7話「苦しむ鬼と希少な鬼」
「そうだ、明人さん! 手は大丈夫ですか!?」
琴奈は飛びかかるような勢いで俺に詰め寄った。そして顔を真っ青にしながら、ワイヤーを握っていた手を取る。
酷いものだった。俺は鬼だから痛覚が人より鈍く、人間でいう擦り傷程度の痛みしか今感じていない。だが実際はといえば、摩擦によって皮膚は焼け、傷つき、血が絶え間なく流れ出る。なんだか血がザラザラしているようなと思いよく見てみれば、サビが手に付着していた。太いワイヤーを作っている細いワイヤーがいくつか千切れ、小さな幾多の棘となって刺さっている。
だが俺としては、まあこんなものかくらいにしか感じなかった、治そうと思えばこれくらいなら一時間もかからない。
でも、今治すわけにはいかない。
自我持ちはある程度のコツを掴めば、その治癒能力をある程度はコントロールできる。だから俺は琴奈に見られているのもあり、傷が治らないように調節した。
「ご、ごめ……ごめんなさい……」
余裕のある俺とは違い、彼女は全身の血が抜かれたかのように、顔色をさらに青くさせていた。謝罪する口は細かく震え、その言葉も死人の口から出たものかのようにか細い。
「……そうです。治療、せめて応急処置しないと……」
「いや、今はいい。早く移動しよう」
「え……? そんな酷い傷を放っておくなんて」
「時間がない。聞こえないか?」
「え?」
琴奈は一度集中するためか、戸惑いながらも目を閉じた。
そして、大きく目を見開く。
「これって、鬼の声ですか……?」
「ああ」
逃げ切れたと言っても上にはまだまだ多くの鬼がいる。事実少し音は小さいが耳をすませば遠くでざらついた叫び声と地響きのような大量の足音が聞こえてきていた。
奴らは俺たちが下に行ったのを見た。なら下に来るのも簡単に予想できる。
それに彼らが部屋から出てきたのは大きな物音を立てたからだ。だから彼らの足音や叫び声で、他の階の鬼まで出てきて数が増えているかもしれない。
「さっさとここを離れて、少し隠れるぞ」
「……はい、わかりました。あ、でも、えっと、せめてこれくらいは……」
琴奈はその異様に長い袖の片方に手を入れ、ごそごそと動かす。カチと小さな音がなり、彼女が隠していた二〇本近くの刃物がそこから溢れた。予想以上の隠していた武器の量に驚く俺を無視しつつ、それを確認すると琴奈は袖を裂く。失礼しますと口にし、それを俺の手に巻きつけた。
「すみません。今はこれくらいしかできませんけど、帰ったら治療してもらいましょう。私に医療の知識があればよかったんですけど……」
「ん、ありがとうな」
「……本当に、すみません」
やけに弱々しく何度も何度も琴奈は謝罪し、頭を下げる。垂れたライトブラウンの前髪の隙間から、世界の終わりかというくらいに絶望した表情を覗かせる。
らしくない。いつもカラカラと笑っている彼女にしては、違和感を感じるほどに。
そんな彼女の表情を見ていると胸がチクリといたんだ。それがなぜなのか思い当たらず、少し不快な気分になる。
謝るな。そう口から出る寸前で、俺はその言葉を飲み込んだ。
琴奈は普通のぱっと見は女の子のようだが、たしかに殺し屋だ。精神はかなり強く、相当のことがなければ落ち込んだり、泣くことはない。そんな琴奈が、ここまで気を落としている。
俺に怪我をさせてしまったと、それで落ち込んでいると思っていた。だが何となくそれ以上の何かがある気がして。迂闊に声をかけられなかった。
「よし。じゃあ、急ごう」
逃げるように彼女に背を向け、歩き出す。琴奈は返事こそしなかったが、確かに後ろからついてきていた。
取り敢えず階段で一階まで降りる。そこまで特に鬼とは遭遇しなかったのは幸運だった。
そしてそのままマンションを出る。
数時間振りの地面に降り立ち、迷うことなく足を動かした。外の光景はマンションに入った時とほとんど変わっていない。強いて言うなら月の位置が変わったくらいだろうか。月光の下、俺は路上に溢れる廃車の間を縫うように進み、琴奈は少し後ろから俺を追って歩く。
今の状態はそれほど危険というわけでもない。鬼が俺たちに追いつくのに少しかかるだろうし、行く場所にも当てがあった。だがもし心配事があるとするなら――
「…………」
俺は琴奈へと盗み見るように視線を向けた。そして一つため息を吐く。
相変わらず落ち込んでいる。相変わらず、下を向いている。
息苦しいのは、口に巻いた布のせいじゃないだろう。こちらの気分まで沈んでいる気がした。
唯一の心配事といえば、彼女のことだ。
実をいうとこのまま帰ってしまっても良かった。きっと古堅から小言は言われるだろうが、危険だったといえば納得するだろう。だがここまで琴奈の精神が安定していない状態で鬼と遭遇して、無事でいられるかわからなかった。
だからせめて彼女が正気になるまでは、それか前を向いて歩けるようになるまでは身を隠そうと、そう思った。
幸いなことなのか、目的地まで距離があるわけでもなかった。あのマンションから歩いて数分。水没した地下鉄への入り口の横を通り過ぎ、別のビルに入る。
何度もここに来たことがあるが、何も変わっていなかった。これだけ放置されていると昨日無事だったものが次の日崩れている、なんてことも普通だ。
少し安堵しながら暗闇を進んで、不自然においてある棚の前に立った。
「よし」
少し意気込んで、棚の横に立つ。そのまま横に押すと、人が一人通れるくらいの穴が現れた。明らかに元からあったものじゃなく、壁をぶち抜いて作られたものだ。
「ここですか?」
少し不安そうに琴奈が呟く。
確かに不安になるのもわからなくないが、ここなんだからしょうがない。
ああと頷きながら潜ると、不安に堪えないという目つきでガタガタな穴の輪郭を見つめながら俺に続いた。
その先は細い一本の通路になっていた。電気なんてもちろん着くはずもなく――そもそも電球自体がダメになっているが――あかりも届かない。俺は懐中電灯を取り出し、足元を照らしながら進んだ。
この廊下は長くない。歩いてほんの数秒。冷たい風が俺たちを追い越す頃には、もう突き当たりの扉にたどり着いていた。
「あの、明人さん。ここって……」
「ここは、まあ、拠点? みたいなものだな。過去に数回ここに来た時にここで寝泊まりしていた」
「へぇ……」
半分嘘で、半分真実だった。
ここは俺が鬼域にいた時に住んでいた部屋だ。
部屋といっても、大したものじゃない。心地よく寝るには硬すぎるベッドに、あかりのため焚き火をするところくらいしかない。そのくせ色々運び込むつもりだったから――実際はそんなことしなかったが――無駄に広さだけはある。壁は老化でひび割れ、元々の入り口は崩れ落ちていてその岩の間から隙間風が入り込む。
そんな殺風景な場所だ。
「ゆっくりできるほど整ってないが、ま、休むくらいならできるだろ」
「……ありがとうございます」
すこし琴奈の言葉が軽くなった気がした。元気が出たということなのだろうか。自然と頬が緩む。
早く入って、とりあえず腰を下ろそう。
そう思い、ドアノブに手をかける。
そしてそれを回しすこし引いたところで。
パチパチパチパチ。
そう、弾けるような音がドアの隙間から溢れてくる。
それはまるで何かが燃えるような――
「燃える?」
頭にチクリと違和感。思わず動きを止め、琴奈が心配そうな視線を 向けてくる。
おかしくないか?
確かに焚き火ができるところ――といっても石をいくつか置いた程度だが――はある。だが俺がここに訪れたのは五年ぶりだ。
鬼が火を灯すことができたとしてもここへの入り口は隠していた。それにあそこ以外の入り口は全て崩れ落ちている。
なら、だれが?
「明人さん?」
「……何かいる。三、二、一で突入するぞ」
「はい、わかりました」
すこし怪訝な表情をしつつも、琴奈は頷いた。
ここで考えていても、何も変わらない。
俺はドアノブに手をかけ、腰を低くしていつでも飛び出せるようにする。
「三……二……一……行けっ!」
俺の声と同時に扉を勢いよく開け、部屋に飛び込んだ。暖かい空気が顔にぶつかる。
だが特に何も起こらなかった。突入時の音だけが虚しく空気に溶けていく。
確かに無駄に広い部屋の中央、いつもの場所で焚き火は燃えている。だがその周りには何もない。部屋だって俺が以前いた時と何も変わっていない。埃をかぶっているあたり、やはり誰も訪れていなかったのだろう。
俺は思わず首を傾げた。だがそこでクイッと、袖を引かれる。
「……琴奈?」
琴奈は真剣な眼差しで――ただやはりいつもより弱いが――部屋の隅を睨みつけながら、指をさした。
俺もそちらに視線を向ける。が、俺には何も見つけられなかった。焚き火の灯りが届かず、そこにあるのは不安を誘う暗闇だけ。
だが琴奈がいるというなら、何かいるのだろう。俺はそちらに懐中電灯の光を向け、そしてそこにやつらはいた。
「……鬼、か」
部屋の隅で男と女の鬼がしゃがみ込んでこちらに背を向け、寄り添っている。そしてその向こう側に、二体の鬼で顔こそ見えないが、確かにもう一体。
強い光を当てられた鬼二体は、流石にこちらに気づき、振り向いた。
なぜここにいるのか。どうやってここを知ったのか。そもそも鬼に火をつけるなんてことができるのか。
数多の疑問が頭を駆け巡る。だがそれはとりあえず後回しだ。さっさとあいつらを殺す必要がある。
となりの琴奈に、『下がってろ』と口パクで伝えた。今の琴奈は明らかにいつもの彼女じゃない。事実琴奈はきちんと警戒はしているが、表情は何かに耐えるように歪み、半歩後ろに下がっている。
琴奈は何か言おうと口を開けた。だが自分の状態は自分が一番わかっているのだろう。その口から何かが発せられることなく、悔しそうにそれは閉じられた。
「すみません……」
消え入るような声で、琴奈はそうこぼした。
別に攻めてはいない。俺にだって気分が悪い時、調子が悪い時くらいある。
別にいい。気にしていない。
そうなだめるつもりで、彼女の頭に手を乗せた。
そして鬼の方を向き、刀を抜く。鬼も立ち上がった。
そして。
「…………え?」
「――っ」
つい溢れてしまったような、琴奈の呆然とした声は一瞬だけど炎の音すらかき消した。
琴奈は目を飛び出そうなくらいに大きく見開く。かくいう俺も身動きが取れそうになかった。それほどまでに、衝撃的だったのだ。
まさか、まさか。
鬼が鬼を守るだなんて。
立ち上がった二匹の鬼が少し腰を下ろし、両手を広げたのだ。それはまるで後ろの鬼をかばうかのように。
手を伸ばすために鬼同士の間隔が開いた時、一瞬影だけだが背後の鬼が見えた。大きさからして、あれは幼鬼だ。
背後でしゃがみこむ幼鬼。そしてそれをかばうようにたつ、男と女の鬼。
まるで子供を守る両親のようだと感じたのを、誰が攻められようか。
「ハ……ハハッ……」
俺は乾いた笑みをこぼした。頭を殴られたかのような気分なのに、俺の顔面はなぜかニヒルに、自嘲気味に笑ってみせる。
俺は刀を持ったまま、前に進んだ。その道中、俺の心の衝動を発散させるように、焚き火を蹴飛ばした。まるでそれは流れ星のように。橙色は暗闇に飛び散ってあたりを照らす。
背後で気遣うように俺の名を呼ぶ声が聞こえた。
だが届かない。燃えるような俺の心には、届きもしない。
鬼たちは動かなかった。両手を広げたまま、自分たちの方へと歩いてくる俺を睨みつけている。
それを見て、自然と刀を握る手に力がこもる。
そして、鬼の前に立った。
この鬼たちは異常だ。自我持ち以外の鬼の思考回路は、普通の動物に似ている。弱肉強食の意識が根付いているといってもいい。
鬼にとって人間とは弱だ。肉以外の何者でもない。
なら。
それならば、なぜこいつらは震えているんだ。
ガタガタ膝が震えている。伸ばされた両手は頼りなさげ。こちらを見上げるその双眸は、細かく揺れていた。
俺にとっては嬉しい誤算のはずだ。
だがどうしても、今こと鬼たちは俺の沸騰しそうな頭に火をつけることしかしない。
「その顔をやめろ!」
そう叫ぶと同時に男の鬼の腕を切り飛ばした。そいつは少し顔をしかめながらも、動かない。飛んでいった腕をくっつけるため追うのが普通の鬼の行動のはずが、動かず俺を弱々しく睨みつけていた。
俺はギリと奥歯を噛みしめる。
「違うだろ。お前たちの取るべき行動は、そうじゃないだろ……!」
男の首を切り落とす。流石に男の鬼は倒れ伏せる。首から紅のシミを地面に形作り、手足を痙攣させる。
となりの女の鬼へと視線を移した。その異形の、鬼の目で俺を見ている。相変わらず何かに怯えるように震えていた。
「――っっ!」
やめろ。やめてくれ。
その表情は、俺の中の嫌な記憶を呼び起こす。
俺はとっさにその鬼を押し倒した。鬼はうめき声をあげ、俺はそれにのしかかる。刀を逆手に持ち、鬼の顔の目の前に突きつけた。
だが、何も変わらない。そいつはやはり何かに怯えるように震えながら、ただ抵抗することなく俺をみていた。
「……なんだよ、さっきのは。子供を守っているつもりか?」
ズブリと、答える隙間も与えず――もちろん答えることがないのはわかっているが――刀を突き刺した。鬼の体が大きく跳ねる。
「それは! お前たちの! 行動じゃ! ないだろ!」
何度も何度も突き刺した。自身の衝動に身を任せ、何度も血を流した。そのたびに鬼の体は悲しく跳ねた。
「あれは! 人間の! 行動だ! そんな権利! ないんだよ! お前たちには!!」
――俺たちには……!!
口から出なかったその言葉を、なんとか飲み込んだ。
ただその代わり、激情をぶつけるように何度も何度も刀を突き刺す。
どれだけ血を流そうが、鬼がどんなことをしようが。
何度も。何度も。何度も。何度も。
胸の内に渦巻く、頭の中で駆け巡る想いを、目の前の鬼にぶつけた。
感覚がどんどん遠のいていく。肉を断つ感触が。むせ返るような血の匂いが。鬼を見るその視界が。