替えた。


「マスターも、そろそろ相手を見つけたらどうだい?あれじゃ、望香ちゃんがふびんだ。母の愛も知らなくてよ」


俺は兎屋に通ってから、何度となくこの話題を切り出した。マスターは男の俺から見てもいい男だと思う。気持ちの悪い話だが、俺が女だったら、間違いなく求婚していただろう。だが、マスターの答えは変わらずにこうだった。


「すいません。私は彼女以外の人を愛することはできませんから」


そう言われると、いつも何も言えなくなるのが困ったものだが、マスターの言う通りだ。これもまた、恥ずかしいものだが、俺が女房を亡くしたら、同じことを言うだろう。家では喧嘩の絶えない俺たちだが、十六年も一緒にやって来たのは口にするのも恥ずかしい愛で結ばれてきたからなんじゃないかと思う。


全くもってがらじゃないが、性に合わないことをコーヒーとにらめっこしながら考えていると、マスターが話しかけて来た。


「コーヒー、冷めてしまいましたけど、おいしくなかったですか?」


「そんなことはねぇよ。こっちこそ、すまねぇな。慣れない考え事してせっかくのコーヒーを台無しにしちまってよ」


そういって俺は残っていたモカをいっきに飲み干した。


「そういや、俺のせがれの三者面談の話だったな。まったくゆううつだな……あ、おかわりもらえるか? 今度は、キリマンジャロにしてくれ」


俺は、また腕組みをすると、うんうん唸りだした。マスターは苦笑いしながら、ポットに火をかけた。


次の日の午後、俺は息子の健介と一緒に月見が丘中学にいた。高台の頂上にある月見ヶ丘高校に隣接する形で中学校があり、月見浜に生まれた子どもは皆、この中学校に通っていた。


普段着たことの無い背広を着て、俺は背筋を伸ばした。健介はそんな俺を嫌そうなまなざしで見ていた。


担任の先生に言われて、教室に入ると、一組の机が差し向かいでくっついて、面談の準備がなされていた。先生に促されるままに俺たちは椅子に座った。


先生もまた着席すると、準備されていた資料を流し読みして、俺に言った。


「今度の中間テストの成績を見ますと、非常に努力が必要ですね。体育と音楽は問題ないのですが……」


「はいっ! せがれは、いや、息子は音楽にうちこんでばかりいやがりますので……」


俺はうわずった声を上げた。そんな様子をみて、先生は苦笑いした。


「お父さん。そんなにかしこまらずに……成績の話に戻りますが、五教科の成績が、その問題でして。中三のこの時期この成績では、地元での進学は難しいかもしれません」


自分のことを言われた訳でもないのに、俺は頭に衝撃を受けた気がした。先生はその後、健介のレベルに合った学校を薦めてくれたり、他の選択肢を薦めてくれた。


俺は先生に「すいません」を繰り返していた。時々、健介の方を見ると、心底軽蔑したようなまなざしで俺を見ていた。


三者面談が終わり、帰りの坂道で、俺は健介に言った。


「お前よぉ。音楽ばっかに打ち込んで、勉強しろよ。俺ぁ、先生の前で恥ずかしかったぞ」


健介は憮然とした表情で言い返した。


「親父だって若い頃は音楽に打ち込んだって言ってたじゃねぇか。なんで俺はだめなんだよ」


「そうは言ってねぇよ。ただ、俺は勉強もしろって言ってんだ。そんなんじゃ、どこの高校だって行けねぇじゃねぇか」


俺は優しく諭すように言ったつもりだった。だが、健介は癇に障ったようで一気に怒りだした。


「うるせぇよ! 学の無いのは親父だって同じだろ! 俺は親父のようにならねぇ! 都合のいいときに父親ぶって押さえつけて、他人にすぐヘーコラする根性なしの生き方はしねぇよ!」


俺はかっとなって、健介に平手打ちをくらわした。乾いた音がほんの少しの時間だけこだました。健介は驚いた表情を浮かべたがすぐに走り出し、街に消えて行った。俺は自分の手をしばらくみつめていた。


家に帰ると女房が俺を出迎えた。


「お帰りなさい。一体何があったの? 健介、荷物を置くなり出て行ったわよ」


「ちょっとな。……悪い。俺も出かけてくるわ」


女房の顔に視線を合わせずに、俺は家を出て、また学校へ向かう坂道に向かっていった。

坂道をのぼり、高台の中腹までやってくる。学校へ続く坂道はほぼ一本道だが、ただ一つだけ、交差点があった。交差点を左に曲がり3分ほど歩くと、月見台展望台があった。


高台の中腹の切り立った崖の上にあるこの展望台は坂道同様、月見浜の街を一望出来る。眼前百八十度に広がるパノラマは絶景というのに相応しい光景で、若い頃から俺の大好きな場所だった。


「もうすぐだな」


腕時計を見ると、そろそろ日が沈む時間になりかけていた。悲しいこと、辛いことがあると、俺はここに着て夕焼けを眺めるのが常だった。空の色が青から次第にオレンジに変わり始めていた。


「魚茂さん?」


ふと慣れた声に振り向いた。そこには望香ちゃんを連れた兎屋のマスターがいた。こざっぱりとした白シャツをルーズに着こなし、黒のデニムに合わせた格好は雑誌のモデルを連想させた。下手をすればカジュアルすぎる格好になるのだが、それでも落ち着いたように見えるのはマスターの性格故に思われた。


望香ちゃんはポニーテールをおろし、長いストレートヘアにしていた。白のブラウスと、ブラウンのロングスカートは年よりもずっと大人びた印象を与えている。俺はわざとらしく明るい声でマスター達に声を駆けた。


「よう! マスター! 今日は休みか?」


「えぇ、定休日なのでこうして、望香を連れて散歩に。この子はここの夕焼けが好きでして」


「そうか……いいもんだものな。ここの夕焼けは……」


俺は振り返って、空と海の景色を見た。オレンジ色の空と真っ赤な太陽がその日最後の輝きを放っていた。


「なぁ、望香ちゃん、お父さんお借りしていいかい?」


俺は望香ちゃんに頼んだ。


「ええ、不肖の父ですがどうぞ」


望香ちゃんは可愛く笑うと俺たちから離れていった。


「いつもながら思うが、可愛い娘さんだな」


俺はマスターに言った。マスターは苦笑いして言った。


「最近はすっかりませてしまって、困ります」


お互い子どもには苦労してるなと笑うと、俺は本題を切り出した。


「なぁ、マスター。人を殴ったことはあるかい?」


俺は夕焼けを見ながら言った。夕焼けのオレンジ色はだんだん濃くなって、あたりの空間そのものを全てオレンジに染めているかのようだった。マスターは俺の問いかけに静かに、重く返事をした。


「はい」


「俺もだ。若い頃はやんちゃなもんでよ。色んなヤツを殴ってきたもんだ。じゃ、マスター。大切な人を殴ったことはあるかい?」


マスターは一度間を置いて言った。マスターは俺から少しだけ目をそらし、悲しそうな声で言った。


「はい。一度だけ……」


「俺は今日初めて、せがれを殴っちまったよ。あれだけ人を殴ったのに、殴ったときには痛みなんか感じなかったのに、今日だけは、今日だけはひどく痛かったんだ。俺ぁ、俺ぁ……こんなに殴ることが辛いなんて初めて知ったよ」


目の前のマスターがにじんで見えた。夕焼けもくもって見えた。気がついたら、俺は涙を流していた。マスターと俺の間を、少しだけ生暖かい風が吹いた。こんな風だが、今の俺の心には少しだけ痛く感じた。気がつくと夕焼けの時間は終わりを告げ、見下ろした街には小さな明かりがいくつもついていた。


俺は寂しそうに言った。


「夕焼けの時間はすぐに終わっちまうな。気がつくといつの間にか夜になってやがる……」


俺が落ち着くのを待って、マスターが話しかけた。


「魚茂さん、兎屋によっていきませんか。夕焼けの延長戦をしましょう」


俺は首をひねった。マスターが望香ちゃんを呼び、こっそり耳打ちをした。望香ちゃんは嬉しそうに頷いた。俺は「夕焼けの延長戦」という意味が分からなかった。今はもう暗くなっているし、兎屋で何をするのか……何度も考えながら、俺はマスター親子のあとをついていった。


定休日の兎屋に入ると、そこにはいつものコーヒーの香りは無く、電気を落とした店内は寂しく暗い印象を受けた。マスターは店の照明を付けていった。


「少しお待ちください。すぐに準備しますから」


俺はカウンターの中央の席に腰掛けた。望香ちゃんは俺の左隣に座って父親の仕事をじっと眺めていた。どんなコーヒーが出てくるのだろう。俺は少し楽しみになりながら、マスターの動きを眺めた。


「魚茂さん、コーヒーは全部飲みましたけど、うちのジュースは初めてじゃないですか?」


マスターは優しい微笑みをして、冷蔵庫からオレンジを取り出した。


「うちではジュースはフレッシュから作りますから」


そう言うと、マスターはオレンジを半分に切って、絞り機で丹念に果汁を絞り出した。グラス2杯分の果汁をしぼり終えると、冷蔵庫から冷やしたグラスを取り出し、しぼった果汁を注いだ。きれいなオレンジ色の液体がグラスを満たしていく。バースプーンを取り出したマスターは、少しだけガムシロップをジュースに加えると、軽くかき混ぜた。


「マスター、バーテンダーみたいだな」


俺はちょっとだけ冗談を言った。


「それを言っては、本職に失礼ですよ」


マスターは笑うと、もうひとつ、赤い液体で満たされたボトルを取り出した。ボトルのラベルにはグレナデンシロップと英語で書かれていた。ボトルをあけるとマスターは片手でバースプーンをグラスの縁につけ、一筋、赤いシロップを注いだ。静かで、それでいて自信に満ちたその動きは寒気すら覚える程洗練された動きだった。


グレナデンシロップを注ぎ、また、ひと回しだけかき混ぜると、マスターは俺たちにグラスを差し出した。


「どうぞ。これが当店のオレンジジュースです」


俺たちの目の前に出されたオレンジジュースは兎屋の照明で暖かく輝いていた。オレンジの鮮やかな橙色の中にグレナデンシロップの赤がまるで沈み行く夕日のようにグラスの底で淡く存在感を主張していた。まるで、あの展望台の夕日をそのままグラスの中に詰め込んだかのようだった。


「なんか……飲むのがもったいなくなるな」


マスターは気恥ずかしそうに頬をかいた。望香ちゃんと乾杯すると俺はオレンジジュースを一口飲み込んだ。オレンジの優しい甘みが口の中に広がって、果実特有の渋みや、嫌な酸味は全く感じなかった。また一口含むと今まで持っていた暗い考えが癒されていくような気がした。


「望香が昔言ったことがあるんです。あの夕焼けがもっと見たいって。日が暮れて、夜になってもずっと見ていたいって。普段わがままを言わない子だけに、あの時は困りました。二人で生きて来て、初めての喧嘩をしました。仲直りの印にこのジュースを考えたんです。最初に飲ませた時の顔と言ったら……」


「お父さん。恥ずかしいよ」


オレンジジュースをおとなしく飲んでいた望香ちゃんは顔を赤らめてうつむいた。


「子どもは不器用ですが、純粋です。理不尽なことを言うかもしれません。でも、我々の方から心を許さない限り、子どもたちも我々を許してくれない。私はそう思うんです」


マスターは洗い物をしながら言った。


「けど、けどよぉ。俺に何が出来るのか……わからねぇんだ。謝らなきゃならねぇ、そう思うけどよぉ……」


俺の不安げな一言に、マスターはさらに言った。


「謝る必要は無いんですよ。それに……魚茂さんも持っているじゃないですか」


俺ははっとなった。俺にも持っているじゃねぇか。健介と共有出来るものを


「マスター、俺、行くわ! ……あ! とと、勘定、勘定!」


「今日は定休日。魚茂さんは、うちにお茶しに来ただけですよ」


マスターは器用にウインクした。


「ありがとな」


俺はマスターと望香ちゃんに手を振ると、家に戻った。


「健介は?」


「まだ、帰って来てませんよ。どうしたの? 一体?」


出迎えた女房を半ば無視して俺はある支度を始めた。


「すまねぇ! また出かけてくる! あ、健介と飯食って帰ってくるから、晩飯、今日はいいぞ」


そう言うと俺は店を飛び出した。肩をすくめてあきれ顔で優しく笑う女房の姿が見えた。俺は店の軽ワゴンに乗り込むと一気に健介のいる場所に走らせた。






第3話アップしました。


以前バーで飲んだオレンジブロッサムが忘れられず、こんな物語にしました。


珈琲店なのにジュース。今回は異色な話にしました。

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