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思い出師

作者: 卯月 友
掲載日:2018/04/03

 ひっそりとした占い店のような一室に、時計の針の音だけが響いていた。20時40分。もうすぐ閉店の時間だ。


「今日も0人か……」


 僕は木製の椅子に座り、机に頬杖をつきながらつぶやいた。向かい側にはいくつか同じ椅子があるが、今日は誰も座っていない。

 まあ、来るわけないよな。僕が客でもこんな胡散臭い店には入らない。決して田舎ではないが、国道から少し外れたところに建つ小屋の如き一軒家。唯一の宣伝となっているのが、この家の前に建っている看板だけだ。ただでさえ見つかりにくいのに、その異様な看板がさらに人を遠ざけていた。



 思い出を消す店

 いらない思い出消しませんか?



 誰がこんな看板を見て入ろうと思うのだろう? しかもこんな一軒家。鬼でも住んでいると考えるのが普通だ。


「全く、面倒くさいな。父さんもこんなことよくやろうと思ったな」


 僕はそう一人で文句を並べながら、2ヶ月前くらいの出来事を思い出した。



「陸。大学にも入ったことだし、そろそろ父さんの思い出師を継いでくれ。月曜から金曜の19時から21時だけだから、大学行きながらでもできるだろ? 実家暮らしなんだしな」

「嫌だよ忙しいのに。急になんだよ」

「父さんも忙しいんだよ」

「ゴールデンタイムが潰れるのが嫌なだけだろ?」

「うるさい! これは強制だ!」



 たしかこんな感じの軽いノリだった。僕はため息をついた。この一軒家は実家から割と近くにある。しかし、毎日毎日面倒くさい。これではサークルもできないじゃないか。しかも、客来ないと金入らないし、客が来るのは4日に1回くらいだし。


 20時50分。そろそろ閉めるか。僕が片付け始めようとしたとき、静寂に包まれた部屋に、ノックの音が鳴り響いた。


 嘘だろ? 客か?


 ゆっくりと音を立ててドアが開く。その向こうに人影らしいものが見えた。


 うわっ、よりによってこの時間にかよ。本当に面倒くさいな。たしかに金にはなるが、今来られたら確実に閉店が遅れるじゃないか。

 そんな気持ちを胸の奥に押し殺して、僕は客を招き入れた。


 えっ、この人って? その人物の顔を見て、僕ははっとした。


「岩本先生?」


 反射的にその人物の名前を口にした。僕の大学の保健室の先生だ。まだ20代でかなり美人の人気が高い先生。しかし、なぜここに? いや大学近いし、来ても不思議ではないが……よく入ろうと思ったな。


「あれ? 佐々木くん?」


 あ、覚えてくれていたんだ。僕はときどき元気な癖に保健室に遊びに行くため、顔見知りになっていた。


「はい。それにしてもよく入ろうと思いましたね。こんな変な店」

「それ自分で言っちゃってどうするの?」


 先生がニコッと白い歯を見せて笑った。その姿は本当に美しい。こんな一軒家に二人きり。変な気を起こしてしまいそうだ。いやいや、仕事しないと。


「コーヒーか紅茶どちらいいですか?」

「ありがとう。紅茶もらおうかな」


 言われた通り紅茶を準備した。僕はコーヒーにしようかな。あ、砂糖も用意しないと。客が来ると必ず飲み物を出すことにしている。

 僕は2つコップを運び、先生と僕の前に置いた。紅茶とコーヒーのいい香りが、静かな空間に混じりあった。先生と二人ってやっぱり緊張する。緊張を紛らわせるために、僕はスプーンで砂糖を溶かしていた。


「ところで佐々木くん。看板のあれって……冗談よね?」


 先生は紅茶を飲みながら、真面目な顔つきで言った。やっぱりそこか。今まで10人以上の客が来たが、客が必ず口にする台詞だ。まあ、普通に考えたらそうなる。


 だが、僕はその不可能を可能にできる。一言で言うと、僕は人の思い出を消すことができるのだ。消し方は簡単。人の頭に右手を置いて、消したい思い出を消す。

 昔はよくこれかっこいいんじゃねとか、心の中で思っていたりもしたが、実際はあまり役に立たない。おまけに外では絶対使うなと、父さんに言われている。


 僕はこの能力は生まれつき持っていたらしい。父さんもこの能力が使えるが、母さんは使えない。ついでに、姉ちゃんも使えない。ということは単純に、僕は父さんの血を引いたということだろう。


 父さんはこの能力を使って思い出師をしていた。現在は引き継いで、僕がしている。思い出師って言うくせに、思い出は生み出せないからどうかと思うが。

 ちなみに、この能力が使えるのを知るのは、父さんのみだ。母さんも姉ちゃんも知らない。子どもの頃、僕がこんなことができるとも知らずに、姉ちゃんの嫌な思い出を消してしまったことがあったが、ある意味便利な能力。消したという思い出すら消してしまえばいいからだ。


「冗談でこんなことしませんよ」


 僕は先生の目を見た。その目は半信半疑ってところだ。


「信じるか信じないかは先生次第ですけど」

「まあ、してもらうだけしてもらおうかな。どうすればいいの?」

「消したい思い出を話してもらうだけでいいですよ」


 先生は少し目を大きくした。おそらくまだ信じてはいないだろう。ただ、話す他にデメリットもない。そう考えたのか、先生はすんなりと消したい思い出を話した。


「私ね……1ヶ月前くらいまで、ストーカー被害にあってたの。近所に住む人なんだけど、仕事終わりにしつこくデートに誘ってきたり、夜に度々電話かけてきたり……」


 そう言えば、最近近所でストーカー被害があったって、友達が言っていたな。まさか、先生が被害者だったとは。


「酷いですね。どれくらい続いたんですか?」

「3週間くらいかな。その人はもう逮捕されたんですけど、どうしても怖くて……」

「なるほど。その嫌な思い出を消したいってことですか?」


 先生はコクっと首を縦に振った。たしかに、そんなことがあったら怖い。特に先生は美人だし、ストーカーの対象にもなりやすそうだ。


「分かりました。責任を持って消します。お代は7000円になります。万が一、思い出が消えてないのであれば、このお金はお返ししますのでご安心を」


 最後の一言は必須だ。でないと誰もお金なんて払ってくれない。先生はお金を机の上に静かに置いた。


「それから一つ忠告があります」

「忠告?」

「はい。申しわけないんですが、ここに来た思い出とここでの出来事は、消すことになっています」

「あ……そうなんですね」


 先生は少し怖くなってきたのか、身体が固まっていた。嘘じゃないかも……。そう思い始めているのだろう。しかし無理もない。ずっと消したいと思っていても、いざとなると躊躇するものだ。それも、思い出を消すなんて、想像もつかないことだから。

 ただ、ここに来た以上、ここでの思い出は消すのが決まり。流石に、世間で思い出が消せるなんて広まると大変だ。だから逆に言うと、世間ではこの場所に入った人はいないということになっている。


「先生。確認します。ストーカー被害の思い出を消したい。これでよろしいですか?」

「……」


 これで即答できる人の方が少ない。客はみんないざ実行するとなると悩む。僕は先生の決断を、コーヒーを飲みながら待った。

 再び、時計の針の音のみが響いた。この雰囲気にはもう慣れた。

 僕が質問してから5分くらい経っただろうか。先生は唇を震わせた。


「……お願いします」


 僕は右手に持っていたコップを置いた。ここからが本番だ。相手が先生ということもあり、いつもより緊張する。


「分かりました。20分くらいで終わると思います」


 僕は立ち上がり、先生の頭に右手を伸ばした。先生の身体はまるで、注射をする前の子どものように固まっていた。


「痛みは全くありませんから、安心してください。ほら、いつも忘れるときって痛いとか思わないでしょう? あれと同じ感覚です」

「ありがとう……私、もう苦しまなくてもいいんだよね?」

「もちろんですよ。先生の人生は、まだまだこれからですよ」

「だといいね」


 こうして安心させてあげることが、少しでも緊張緩和に繋がればと思う。

 僕は先生の頭に右手を置いた。まずは、消したい思い出の電気信号を探す。消したい思い出は必ず長期記憶だ。長期記憶にもエピソード記憶、意味記憶などいろいろあるが、僕が基本消すのはエピソード記憶。記憶はニューロンという神経細胞どうしが、シナプスという結合部で繋がったときに生まれる。このネットワークは思い出す度に、どんどんと強くなるから、おそらく強化されているネットワークだ。

 このようにして電気信号を特定していく。幸いなことに、僕の右手は電気信号を読み取ることができる。一ヶ月前といえばこれくらいかな。僕は、先生の思い出を見つけることに成功した。あとは簡単。そのネットワークのみを切断してしまえばいい。僕は右手で特殊な信号を送って、結合を切断した。


「先生、終わりましたよ」

「えっ、もう? ってあれ? 私、何か忘れているような……思い出を消されたんだっけ?」


 先生はあたふたしていた。この能力の最大のメリットは、本人が知らない間に消せること。先生には何かを消されたという思い出しか残らない。

 しばらくして、状況を理解したのだろう先生が、僕の目を見て微笑んだ。


「でも、きっと相当嫌な思い出だったんでしょうね。私がこんな変な店に来るなんて」


 どうせ変な店ですよ。ろくに客も来ないし、小さい一軒家だしって言うのは、心の中に置いておくことにする。


「あっ、もうとっくに閉店の時間過ぎてる」

「大丈夫ですよ。落ち着くまでゆっくりしていってください」


 閉店時間を30分以上過ぎていた。まあ、仕方ない。


「いやいや、そんなに迷惑かけられませんから」


 先生は目の前の紅茶を一気に飲みほした。そこまで言うなら……。僕は机の上の7000円を貰いながら言った。


「外まで送りますよ」


 帰る客をこの場所が見えないところまで送る。理由はただ一つ。ここでの思い出を消してしまうため。


 先生は素直に席を立った。こちらの意図を理解してくれているのだろうか? 二人は黙って外に出た。


「佐々木くん……ありがとうね」


 突如、先生は振り返って言った。月明かりと街灯の灯りが、ほんのりと先生の顔を照らす。

 急にそう言われると、対応に困る。


「いいんですよ。だって僕は、思い出師ですから」

「ふふ、思い出師って」


 先生は声に出して笑った。やっぱり思い出師って変なのかもしれない。

 道沿いを例の店が見えなくなるまで歩いた。そろそろかな。僕は周りに人がいないことを確認した。


「先生……」

「分かってるわ。今日ここでの思い出を消すんでしょう?」

「あ、はい……」


 僕が話すよりも先に先生が話を割った。やっぱり分かっていたみたいだ。


「準備はいいですか?」

「その前に覚えているうちに、一言だけいい?」

「はい。もちろん」

「今日はありがとう。また保健室遊びに来てね」

「ぜひ遊びに行きます。先生も仕事頑張ってください」


 先生の頭に再び右手を置いた。先生は黙ってはにかんだ。何度も経験しているが、いつも何とも言えない気持ちになる。

 ここに来た思い出を消すのはさらに簡単だ。いつも同じことをすればいいだけ。ものの数分で可能だ。

 どうか幸せに。僕はそう願いながら、信号を送った。


「あ、あれ? どうして私こんなところに?」


 先生が一人でまた混乱している。僕はその様子を陰ながら見守った。信号を送ってすぐにその場を離れたから、先生は今日僕に会ったことも覚えていないだろう。

 おそらく何かの目的でここまで来たということを、覚えているのが限度。だが、それすらも人というのは、すぐに忘れる。その場では何だっけと考えても、忘れたことを深追いしたりはしない。


 先生は不思議そうな顔をしながら、帰路に向かっていた。


 はぁー。僕はまたため息をついた。

 先生の後ろ姿を見て、自然と僕はその姿を自分と重ねていた。



「僕のこの思い出も消してしまったら、楽になれるのかな」



 先生と来た道を今度は一人で引き返す。

 ここ最近、僕は消すかどうか悩んでいる思い出がある。人の思い出を消すと同時に、僕はいつもそのことを思い出してしまう。


 僕は、一ヶ月くらい前まで、付き合っていた彼女がいた。高校が同じこともあり、仲良くなって付き合ったのだ。彼女とはかれこれ2年くらい付き合っていた。

 大学に入って、彼女とは遠距離になったが、僕はこれからも、今まで通りの関係が続くのだろうと信じていた。だが、繋がりが切れるのは一瞬だった。大学に入って3ヶ月ほどしたころ、彼女と大喧嘩した。それが彼女との最後だった。


「もう、りっくんのことなんて大嫌い。別れて。そして、もう一切連絡して来ないで」


 今でも鮮明に彼女の台詞を覚えている。彼女はおしとやかな性格だ。そんな彼女がここまで怒るなんて相当だ。


 それ以降、一切彼女には会っていないし、連絡もしていない。というよりもう不可能だ。だが、僕は今でも彼女のことが大好きだった。喧嘩の要因は僕にもあるだろうし、できることなら、もう一度会って謝りたい。そんなこと彼女は望んでいないだろうけど。


「好きって気持ちなんて、消してしまうといいのかな」


 街灯の灯りが少しにじんで見える。いや、だめだ。僕は急いで袖で目を拭いた。


「結菜……」


 気がつくと、僕はそう口にしていた。




 それから数日が経った。先生は前にも増して、元気になっていた。やはり、思い出を消したのが大きいだろう。僕は相変わらず、暇なときに、友達と保健室に遊びに行っていた。あの日の出来事をもう先生は、覚えていない。どこか変な感じだ。


 今日も客なしと。僕はまた例の一軒家で、思い出師の仕事をしていた。先生が来てからは誰も客が来ていない。まあ、それは日常茶飯事だ。


「先生、幸せそうだったな……」


 僕はひっそりとした一室で、保健室の先生の笑顔を思い出した。それだけで僕の思い出も消した方がいいんじゃないかと思ってしまう。

 だが、自分で自分の思い出は消せない。もし、実行するなら父さんに頼むしかないだろう。


 21時00分。僕は閉店の時間ちょうどになったため、片付けを始めた。まずは看板に休業の札を張るために、一度外に出なくてはいけない。ドアを開けた瞬間、じめじめとした暑い空気が襲ってきた。日は落ちているとはいえ暑い。

 僕は早歩きで看板へと向かった。ん? そのとき看板の前に人影があるのに気づいた。


 客? まじかよ、このタイミングで? 面倒くさいな……。まあ、仕方ないか。


「いっらっしゃ……って、あれ?」


 僕はその人の顔を見た瞬間驚きを隠せなかった。


「渡辺くん?」


 暗い中でうっすらと見える顔は、どこか見覚えがあった。その人は僕に気づいたのか、ゆっくりと顔を向けた。街灯の灯りがその人の顔をくっきりと映した。

 間違いない。同じ学部の同期だ。彼とはほとんど話したことがないが、顔と名前くらいは分かる。垂れ目で大人しい性格だ。


「佐々木くん……でしたっけ? どうしてここに? もしかして、佐々木くんも嫌なことが?」


 佐々木くんもってことは、渡辺くんも悩んでいるってことだろう。もう閉店時間は過ぎた。だが、それを聞いてしまった以上、僕は彼を招き入れることにした。


「違うよ。僕は、この店を経営している方だから。渡辺くんも、何かいらない思い出とかあったら相談に乗るよ」


 消したい思い出がないと言ったら嘘になるが、今は相談を聞く側だ。渡辺くんは口をポカンと開けていた。


「えっ、ええー! じゃ、じゃあ思い出を消すのって……」

「僕だよ。よかったら中に入って。まあ、入っても何もないけど」

「で、でも、閉店の時間……」

「気にしなくても大丈夫。よくオーバーするから」


 渡辺くんは混乱しながらも、店の中に足を踏み入れた。今日は遅くなりそうだ。


 いつも通りに僕は飲み物を用意し、相談を受けた。彼曰く、高校時代にいじめられていたという思い出を消してほしいらしい。

 僕は話を聞きながら、少しでも元気づけるように意識した。正直に言うと自業自得なところもあると思うが、辛いことには変わりない。

 僕は彼のいじめられていたという思い出のみを消した。思い出の量が膨大すぎて少し時間がかかってしまった。しかも、高校時代のそれ以外の思い出は残さないといけない。その点で少し苦労した。


「ありがとう。何か分からないけど、楽になれた気がした」


 僕はここでの思い出を消すために、渡辺くんと道沿いに歩いていた。

 本当なら学校でも、少し話せるくらいの仲にはなったのかもしれない。だが、思い出を消すのは決まり。きっと、彼の中で僕はただの同期に戻るのだろう。少し複雑な気持ちだ。


「よかった。あ、あと……」

「分かってる。ここでの思い出を消すのが決まり。覚悟はできてるから」


 先生と同じだ。夜の蒸し暑い風が、渡辺くんの髪を揺らした。


「佐々木くん、また学校で会ったら話しかけて」

「もちろん」


 言われなくてもそうしたい。話した感じは、意外と気が合いそうだ。渡辺くんに僕との思い出がなくても、もう一度話すくらいはできるだろう。僕はそう思いながら、彼の思い出を消した。



 だが、僕はもう二度と彼と話すことはなかった。



 それからまた数日が経った。


「なあ、あれ、本当に渡辺か?」

「いや、あいつあんな性格じゃなかっただろ。ここ数日で豹変したみたいだ」

「何があったんだろ? 絶対前の方がいいって。正直、もう話したくない」

「分かるわ。俺もそれ思っていた。ちょっと距離おこうぜ」


 もう何度も、こんな噂を聞いた。僕は自分の目で確かめたくて、同じ講義のときに渡辺くんの近くに座った。

 嘘だと思いたかった。その性格は、あの日の渡辺くんの面影など、どこにも残っていなかった。その姿は、もはや別人。自己中で狂っていた。まるでいじめられたことで、抑制されていたように……



 僕は今日、思い出師の仕事を休んだ。思い出を消した人のその後を見たのは二人。一人は消して幸せそうにしている。もう一人は消したことで、性格が豹変してしまった。僕は渡辺くんの人生を壊してしまった。

 思い出を消すことって、本当にいいことなのか? たしかに、先生のようにいい場合もあるだろう。だが……


 あの日、渡辺くんを招き入れてなかったら、彼は今まで通りの性格でいられたに違いない。他でもない。僕が思い出を消したからいけなかったんだ。そう思うと悔やんでも、悔やみきれない。


 僕の思い出はどうなんだ?


 僕は実家の自分の部屋で、ふと脳裏をよぎった。今までは消したら、楽になれると思っていた。だが、そうとは限らないのかもしれない。


「くそっ! もう訳分からねー」


 僕は行き場のない思いを、枕を投げることで表した。もちろん、こんなことしても何の解決にもならない。

 20時05分。本来なら、あの一軒家にいただろう。


 コンコン。


 そのとき、部屋の戸が鳴り響いた。


「ちょっと入るぞ」


 僕が返事する前に、戸を開けて父さんが入ってきた。父さんならこういう経験もあるのかもしれない。


「父さん……」

「なんだ? 体調不良か?」


 ある意味、精神的に体調不良だ。


「いや、父さんは消したい思い出とかあるのかなって……」


 自然と口が開いた。父さんは普段はバカだが、こういうときは真剣に聞いてくれる。思い出師のこともあり、僕は母さんよりも、父さんに相談することの方が多かった。しばらく間が開いてから、父さんは答えた。


「……そんなもの数えきれないくらいあるぞ」

「消そうとは思わないの?」

「俺は思わないな。今までそういう消したい思い出に、直面したことがないだけかもしれないがな」


 父さんは腰をおろして、自分の髪を決まり悪そうにかいた。


「ただ、嫌な思い出だって、必要だとは思わないか? 脳内いい思い出で埋めつくして、何が楽しいんだ?」

「たしかに……」

「陸、お前は消したい思い出があるのか?」


 うっ……。痛いところをつかれた気がする。僕は即答できなかった。


「まあ、お前も19だ。悩む時期だよな。その思い出を消したいというなら、いつでも言っていいぞ」

「で、でもさっきは、消すのに反対みたいなことを言ってたじゃないか!」


 僕は少し興奮口調になった。さっきと言っていることが違う。父さんはやれやれとばかりにため息をついた。


「それはあくまで俺の場合だ。俺は思い出を消すことに反対なんて思わねえ。反対なら思い出師なんてしないだろ。客だって、悩んで悩んでドアをノックするんだ。考え抜いたはずなのに、それでもいざ消そうとすると何分、何十分と悩む。客が考え抜いて決めた決断に、反対する義理なんてないだろ」


 僕は何も言えなかった。何十年と思い出師をしたからこそ、言えるのだろう。きっと、数々の思い出を消してきたに違いない。


「思い出を消した客のその後だって、何人、いや何十人も見てきた。悩んで決めたはずなのに、思い出を消して今後の人生が悪い方へ進む、なんてことも稀じゃない。だが、思い出を消したいという客がいる限り、思い出師は必要不可欠だと俺は思っている」


 父さんはたんたんと語り終えた。僕は、先生と渡辺くん、それから今まで来た客のことを思い出した。みんな悩んで来る人ばかり。想像以上に思い出というものは、複雑なものらしい。


「陸、だからお前も、本当に消したいと思ったときに俺の元に来い。そのときは、綺麗さっぱり消してやるよ」


 そう言うと父さんは立ち上がり、部屋を出ていった。静まり返った部屋に、僕は一人残された。


「悩んで決めるか……」


 戸の方を見ながら僕は呆然としていた。僕が思い出を消したい理由……嫌な思い出だからではない。楽になりたいから? 僕の思い出は果たして消すべきなのだろうか?

 そんな簡単に答えが見つかるわけがなかった。



 次の日から、僕は思い出師の仕事を再開した。その日は、珍しく開始数分で客が来た。中年男性だ。それも真夏なのに厚着をしていて、サングラスやマスクをしている。マスクでこもって声も聞こえにくいし、変わった人だ。いつもなら面倒くさいと思うだろう。しかし、僕はこの人も悩んで来たんだろうな、という気持ちの方が大きかった。

 しっかりと答えが出せて偉いな。


 それに引き換え僕は未だに答えが出せない。いや、答えなんてない。僕は目の前の無理難題に押しつぶされていた。


「思い出を消すって決められるなんて、すごいですね」


 僕は気がつくと、目の前の中年男性にそうつぶやいていた。中年男性は不思議そうに、僕の目を見ている。


「そんなにすごいことなのか? 私にはお前さんの言いたいことが分からない」


 何を言う。すごいことだろう。こんな無理難題を解ける方がすごい。


「だって、消して今より酷い人生になるかもしれないんですよ?」


 本来ならこんなことを、今から思い出を消す客に言うべきではない。だが、聞きたくて仕方なかった。僕は目の前の中年男性にどこか不思議さを感じた。他の客と違う気がする。


「そんなことは分かっておる。そしてそうなっても後悔せん。自分で決めたことだ。それにいらない思い出を決めるのに、苦労するというのはおかしいだろう? 迷う時点で未練しか残ってはいないではないか」


 た、たしかに……。中年男性はまるで、僕が悩んでいるのを見透かしているかのようだ。中年男性は目の前のコーヒーを一口飲んだ。


「お前さんは、だからこんな入りずらい場所に、店を開いたのではないのか? ここなら、本気で思い出を消したいと思う人しか、来ないだろう。生半可な気持ちでは普通入らない」


 僕は何も言い返せなかった。なぜこんな人目につかない場所に、店を開いたのか。僕は今まで知ろうともしなかった。客が気づくようなことに気づけないなんて。

 僕が客なら入れるか。いや、入れるわけがない。僕程度の決心で入っても、結局何もせずに帰るのがオチだ。先生も渡辺くんも想像もつかないくらいに、思い出を消す勇気があったに違いない。


 完全に僕が間違っていた。僕は思い出を消したかったんじゃない。もう一度、彼女と復縁したかっただけだ。それが不可能だから、消すということで自分を正当化したかっただけだ。

 客はみんな違う。本気で消したいと思ってここまで来る。そして、こんな胡散臭いドアを叩く。そこに迷いなんてない。たしかに、念押しをすると客は黙る。だが、今まで思い出を消さずに帰った客は、一人としていなかった。その程度の決心で、ここにたどり着くことなんてできないのだから……


「実は僕も悩んでたんです。昨日も父にあなたと同じようなことを言われて……」


 中年男性は黙って聞いていた。客に何を言っているんだ。そう思うが、引っ込みがつかなかった。


「実は僕、1ヶ月前くらいに失恋しました。でも、今でもその人のことが好きなんです。だから、この気持ちを消してしまえばいいかなって悩んでいました」

「なるほど。悩んでいましたということは、今は悩んでないのか?」


 いつの間にか立場が逆転している。それでも僕は、この怪しげな中年男性に本心を言いたかった。




「はい。僕はこの思いを残し続けることに決めました。僕にだってたくさん非がありました。その思いが今の僕を成長さしていると思うんです。それに消してしまうなんて結菜……いや彼女にも失礼。だから、僕はこの思い出を大切に残しておきます」




 会ったばかりの人に、何宣言しているんだと思う。それでもよかった。言ってスッキリした。それにこの中年男性にはなぜか話しやすかった。


「そうか……」


 中年男性はそうとだけ言って、顔を少しだけ引いた。サングラスとマスクで見えないが、その表情はどこか嬉しそうだった。


「あなたは……どんな思い出を消したいのですか?」


 僕は中年男性がどんな思い出を消したいのか、どんなことを言うのか緊張した。

 コーヒーを飲み終えてから、中年男性は軽く息を吐いた。


「……私はただここに入ってみたかっただけだ。こんな店の店主はどんな人なのだろうとな」


 えっ、消したい思い出があるわけじゃないの? 僕は困惑した。さっきまでの力説はいったい……


「結果としては、思ったよりもずっと若い店主だったな。まだまだ経験不足。だが、この店に相応しいことも確かだな……。頑張れよ。お前さんならやれる」


 これは喜んでいいのか? ま、まあ中年男性が僕に、解決のヒントをくれたことには変わりない。


「ありがとうございました」


 僕は元気よくお礼を言った。肩の荷が中年男性のおかげでおりた気がした。


「いえいえ、私は何もしてませんよ。邪魔して悪かったね」


 中年男性は回れ右をして、外へ出た。僕は慌てて彼の隣に走る。隣を歩く中年男性がやけに大きく感じた。しかし、それと同時に、僕はこの男性を知っている気がした。

 二人は黙って歩いた。いらない思い出がないにしても、ここでの思い出は消さなければ。僕はしぶしぶ切り出した。


「すみません……ここでの思い出を……」


 隣で歩く中年男性に話しかけてようとした。だが、僕が口を開くと同時に、中年男性は僕の頭を右手で掴んだ。それは一瞬だった。




「成長したな……陸」




 僕は頭が真っ白になった。




「あれ? ここどこだっけ? えっ、もう19時40分。し、仕事は?」


 僕は気がつくと、一軒家から道沿いに歩いていた。周りには誰もいない。急いで僕は店へと戻った。


「あれ? コップが2つ? コーヒーの香りもする? 誰か来てたとか?」


 店に戻ると、不思議なことにコップが2つ置いてあった。寝ぼけてたのかな。でも、たしかに口の中にほんのりと、コーヒーの味がするし……。僕はそう思いながら、コップを片付けた。



 失恋したことは覚えている。そして、それを悩んでいたことも覚えている。ただ、不思議なことに、僕はもう好きだった思い出を消そうとは思わなくなっていた。

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