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月鏡

「次は月見浜、月見浜……」


抑揚の無い乗務員のアナウンスが、私の目的地である駅の名前を告げた。


海沿いを走る電車の車窓からはどこまでも広がる海と果てしなく広がる空が、美しい青のコントラストを描いていた。


ほんの数日前、私は恋人から別れを切り出された。それまで、幸せだと思っていた彼との生活が一瞬にして壊れた。彼のいなくなった部屋で、私は泣き続けた。止めどなく涙があふれ、言葉にならない嗚咽が途切れることは無かった。


すべてがどうでもよくなったのだろう。私は都会での生活も仕事も放り出して、気がついたら故郷に戻る電車に飛び乗っていた。


空の青、海の碧。本当ならとても美しい光景であるはずなのに、今の私にはまぶしすぎて、かえって残酷な光景に見えた。


「まもなく、月見浜。月見浜」


乗務員のアナウンスが聞こえた。私は座席から立ち上がると電車の扉に向かった。電車が駅に到着するとゆっくりとその扉が開いた。扉が開くと車内に潮気のある懐かしい風が入って来た。私はその風を浴びながらホームに降り立った。


「一〇年か……」


私はぽつりとつぶやいた。高校を出てから一〇年、私は一度もこの街に帰ったことがなかった。

どうして今になって。自分に問いかけたも、答えは出なかった。


駅を出ると、駅前の商店街のアーケードが一〇年前と変わらぬ姿で私をむかえてくれた。だが、よくよく見ると、少しだけ違っていた。塗料のはげた後がそこかしこに見えた。


アーケードをくぐり、商店街に入ると、一〇年前に友達と毎日のように通った商店街は様変わりしていた。私がいた頃には無かったコーヒーのチェーン店やファストフード店が増え、代わりによく見知った店がまるで櫛の歯が抜けるようになくなっていた。


初めて出来た恋人と出会ったレコード店も、学校の帰り道に遊んだゲームセンターも今はただ、空しくシャッターが閉まっていた。


商店街に入って五番めの筋を曲がってすぐが私の家だった。家のすぐ前まできたとき、懐かしい人から声をかけられた。


「あら、恵子ちゃんじゃない? ずいぶん女らしくなって。最初誰かと思ったわ」


向かいのおばさんだった。小さい頃から家族ぐるみの付き合いのある人で、両親が泊まりがけで留守をする時は、よくご飯をごちそうになったものだった。


「ご無沙汰しております。お元気そうで何よりです」


一〇年ぶりの再会にしては、ずいぶん他人行儀な挨拶をしてしまった。


「こちらこそ。元気でやってた? うちはね……」


元々、おしゃべり好きな人だったので、一〇年の間に起きたことを私に全部話そうとしたのか、おばさんはひたすら喋り続けた。


白髪が増えたこと。三年前、私より三つ年上の娘さんが結婚したこと。お孫さんを連れて、よく旦那さんのぐちをいいに遊びにくること。話題が泉のように湧き出ては、私に教えてくれた。


私はあいづちを打ちながら、おばさんの話を聞いていた。一〇年の空白を埋めるように。


「え? 恵子? いつ帰って来たの?」


外の話が私の家の中まで聞こえていたようで、母が家から飛び出して来た。私とおばさんは「じゃぁ、この辺で」とお互い挨拶をして別れた。


私は応接間に通された。母が麦茶とお茶菓子を持ってくるまで、私は部屋の中をきょろきょろ見回した。大きくは一〇年前と変わっていないが、変わっていたものもあった。


「もう、帰ってくるなら連絡くらい入れなさい。こっちにだって、色々準備があるんだから」


部屋の観察を続けていると、母が冷たい麦茶を持ってやって来た。


「ごめんなさい。そういえば、一〇年間帰ってなかったのよね。一〇年前に無かったものがいっぱい」


一〇年の歳月は「私の家」を「私の家」でなくさせていた。パソコンといい、新しいテレビといい、冷蔵庫といい、私が家を出て行ってから買ったものがたくさんあった。


「そりゃ、一〇年だもの。がたが来るものも出るわよ」


母は何を今更という表情をしながら言った。


「それにしても、どうして今になって帰って来たの?」


母はいきなり本題を切り出した。私は何も言わなかった。


「男にふられたでしょ?」


私は図星をつかれた。母の方を見ると、母は笑って言った。


「あんたのことなんて、生まれた時から知ってるのよ。それに同じ女だもの。わかるわよ。それぐらい。こっちには少しいるんでしょ。部屋はそのままにしてあるから、羽根のばしていきなさい」


「え? 本当に?」


私はちゃぶ台から身を乗り出した。母は面食らった様子だったが、ため息を一つついて言った。


「本当よ。掃除大変なんだから。感謝しなさい」


私は二階にあがると、自分の部屋の扉を開けた。目の前には一〇年前と変わらない私の部屋があった。遅くまでテスト勉強した机も、高校生のときよく読んだ雑誌も。学生時代の制服も。寝転びながら彼に電話したベッドも。よく聞いたCDもラジカセも。何もかもが一〇年前と同じだった。


私はようやく、落ち着ける場所にたどり着いた気がした。


「ありがとう。お母さん」


けれど、母から返って来た言葉は意外なものだった。


「今、あんたが帰って来たのは、ちょうど良かったかもしれないね。健児が今度結婚することになってね。私達と一緒に住むことになって。それで、あんたの部屋を譲って欲しいって今度お願いするつもりだったの」


弟の健児が結婚することも、私の部屋がなくなってしまうことも今初めて知らされた。私の最後の居場所がなくなってしまう。私はいい知れない不安に襲われた。


「恵子、どうしたの?」


「ちょっと……散歩してくる」


母の問いかけをにべもなく返すと、私は家の外に出て、商店街へ向かった。

私の家にも、商店街にも、私の居場所が、よりどころがない。私は無気力になりながら、ただ意味も無く商店街をさまよっていた。


空の色が青からオレンジ色に変わる頃、私は商店街の片隅にある小さな店をみつけた。

つり下げられた小さくて黒いうさぎの看板の下には。おすすめのコーヒーが書かれた黒板があった。


「兎屋珈琲店?」


聞いたことの無い名前だった。一〇年前にはここにはそんな店は無かったと思う。私は小さなうさぎの看板に導かれるように珈琲店の扉を開けた。


「いらっしゃいませ」


店に入ると、コーヒーの香ばしい香りとともに、マスターの低くて落ち着いた声が私を迎えてくれた。


「あの、時間は大丈夫ですか?」


外はもう夕方。普通なら、そろそろお店を閉める時間帯だった。実際、私の他にはお客はいなかった。


「大丈夫ですよ。どうぞ」


マスターは私をカウンターまで案内してくれた。年は三〇代後半だろうか、丸いレンズの眼鏡をかけていて、少しだけ長い前髪を真ん中で分けていた。きれいなシャツとベストにエプロン、まるで品の良いレストランのギャルソンのような格好をしていたが、ここに立っていないと、もしかしたら学校の先生でもとおってしまうかもしれない穏やかな雰囲気をもった人だった。


カウンターに腰掛けた私は、店内をきょろきょろ見回した。


兎屋珈琲店はカウンターにテーブル席が二つの小さな店だった。テーブルも椅子もカウンターもオーク色をした濃い茶系統のインテリアで統一され、店内を流れるジャズとあいまって、商店街の喧噪を忘れさせてくれる静かな店だった。ふと窓際のテーブル席の壁を見ると、「ここは禁煙です」とあまり上手でない字で書かれた張り紙が書いてあった。落ち着いた雰囲気とのミスマッチに、私はつい笑ってしまった。


「ご注文は?」


マスターの問いかけが私の意識を現実に引き戻した。


「あ、はい。では、ブレンドを……」


コーヒーと言っても、職場やカフェで、時間つぶしに飲む程度の私にはコーヒーについての知識は持ち合わせておらず、無難にブレンドを注文することにした。


マスターはかしこまりましたというと、コーヒーを入れる準備を始めた。


「……ここへは初めてですか?」


お湯をカップに注ぎながら、マスターは私に尋ねて来た。


「ええ、この街は一〇年ぶりに帰って来たので。で、この街をでたときには、こんな店があるなんて知りませんでした」


「私が店を出したのが一〇年前ですから、もしかしたら、入れ違いになってしまったのかもしれませんね」


コーヒーの粉をペーパーフィルターに入れながら、マスターは言った。粉を入れ終えると、マスターはドリッパーにお湯を注ぎ始めた。はじめは少しずつ、ゆっくり、次からは多めにお湯を注いでいった。グラスポットに少しずつコーヒーがたまっていくのを私はじっと見つめた。


「どうぞ……」


マスターが、私にカップを差し出した。アンティーク調の陶器のカップに注がれたコーヒーからは香ばしい香りと白い湯気が立ち上っていた。私はカップを手に取ると、一口コーヒーをすすった。


「おいしい……」


熱くなく、かといってぬるくもないちょうどよい温度、角のとれた苦みと酸味、全てが調和していて私がこれまで飲んだどんなコーヒーよりもおいしかった。


「ありがとうございます」


マスターは少しはにかみながら微笑んだ。


私はもう一口、コーヒーをすすった。コーヒーの優しい苦みと暖かさが今まで悩んで来たものをゆっくりと洗い流してくれる気がした。私はなんの脈絡もないまま、マスターに言った。


「少し、話し相手になってもらえますか?」


マスターはゆっくりとうなずいた。


私はカップを手で転がしながら話した。彼との別れ、一〇年ぶりに帰ったこの街で感じた寂しさ、どこにも居場所のないやるせなさと悲しさ。まるで堰を切ったように言葉が流れ出ては、マスターにぶつけていた。マスターは私の話をさえぎろうとせず、ただ、うなずいてくれていた。


気がつくと、私はうつむいていた。飲みかけのコーヒーには、今にも涙を流しそうな顔が映っていた。


「コーヒー、冷めてしまいましたね。いれ直しましょう。もう一杯は私のおごりです」


マスターはそう言って、コーヒーを入れ直してくれた。私は二杯目のコーヒーをまたゆっくりと飲んだ。一口一口飲むたび、悲しさが薄れていく気がした。


「最初から居場所がある人間なんていません。誰かと交わって探して、見つけていくんです。居場所がなくなったのなら、また見つけてみてもいいのではないでしょうか」


マスターの一言が胸にしみた。


「外、暗くなりましたね。今日は月がきれいなので、鏡浜に行くといいでしょう。きっと月鏡が見られるはずです」


私の街には大小二つの砂浜がある。大きい方は月見浜で、毎年夏になると、海水浴客がよく訪れる場所である。もう一つの小さい方が鏡浜だった。砂浜と言っても一〇〇メートルくらいしかない小さな海岸で、地元の人でも滅多に行かない砂浜で、私も行ったことがなかった。


マスターが言った「月鏡」という言葉にひかれ、私は鏡浜へ行くことにした。


「話を聞いてくれて、ありがとうございました」


店を出るとき、私はマスターにお礼を言った。


「こちらこそ、いい時間でした」


マスターはそう言うと穏やかに笑ってくれた。

商店街を出て駅から歩いて一五分ほどで鏡浜に着いた。あたりは民家の明かりも少なく、足下がおぼつかなくなるほど暗かった。なんとかして岸壁の階段をおり、砂浜に降り立った私は息を飲んだ。目の前には信じられないほど荘厳な世界が広がっていた。夜の闇と月の光がモノクロームの世界を作り出していた。全てを飲み込みそうな夜の闇、その中を優しく月の光が照らしていた。


海を見ると、もう一つ月が浮かんでいる。月明かりが海面に反射して、月の像を映し出したのだ。空の月と海の月、私の前を二つの月が照らしていた。


「これが月鏡……」


闇の中を優しく照らす二つの月、それは私が見た中で最も美しい光景だった。

しばらく月鏡を眺めていると、少し離れたところから、ハーモニカの音が聞こえた。暗闇にもようやく目が慣れて来て音の方向へ近づいて行くと、中学生くらいの少年が岸壁の上でハーモニカを吹いていた。


「ねぇ、何してるの?」


「誰? おばさん」


私の問いに、少年はぶっきらぼうに言った。


「失礼ね。私はまだ二八よ」


私はムキになって言い返した。


「中学生から見たら、二〇歳過ぎればおばさんだって。こんな月鏡の夜はさ、一人でハーモニカ吹いてるんだ。あまり人も来ないしさ。月を独り占めできるだろ」


少年の言う通りだ。こんなきれいな夜を独り占めできるのはなんて素敵なことだろう。そう思いながら月を見ていると、少年がまたハーモニカを吹きだした。洋楽のスタンダードナンバー。よく聞いたことのある曲だった。私は少年のハーモニカに合わせて歌い始めた。


「へえ、うまいじゃん」


少年はいったん演奏をやめ、そういうとまたハーモニカの演奏を続けた。私は歌いながら少年の方に目を向け、微笑んだ。

私は自分の新しい居場所を見つけた気がした。


二つの月が私達を照らす中、私と少年のアンサンブルは続いていた。



オリジナル連載小説第一作目です。


今までは二次創作中心だったので、現代を舞台にした小説を書くのはほとんど初めてで、色々模索しながら書きました。


これからは兎屋珈琲店を中心に、さまざまな人を出していこうと思います。


お楽しみください。

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