5話「鬼は帰ってきた」
「明人さーん。まだ着かないんですかー?」
隣で生い茂る草を踏みしめながら、琴奈は恨めしげに吐き出した。
今はもう太陽が頭上を通り過ぎて少しした頃。いつもの場所をでてまだ一、二時間しか経っていない。だが彼女の足取りはなんとなく重く見える。
「一応夜鬼域につくように出発したから……あと五時間くらいだな」
「え、そんなに……? あそこから鬼域は見えるからすぐ着くと思ってたのに……」
そう言って吐き出す彼女のため息は、口に布を巻いているからかやけにこもって聞こえた。
ここはちょうど人の領域と鬼域の間の部分だ。かつての郊外で一軒家が多くあったが、七〇年という時間がそれら全てを崩してしまった。今となっては自然あふれるただのだだっ広い平野だ。草の絨毯に、ポツポツと生える樹木。小さな池や、ちょっとした川も散見できて、空気も美味しい。
だが完全な自然という訳でもない。少し注意深く見渡したり下を向けば、ツタに覆われた鉄柱や廃車、コンクリートの地面など人間の痕跡も確かに存在する。
障害物がないから遠くまでよく見える。だが見えるからといって近いわけでもない。
「鬼を恐れている人間が、鬼の近くに住む訳ないだろ」
「それはそうですけどーーきゃっ!」
「おっと」
短く甲高い、ガラスの割れるような悲鳴をあげながら隣で歩く琴奈の姿勢が崩れ、前に倒れこんだ。
俺は彼女の体に片手を差し込み、倒れそうだった彼女を支える。
予想よりもずっと軽い重みが片手にのしかかる。
「大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます……」
やけに弱々しく琴奈はそう呟いた。転びそうになったのが恥ずかしいのか、少し顔をうつむかせている。
なんだこの態度は。初心な反応が琴奈らしくなくてなにも言えず、微妙な空気が流れる。草を揺らす風の音がやけにはっきり聞こえた。
「……足手纏いにならないんじゃなかったのか? こんな調子じゃ、それも怪しいな。失敗したか」
「…………」
特に何も返ってこず、俺は首を傾げた。誤魔化すためについつい口にしてしまったが、少し言い過ぎたかと肝を冷やす。琴奈はやけになって言い訳のようなことを言うものかと思っていたが、何もない。
琴奈に視線を向ければ、なぜかムッとした顔で俺を見つめていた。
「なんですか! いつも失敗失敗失敗って!」
ああ、まずい。変な空気が嫌で誤魔化すつもりが、琴奈の変な琴線に触れたらしい。
琴奈はビシッと俺を指差して続けた。
「そんなに失敗が嫌なら、誰かを頼ればいいじゃないですか! いつも一人で行動しようとして! 私たちをもっと頼ってください!」
「話ずれてないか……? いや、じゃなくて。な、なあ、琴奈、あのな?」
「それなのに明人さんはいつも私たちと家族ってことを否定してますよね。そんなに私たちは頼りになりませんか? 私たちは、家族になりませんか……?」
琴奈の声の大きさも勢いも次第に小さくなり、最後には柔らかい空気に溶けていく。
開いていた無能な俺の口は、イエスもノーもこぼすことなく、その蓋を閉じた。
そんなの当たり前じゃないか。俺は鬼で、琴奈たちは人間だ。相入れるはずもない。
『息子に化け物はいない! 出て行け!』
大変異の時、父親にかけられた言葉が頭をよぎる。
お前も俺が鬼と知ったら、あの時の父親のように化け物を見るような目でそういうんじゃないか?
そんなこと言えるはずもなく。代わりに俺は琴奈から顔をそらした。
琴奈は息を呑み、目を見開く。そして「わかりました……」と呟いた。
「私、決めました。いつか『失敗した』って言わせてみせますから」
「は?」
「私たちと家族って否定し続けたことを『失敗した』って、言わせてみせますから!」
「――っ!」
今度は俺が目を見開く番だった。そして、思わず吹き出すようにハッと息を吐き出す。「なんなんですかー!」と喚く琴奈を軽くあしらった。
口に布をつけていて良かったと思う。口角がこんなに釣り上がっているのを、彼女に見せるわけにはいかない。
だがそんな雰囲気が俺から出ていたのか琴奈は満足げに笑みを浮かべ、「それに」と続けた。
「さっきつまづいたのはたまたまですよ! これが悪いんでっ……す!」
琴奈は少し顔を赤くしながら、つまずいたであろう二メートルほどの黒い何かを思い切り蹴飛ばした。ガンッ! と岩を蹴ったかのような音が響き、それは重々しく転がる。
「ああ、鬼か」
何かに縋るように手は伸ばされ、右足がない。苦悶の表情に、異様に長い犬歯。まごうことなき黒化した鬼の死体だった。
鬼は完全に黒化するまでは硬くないが、完全に黒化すると鉄のように硬くなり、しかも腐らない。あの場所の近くだったら回収班が回収するが、ここがあの場所より遠いからか、それともただの取り残しか、死体が残ってしまっていたようだ。
だが特に珍しいものでもない。現にさっきから、ちらほらと黒い何かが緑の隙間に見えるが、あれも鬼の死体だろう。
「ほら、行くぞ――ってお前、なにしてるんだ?」
「――ッ! なんでも、ないです」
隣でうずくまっていたらしい琴奈は、顔を苦々しくしかめながら立ち上がった。頬を一筋の汗が流れ、黒く大きな瞳もかすかに潤っている。
なるほどと納得した。
「お前、自分で蹴っておいてそんなに痛かっ――」
「違います! 違いますからね! ほら、行きますよ!」
そう言いながら琴奈はさっさと歩いていった。強がってるつもりなんだろうが、明らかに右足を引きずっていて、体がガクンガクンと揺れている。
強がれば強がるほど余計なミスをしているのを彼女は気づいているのだろうか。そもそも彼女は冷静な性格をしているはずなのに、俺の前だとやけに強がるのもおかしい。その理由はわからないが、琴奈と絡んでいると自分の娘と話しているような気分になる。もちろん俺に娘はいないが。
なんにせよ、ただ精一杯背伸びをして隣に立とうと強がるその姿がおかしくて、俺は思わずククと喉を鳴らした。
琴奈をからかいつつひたすら歩き続け五時間と少し。
青い空は朱、藍と移り変わり、夜特有の蒼く冷たい風が俺と彼女の髪を揺らす。大きな凹凸もなかった地面にも天に伸びる廃ビルが現れ始め、空を隠し始めた。
「わぁ……すごいですね」
琴奈は感嘆の息を漏らす。興奮した子供のように、小走りで少し先に行くとキラキラした目で廃ビルを眺めている。
無理もない。元々の人口からして、大変異直後の鬼の数は都会より田舎の方が少ない。だから人は皆田舎に逃げていった。今の人間にとって高い建物といえばせいぜい三階建て程度のものだ。見上げるほどの建物なんて、今となっては鬼域でしか見ることができない。
少し無邪気に見える今の琴奈だが、警戒心は解いていないようだった。
何せここは鬼域。
鬼の住処であり――俺がかつていた場所。
先ほどまでの平野と基本的には変わらない。
かつて大きな道路だったであろう場所は緑に埋め尽くされ、ガラスも割れ乱雑に乗り捨てられた大量の廃車の表面をツタが伝う。廃ビルの窓にも外と中を区切るものはなにもなく、壁にはヒビが入り時折寂しそうにきしんでいた。実際に半分崩れたり、隣のビルに寄りかかっているものもある。
それらの間を風が通り抜け、ヒュウヒュウと音を鳴らした。
「……ただいま」
暗くてはっきりとすべて見えるわけではないが、この場所は確かにいつも俺が見ていたものだ。
その退廃的な光景が懐かしくて、つい小さく呟いた。風に吹かれれば消える程度の大きさだった。それでも琴奈の耳に入ったのか、彼女は振り返って首を傾げている。俺はそれに「なんでもない」と返した。
「すごいですねー。こんなに高い建物、私見たことないです。それも、こんなにいっぱい」
「そうか」
「明人さんは以前ここに来たことあったんでしたっけ。それにほら、見てくださいよ!」
花のような笑みを浮かべながら、彼女は上を指差した。つられて俺も顔を上げる。
「綺麗ですね……」
琴奈はうっとりとした声を漏らした。
そびえ立つ鉄とコンクリートのジャングル、そしてそのさらに上空。それこそ人工光が一切干渉しない、まさに天然の星々がそこで砂金のようにきらめいていた。
七〇年前では考えられない光景だ。喰鬼奴隷でも七〇年前よりは綺麗な星空だったが、一切の光がない鬼域だとそれこそ規模が違う。
だが琴奈は何が不満なのか、隣で唸り声をあげていた。
「ちょっと残念ですね」
「そうか? 十分綺麗だろ」
「綺麗は綺麗なんですけど、建物が」
「ああ、なるほどな」
確かに地上から空を見ると、廃ビルが高いせいで少し空が隠れてしまっていた。暗いせいで廃ビルのシルエットしか見えず、そこだけ星がないように見える。
それが琴奈は不満だったらしく、少し唸った後、何かを思いついたかのようにポンと手を打った。
「明人さん明人さん」
「ん? なんだ?」
「あそこ、登りませんか?」
琴奈が指をさしたのは、近くで一番高い廃ビルだった。
「きっとあそこの一番上からなら、もっと綺麗に見れますよ!」
「あー……確かにそうかもしれないが……」
「どうしたんですか?」
「……なあ、琴奈。ここ、静かすぎるとは思わないか?」
唐突な質問に、彼女は怪訝に顔を歪める。探るような視線を俺に向けながらも、「確かにそうですね」と口にした。
「鬼っていうのは他の動物や人間と同じように家を持つんだ。で、夜になるとそこに戻る。だから今道端に鬼はほとんどいない」
「ああ、だから夜に着くようにしたんですね。でも、それがどうかしたんですか?」
「だから……」
俺は琴奈が登ろうといった廃ビルに視線を向けた。それだけで彼女察したらしく、ああと頷く。
「あそこに鬼がいるかもってことですか」
「まあ、そういうことだ」
「大丈夫ですよ。あんな高いところに鬼は住みませんって。低いところだけ気をつければいいですよ。低いところならすぐ逃げれますし」
そういうことじゃないと言うのをぐっとこらえた。
鬼は理性はなくても知性はある生き物だ。そして記憶も残っていて、考えることもできる。といっても普通の動物程度だが。
そしてその記憶にはもちろん人間だった頃の記憶も含まれ、鬼は基本それに従って行動する。
要するに鬼が夜家に帰るのは人間だった時夜家に帰っていたからであり、その帰る家はもちろん人間だったとき住んでいた家になる。
そして問題なのが彼女の登ろうとしている廃ビルだ。このビルは以前タワーマンションだった。だから過去人間が多く住んでいた。そして鬼も今大量に住んでいる。
高いところに鬼が住まないなんてことはない。普通に住んでいる。まさに鬼の巣窟と言える場所だ。
だがそれを口にできない。鬼の行動原理は未だ人間には解明されていないからだ。
それに加え、大変異後生き残った人々はあの悪夢のような日を忘れようとしているかのように、それ以前のことを話さなくなった。だから七〇年近くしか経っていないにも関わらず、この建物が人が住むためのものだと知る人もほとんどいない。
もし俺が口にすればなぜ知っているのかと確実に彼女は俺に聞いてくる。
だからこそ口にするのは間違いで、失敗だ。
だがやはり言った方がいい気もして。うんうんと唸っているところ、左手に冷たい感触がした。
「ほら、行きますよ」
琴奈は俺の手を取り、引く。そしてそのまま入口へと歩いていった。
ああもう。なるようになれだ。
観念するようにため息を一つつき、俺も足を動かす。
「――っ!」
突然琴奈の体が大きく跳ねた。そして俺とは逆方向の少し上――とある廃ビルの一室に勢いよく顔を向ける。こちらからは見えないが、その視線はきっと鋭い。そんな雰囲気を漂わせながら、彼女はそのまま動きを止めた。
「どうした?」
「……なにかに見られていた気がしたんですが……気のせいかもしれません」
低く冷たい、確かな殺気を含んだ声。
気配を察知するという能力において、琴奈は俺よりも上だ。彼女が何かに見られていたと言えばそうなのだろうし、気のせいかもしれないと言えば気のせいなのだろう。それに俺が口を出すことはできない。
だから俺は「そうか」とだけ返した。
「もしかしたら鬼かもな。でもあそこは高いし遠いから近づかない限り危険じゃない」
「そう、ですね。そうですよね」
頷くがその声色は、納得したというにはあまりにも暗い。そうですよねと自分に言い聞かせるように何度も口にしている。
「そんなに気になるなら、行ってみるか?」
「いえ、気になるとかじゃなくて……。なんというか、こう、異様に気になるというか、胸の中にしこりみたいなものが残っているっていうか」
「嫌な予感ってことか?」
「そんな感じです」
ふむ、と俺は頷いた。
さてどうするべきか。目的と矛盾するが、琴奈にはあまりここを歩き回って欲しくない。何があるかわからないから。
ただこのまま無視して行って、彼女の注意が散漫になるのもよろしくない。
「……やっぱりいいです。進みましょう」
先にそう言ったのは琴奈だった。
「いいのか?」
「はい。多分気のせいですし」
「お前がそういうならいいが……」
「早く行きましょう?」
誤魔化すように早足で琴奈は歩き出した。俺も小走りでそれを追う。
何かから逃げるように歩くその背中は、いつもより小さく見えた。
「……なあ、本当にいいのか?」
「もう、明人さんしつこいですよ? いいんです」
言うことを聞かない子どもに呆れるように、彼女は小さく息を吐いた。
「私が感じた気配は一瞬で消えたんです。そんな動き、普通の鬼でも無理ですよ」