ベトナムコーヒー
私が初めてコーヒーを飲んだのは、十年前だった。お洒落好きで、あたらしもの好きなおじいちゃんが、オープンしたての珈琲店に連れて行ってくれた。
オーダーのとき、おじいちゃんがジュースにしなさいって言うのも聞かずにおじいちゃんと同じがいいとコーヒーを頼んだ。
生まれて初めて飲んだコーヒーは当時五歳の私にはとても苦くて飲めたものではなくて、へそを曲げた私に、マスターは穏やかな笑顔をしながら、もう一杯コーヒーを出してくれた。
それが私とベトナムコーヒーの出会い。
コーヒーの苦みの中にコンデンスミルクの濃厚な甘みが広がってとてもおいしかった。
それ以来、私は兎屋とベトナムコーヒーの虜になったのだ。
私は今、学校から商店街へ続く坂道を自転車で駆け下りている。私の通う月見ヶ丘高校は月見浜の街を一望出来る高台の頂上にある。行き道の上りは大変だけれど、帰り道に海と街を見ながら、風を切って坂を一気に駆け下りるのは私の楽しみの一つだった。
坂を下り、商店街のアーケードに入ってすぐの路地を右に入る。そこに私のお気に入り、兎屋珈琲店があった。私のブレーキをかけ、勢い良く自転車を止めた。
「こんにちは! マスター!」
いきおいよくドアを開け、私はマスターに挨拶した。
「いらっしゃい。悠ちゃん。……あれ? 今日は兎屋の日だったかい?」
マスターはカレンダーをちらっと見た。
兎屋の日、それは私がこの兎屋珈琲店に来る日のこと。まだ、高1だし、おこずかいの少ない私が兎屋に来れるのは週に1度だけ、少しでも兎屋に長くいたいから、次の日学校が休みの毎週金曜日に行くのがお決まりだった。いつの間にか、誰から言い出したのかわからないけれど、毎週金曜日は「兎屋の日」と呼ばれるようになった。
「そうだよ。マスター。でも、一週間過ぎるのは本当に早いね」
私はカウンターの奥の席に座ると、マスターに言った。
「ご注文は?」
「ベトナムコーヒー」
「かしこまりました」
マスターはにっこり笑った。
私はお店の中を見回した。平日の午後3時半。ちょうどお茶の時間帯ということもあって、兎屋は満員だった。マスターはカウンターの向こうで忙しく働いていた。私はマスターの動きをじっと見つめた。お店が満員でも、マスターは全然慌てない。むしろ落ち着いていて、流れるようなよどみない動きで、コーヒーを一杯、一杯入れていた。
「すごーい。かっこいい」
私がそう言うと、マスターは少し恥ずかしそうにぷっと吹き出した。
「おだてたって何も出ないよ」
ドリッパーにお湯を注ぎながらマスターは言った。午後4時、お客も帰り始め、一段落ついた頃、ベトナムコーヒーがやって来た。
「お待たせいたしました。ベトナムコーヒーです」
香りのいいコーヒー。甘みが強くてクリーミーなコンデンスミルク。この10年間、ずっと私のお気に入り。一口飲むと幸せな気分になって、私は声にならない声をあげた。
「ありがとうございます」
マスターは眼鏡をあげながら少しはにかみながら笑った。
「今日はどうしたんだい? えらく上機嫌だね」
マスターはカップを拭きながら私に言った。
「ふふふ……私、今、恋してるの」
へぇとマスターはカップを拭いたまま聞いていた。
「部活の先輩でね。とってもかっこ良くて、頭もいいし、やさしくて……」
マスターはにっこり笑顔を浮かべながら話を聞いてくれている。
「よくメールもするし、話していると楽しくて……これって恋よね。今度の金曜日、告白するつもりなの」
「なるほど、それで今日は決意表明をかねて……」
洗い物を終えたマスターは腕組みしてうなずいた。
「成功したら、祝杯だね。……未成年だから、もちろんコーヒーで」
「えぇ!?」 と私はオーバーアクション気味に不機嫌な顔をした。その日は兎屋が閉まるまで笑い声が絶えることはなかった。
次の金曜日、私はずぶぬれになりながら歩いていた。どこを歩いているのか、何をしているのか、わからなかった。
私は意を決して先輩に告白した。けれど、その返事は私の一番聞きたくないものだった。
「ずっと付き合っている彼女がいる。俺はその子のことが好きだし、これからもそうだ。今まで通り、気のいい友達でいよう」
それが、先輩の答えだった。他にも何か言ったのだろうが、頭が真っ白になって、何も耳に入らなかった。
「友達でいよう」
その言葉が私をいっそう傷つけた。友達……先輩は私を女の子としてみてくれていなかったのだと知ったから。
先輩と別れてどこをどう歩いたかわからない。いつのまにか私は兎屋の前にいた。私がゆっくりと扉を開けるといつものようにコーヒーの香ばしい香りが私を包んでくれた。
「いらっしゃいませ……悠ちゃん。ちょっと待ってて」
マスターは私の姿を見ると奥に入ってバスタオルをかけてくれた。
「奥の部屋に着替えがあるから、着替えてくるといい。男物で悪いけど、このままでは風邪を引いてしまうよ」
奥の部屋で私はマスターから借りたシャツとズボンに着替えた。男物の服だったので私には少し大きく、袖をおって着ることにした。奥の部屋からお店に入ると、私の身体が冷えないようにマスターが温度を上げてくれたのだろう。少しお店の中が暖かくなっていた。
私はカウンター席に腰掛けた。
「ふられたのかい?」
コーヒーの粉をドリッパーに入れながらマスターは言った。私はマスターに目を向けた。
「わかるよね。やっぱり……」
そういうと、私はマスターから目を背けた。恥ずかしさと気まずさでマスターの方を見ることが出来なかった。マスターがお湯を注ぐ音だけが聞こえた。
「僕にも経験はあるからね」
苦笑いしているような声だった。
「どうぞ……」
目の前に出されたコーヒーを見て、私はかっとなった。目の前に出されたのが普通のブレンドだったからだ。
「マスター。これ、普通のコーヒーじゃん! 私が飲めないって知っているくせに! !」
マスターは落ち着いた声で私に言った。
「飲んでごらん……」
「でも」
「いいから」
私はマスターの言う通り、一口コーヒーを飲んだ。
「あれ? 苦くない。それどころか、おいしい」
「おいしいと思うかい?」
私は不思議に思いながらもうなずいた。
「それはね。悠ちゃんが大人になったってことなんだよ」
マスターはポットに火をかけながら言った。
「人生、甘いことだけじゃないんだ。苦くて辛いこともある。けれど、時が経ってくると苦さも変わってくるんだよ。それを旨いと感じるようになる。苦いってことはね。味に深みを与えてくれるんだ。人生も一緒さ。甘いこと、苦いこと。全部抱えてよい人生を歩んでいくものなんだよ」
マスターが入れてくれたコーヒーがあたたかくて、マスターの一言が優しくて、涙があふれてきた。
マスターはもう一杯コーヒーを出してくれた。今度は私の好きなベトナムコーヒーだった。失恋の後に飲んだベトナムコーヒーは甘く、いつもより少し苦かった。
お店の中の白熱灯が店内を暖かく照らしていた。外を見ると、いつの間にか夜になっていた。マスターは時計を見た。兎屋を閉める時間だった。私が謝る前にマスターが優しく言ってくれた。
「時間は気にしなくていいから、ゆっくりしていくといいよ。けれど、お家の人には連絡を入れるんだよ」
マスターが店の外の後片付けのために出て行くと、私は家に電話をかけた。ほどなくして、店の外の黒板を抱えたマスターが戻って来た。
「雨がやんで月が出ているよ。今日はいい月だ」
お店の窓から眺めると、雨上がりの満月がぼんやりと薄白色の光を放っていた。その光はとても幻想的で、美しかった。今度はマスターがスツールを出して来てくれた。
「外で見ないかい? こんないい月、なかなか見れないよ」
兎屋のある路地は今夜は人通りが全くなく、静まり返っていた。私はマスターが出してくれたスツールに腰掛けて月を見上げた。兎屋の小さい看板の真上にぼんやりと輝く白い月。あたりを見回すと、月の光に照らされて雨露が星のように光り輝いていた。
そんな路地裏の小宇宙に私は目を奪われた。
「きれい……」
路地裏の宇宙、天上の月、この静かな空間だけ、私はそれを独り占めすることが出来た。無数の光を浴びて失恋で出来た心の傷がゆっくり癒えて行くように感じた。
私はもう一度月を見上げた。天上でぼんやりと輝く満月は私をいつまでも優しく照らしていた。
ベトナムコーヒー・・・ちょっと書き直しました。
この方が良いかなと思って
ご意見感想、お待ちしています。