8話「鬼の過去」
頭に浮かぶのは、昔のことだった。
もう七〇年以上も生きていれば、人間だった頃のことなんて忘れてしまう。忘れずとも、霧のように薄れて曖昧なものになっていく。
だがあの日のことだけは未だ色褪せず、色褪せてくれることなく、脳内にはっきりと刻み込まれている。
『みなさん! 牙の生えた人を見かけたら、とにかく逃げてください!!』
――テレビから聞こえる、叫ぶようにそう訴えるアナウンサー。
『があぁ! うがぁあ!』『やめろ! やめてく――』
――外で絶え間なく響く絶叫と叫び声。
『お、おに……ちゃん……』
――少し離れた場所からもわかるくらい体を震わせながら、目に涙を浮かべる妹。
『明人……お願い……出て行って……』
――腰を抜かしながらも妹も前に立ち、震えた声でそう何度も願う母親。
『明人……出て行け』
――ただただ俺を睨みつける父親。
『と、父さん……俺は……』
『聞こえなかったのか?出て行け、と言ったんだ』
『そんな……!! でも!』
『頼むから!!』
『――っ!』
『出て行ってくれ……!! ――俺の息子に、化け物はいない!』
そうだ。俺はあの時思い知った。
鬼に、家族を、居場所を持つ資格はないと。
家族とは最も大事で、最も強固で、最も愛すべき居場所のはずじゃないのか。
ならなぜ、あいつらは俺を見捨てた。
……いや、わかってるんだ。しょうがなかったって。
もしあの時鬼になったのが俺だけだったら、また変わってきただろう。テレビの向こう側で、壁を挟んだ外で人を惨殺している存在が目の前にいる。その恐怖からあんな行動をとったんだと、わかっている。
わかってるんだ。目の前の鬼は何も間違っていないって。
鬼は動物の思考に近くなる。だからもしこいつらが家族全員鬼になったとしたら、子供を守ろうとするのは当たり前だ。
だが理解することと受け入れることは別だ。
頭では理解しても、感情が受け入れない。
俺はその差を埋めるために、何度も何度も鬼を攻撃し続けているのだ。
何度も。何度も。何度も。何度も――
「明人さん!!!」
突然少女の声が頭に響く。それはただの叫び声のはずなのに、世界を揺るがすほどの轟音のようにも感じた。
瞬間、感覚が戻ってくる。視覚が、嗅覚が、触覚が、世界を取り戻す。
「もう、やめてください……」
その声は落ち着いていた。そのおかげか、激しい感情の中にいた俺にスッと浸透する。
「琴奈……」
「大丈夫です。もう黒化してますから」
琴奈は両手で俺の腕をつかみ、その細い腕のどこにそんな力があるというのか、俺の腕は岩のように動かない。
次いで、鬼に視線を移す。確かにもう黒化していた。肌は黒く光り、その表面には幾多の傷が。鉄に劣らない硬度の鬼に刀を突きつけていただけあって、俺の刀は真ん中から真っ二つに折れていた。
俺は折れた刀を呆然と眺める。特にこの刀に思い入れはない。寝起きのような、夢から覚めたような感覚。なぜか頭がうまく動かなかった。
「……大丈夫ですか?」
「ああ……」
零れるような俺の返答を聞いても、心配そうに下から覗き込む琴奈の表情は晴れない。さっきまで沈んでいたのは彼女のほうのはずなのに。いつの間にか先ほどまで俺が浮かべていたような表情を、琴奈が浮かべている。
納得していない、ということなのか。食い下がるように「あの……!」と口にした琴奈を、遮る。
「俺は本当に大丈夫だ。まだ鬼がいるんだぞ」
「……あの、そのことなんですが」
言いずらそうに琴奈は顔をしかめた。言いたくないというよりは、どういえばいいの彼女の中でもわかっていないような、そんな感じ。視線をさまよわせたり、少し首を傾げたり。恐る恐るといった調子で、琴奈は言った。
「その、もう一体の鬼なんですが、えっと、幼鬼なんですが、なんだか様子がおかしくて」
要領を得ない話し方がなんとも彼女らしくない。俺と琴奈はスッと幼鬼に視線を移した。
あたりに飛び散った焚火のかけらはほぼ鎮火している。残り少ない光源の中、うずくまった小さな背中の輪郭だけ、目を凝らしてやっと見ることができた。
どういうことか。幼鬼は何をしているのか。ジッと目を凝らし、集中する。自然とこの場から音が消え、聞きなれない音が鼓膜を震わせた。
「……ひっ……ぐすっ……えぅ……」
「子供の……鳴き声?」
それは明らかに鳴き声だった。しかもその声に宿る幼さや高さからして、子供の女の子。
真っ先に反応したのは琴奈だった。勢いよく立ち上がり、一歩幼鬼に向かって足を動かす。たった一歩。たかが一歩だったが、それはまるで幽霊のように儚くて。どこかに行ってしまいそうな、そんな危機感を俺に植え付ける。
気づけば俺は、彼女の腕をつかんでいた。
「待て」
「なんでですか。そこに、泣いている子供がいるんですよ」
「泣いている子供の鬼、な」
「鬼が泣くなんて聞いたことありません」
「人間の子供が鬼域にいるなんて聞いたことないぞ」
顔は幼鬼に向けながらも、視線はこちらに向いていた。刺さるような視線を、こちらに向けていた。行かせろと訴え、それを妨げるなら敵とみなすとでも言いたげな、厳しい視線。
チクリと胸が痛んだ。なぜ俺は琴奈を止めたんだと、疑問に思った。
だが原因もわからない焦燥感は、たやすくそれらを覆いつくす。
「人間か鬼か、確かめるだけです」
「人間ならいい。だが、もし鬼だったら……」
「――っ!」
厳しく顰められた琴奈の表情が、ほのかな明かりに照らされる。
琴奈は幼鬼を殺せない。それがなぜかは知らないが、間違いない。それは事実だし、認めないほど琴奈は弱者ではなかった。
苦々しい表情に、彼女の口の布が大きく脈打つ。それこそが琴奈の葛藤の印。
なにがそこまで泣く幼鬼に執着させるのか。揺れる大きな瞳を見つめても、何も見えなかった。
「……大丈夫です。殺せます」
それだけ言うと、無理やり俺の手を振りほどき幼鬼のもとへと駆け出した。といってもそこまで距離はない。すぐに幼鬼のもとにたどり着き、琴奈は腰を下ろす。そして下から覗き込むようにして、何かを話しかけた。何を話しているのかは、よく聞こえない。
「ああ、失敗した」
けなげに幼鬼らしきものに話しかける琴奈を見ながら、大きくため息を一つ。驚くことにそいつは琴奈に襲い掛かることはなかった。コクコクと弱弱しく相槌を打つ。
いつも以上に憂鬱な気分だった。
なんだか最近、自分がおかしい。自分の感情と行動が一致していない気がするのだ。
失敗と分かっているのに行動したり。気持ちと体の反応が違っていたり。
事実、琴奈は俺の居場所にはなれないからどうでもいいはずなのに、俺の心臓は痛いくらいにはやく鼓動を刻んでいる。
その差が、違和感が気持ち悪くてイライラする。
向こうから琴奈が歩いてきた。口こそ布で見えないが、その目元だけでわかるくらいに彼女の表情は明るい。どうやら驚くことにそいつは琴奈の見解では人間らしかった。
彼女の背後にはそいつがいた。いくらかの布をつなぎ合わせただけのような服がさらに破け、ヒタヒタと裸足で灰色の地面を歩く。完全に琴奈の背後に隠れ、彼女の服をつかむ小さな手だけが何とか目にできた。
「どうですか! 人間でしたよ!」
「……ああ、そうらしいな」
そう口にはできたが、内心かなり混乱してた。
この鬼域に人間が? しかも子供の女の子?
七〇年近くここに住んでいたが、そんなこと一度もなかった。ここは鬼の世界だ。鬼を恐れる人間はとにかく鬼から離れ、一番近いであろうあの場所でも何時間もかかる。
思わず子供に視線を向ける。こいつに何があったのか、想像もつかない。
その時俺の視線を琴奈の体越しに感じたのか、そいつは彼女の背から顔を出した。
「――っ!!」
息をのむ。体が固まる。目を思い切り見開く。全身を一気に寒気が覆いつくした。
こいつは。
こいつは……!
「明人さん?」
琴奈は首をかしげていた。だが俺はなにもそれに対して反応できない。反応する余裕もない。それはまるで蛇ににらまれたカエルのように。
その子供から視線を外すことができない。
それは例えるなら、絶対に掘り起こされたくない過去のトラウマ。
そんな俺の視線をありありと受けながらその女の子は。
目を猫のように細め。
にぃと口角を上げ、気持ち悪いくらいに横へ引き延ばし。
まるで似合わなず、その年にふさわしい。
――鬼のような、天使の笑みを浮かべた。