4話 「鬼の憂鬱」
顔面に何かの感触がして、不意に目を覚ました。瞼は接着剤で止められたかのように開かない。
「ん……」
眉をしかめながら顔を手で拭った。砂のような、ざらざらした感触。
ああ、いつものやつか。
朝から憂鬱な気分になりながら、重い体を起こす。そしてまだしょぼしょぼする目を薄く開きながら、恨めし気に天井を睨みつけた。
喰鬼奴隷のメンバーには一人一部屋与えられるのだが、この町の状態からしてまともなわけがなく。ボロボロのコンクリートの天井からは、たまにそれが剥がれて落ちてくる。
「はぁ……」
重いため息をつきながら体を起こす。お粗末な毛布が体からずり落ちた。
トタン板を組み合わせただけの壁がカタカタ揺れる。継ぎ目の隙間から朝の冷たい風が入り込み、思わず体を震わせた。
「……俺、いつの間に寝たんだっけ」
いまだうまく働かない頭を回転させ、昨夜の記憶をめぐりだす。そして、また憂鬱になった。
「ああ、琴奈を突き飛ばしたんだったな……」
そのあと自分の部屋に戻り、そのまま眠ったんだったと今更ながら思い出した。
「……失敗した」
あの場所を出るときに琴奈が俺に向けた、悲しそうな表情が頭から離れない。あの時あいつらから見た俺は明らかに異状で、そして確かに俺は異常だった。
血を飲まないといけない。
飲まなければここを襲っている鬼のように理性を失ってしまう。
だがそう簡単な話でもない。
いつもは死んでしまった新参者とか鬼の死体からこっそりもらっていたが、バレないようにとか考えることが多く、なんともめんどくさい。
なら今いる人間でもいいじゃないかと考えたこともある。ここは人がよく死ぬ場所だ。少し不自然かもしれないが、なんとか細工すればーー
そこまで考えて、チクリと胸に違和感。
「……ああもう、やめだやめだ」
頭にかかった靄を振り払うように頭を振った。体にかかった毛布を放り投げ、勢いよく立ち上がる。
寝起きで頭がよく動かないせいか、おかしなことを考えてしまう。ここで殺すなんて、どう考えても不自然だ。
不自然だからやめる。別に胸の痛みがどうとかいうわけではない。
そう自分に言い聞かせた。
だが何故か無性にイライラして。最低限しか物を置いていない殺風景な部屋をウロウロと歩き回る。
「大丈夫、大丈夫。別に情は沸いてない。あいつらも、琴奈だって、いつでも切り捨てられーーん?」
ふと、扉の下の隙間に何かが挟まっているのが目に入り、それを手に取る。
それはハガキくらいの大きさの紙だった。
『明人さん。話があります。私の部屋にお越しください』
送り主の名前はない。
紙にはそう書いてあった。パソコンで打って印刷したのかというくらいに綺麗な字で。だがパソコンなんてもの、この場所にあるわけがない。となるとこのありえないくらい綺麗な字は人が書いたことになるが、その人物に心当たりがあった。
「はぁ……」
またもやため息をつく。
送り主は古堅だ。こんな綺麗な字書くやつはあいつしかいないし、そもそもここには字が書けない奴もいる。
彼からされる話は大抵面倒なことだ。できることなら無視したい。だがそんなことができるはずもない。
「……行くか」
いつもの黒い布を顔に巻きつけた。扉の横に立てかけてあったいつもの刀と一丁の銃を手に取る。
さっきまでのイラつきがあっさりと消えてしまうくらいに、憂鬱な気分だった。
寝起きのせいか、それともその気分のせいか。やけに重い体に鞭打ちながら、扉を開け外に出た。
◆
淡い朝日が体全体に降りかかる。吸血鬼みたいな俺だが別に日光に弱いというわけでもなく、むしろ半覚醒だった意識が完全に目を覚ました。
と言ってもまだ早朝だ。西と東で、朝と夜が混在しているような、そんな時間。空気は肌寒く、思わず体を震わせた。
もう少し重ね着をしようか。そんなことを考えたがわざわざ戻るのもめんどくさく、そのまま行くことにした。
この町――というより集落は、昨晩宴をしたホールを中心にそれぞれの家が囲むように並ぶ作りになっている。端から端まで歩いて一〇分もかからない程度の大きさだ。俺の家はその一番外側。まだ集落は目覚めておらず、聞こえる音といえば時折壁越しに響く汚い誰かのいびきくらい。
古堅はホールにいる。正確にいえば、ホールから繋がっている部屋。そこに向かって歩き出した。
ジャリと、ひび割れたコンクリートが静寂に響く。意外と綺麗な道を通り、ホールに入った。むせかえる酒の匂いに顔をしかめながら、酔いつぶれた男どもを傍目に奥の扉へ辿り着く。
軽くノックすると間髪入れずに「どうぞ」と返ってきた。中に入り扉を後ろ手に閉め、鍵をかける。
そこは簡素な部屋だった。ソファが二つ向かい合うように置かれ、その間に一つの机。俺が入ってきた反対側の壁には、古堅の部屋に続く扉がある。
古堅は向こう側のソファに座り、書類仕事なのか紙に何かを書き込んでいた。
「おはようございます、明人さん」
手にしていたペンを置いて彼はそう口にした。
「昨晩明人さんはいませんでしたが、何かありましたか?」
「……体調不良だ。ああそうそう。これ、返し忘れてた」
俺はポケットからインカムを取り出すと、彼に向かって放った。彼はそれを簡単に受け取る。
いつもなら宴のあと古堅が訪ねてきたときに返していたが、昨日はいなかったから返せていなかった。彼は故障がないか、インカムを少し点検すると、それを自分のポケットにしまった。
「わざわざ手紙なんて送らなくても、それで連絡してくれればよかったのにな」
「戦闘時以外は使用してはならないという規則ですので」
「相変わらず硬いな、お前」
「普通のことです。規律が乱れれば、秩序が失われます。それにーー」
「ああ、わかったわかった」
説教のようなものが始まりそうな気がして、割り込むように声をあげた。以前一度だけ黙って聞いてみたことがあるが、その無表情もあってなかなか辛い時間だったのを覚えている。それが怒りからくるものなのか、諭すようなものなのか、感情が読めない分なんとも気持ち悪い。
「そうですか」と口を止めた彼もやはり機械じみた表情をしていた。
「で、用はなんだ?」
「任務です」
やっぱりかと、心の中で呟いた。そしてバレないように小さく息を吐く。
攻めてくる鬼たちの対処もそうだが、俺たちは時折任務を言い渡される。それは鬼の出現する地域を通る要人の護衛だったり、単純に鬼の討伐だったり。どんな内容にしろ、面倒なことに変わりはない。移動もするし、その先でバケモノを見るかのような視線を向けられて気分は良くならない。
だが古堅に管理されている俺たちは、その命を聞かないわけにはいかない。
「はぁ……それで、どこに行ってなにをしろっていうんだ?」
「明人さんには『鬼域』に行ってもらいます」
「今、聞き間違いじゃなければ鬼域って聞こえたんだが?」
「はい、鬼域です。目的は自我持ちの捜索です。鬼の対処にも余裕が出てきましたので、こちらからはこちらから探しに行くことにします」
ついに俺はガクンと肩を落とした。
鬼域とは、その名の通り鬼の領域のことだ。基本かつての都市部がそれで、ここの一番近くの鬼域といえば昨日の戦闘時向こうに見えた場所になる。
そして、かつて俺がいた場所。そういうこともあってあそこに行くこと自体俺としては億劫だ。
「……それは、俺じゃないとダメなのか?」
「この任務は少人数で行ってもらいます。ですので、そのメンバーは単純に強い方がいいです。だから、明人さんなのです」
「……お褒め頂き光栄ですね」
「いつ出発してもいいですが、なるべく早くお願いします。あと、積極的に鬼を殺す必要はありません。あまり刺激しないようにお願いします」
俺の軽い皮肉も無視して、彼は流れるように概要を口にした。
できることなら行きたくない。でも行かなければならない。
ならなんとか被害を小さくしないと。俺の思考はその方向に変わり始めた。
「それは、俺一人で行けばいいんだよな?」
もしあそこに行くなら、一人で行きたい。
あの鬼域はかつて俺がいた場所で、俺と共に行動していたあいつがいた場所でもある。五年前、あいつは人間を助けた俺を懲らしめた後、そのままあそこを出て行った。多分今あそこにはいないが、何があるかわからない。
そう考えた時、チクリと胸が痛んだ。
少人数と古堅は言ったのだから、一人でもいいはずだ。だが彼は「一人、ですか?」と無表情のまま首を傾げた。
「ダメなのか?」
「いえ、そういうことではないのですが……」
珍しく言いよどむ彼の視線は、なぜか俺ではなくその隣に向けられていた。
そこにはなにも、誰もいないはずだ。俺は一人で入ってきて、鍵も閉めた。じゃあこいつはなにを見てるんだ?
首を傾げながらその視線をたどる。
そこには、俺の隣で不満げにこちらを見る琴奈の姿があった。
「うわっ! お前、いつからいた!? ていうかどこから来た!?」
思わず俺は背後に飛び退いた。だが今はソファに座っている。思い切り背中を強く打ち付けた。それを彼女はどこか楽しそうに眺めていた。
「どこって、普通に入って来ましたよ?」
「普通ってお前……」
「職業病って言うんですかね。気配消して尾行は癖でして。鍵もかかってましたけど、こう、ちょいちょいっと」
「まあ確かにお前ならピッキングくらいできそうだけどさ……」
「それから一人になったところでヤっちゃうまでがパターンです」
「流石にそれはやってくれるなよ……?」
「しませんし、できませんよ」
そう言うと琴奈はカラカラ笑った。
なぜこんなことをしたのか。もしかしたら昨晩見破ったのを、思ったより根に持っていたのかもしれない。
「て言うかお前……」
「なんですか?」
「……いや、なんでもない」
なんでそんな普通なんだ。
馬鹿正直にそう問いかけるところだった。今の彼女からは気まずさなんて感じない。ただただいつも通り。あんな強く当たってしまったのに。
結局、彼女なりに気を使ってくれていると思い当たり、俺は言葉を濁した。彼女は「そうですか」とだけ言って、追求しようとはしない。
「そんなことより、ですよ」
彼女は体ごとこちらを向いた。グイッと顔を近づけ、背丈の関係上少し下から俺を覗き込む。俺も半ば気押されるように少しのけぞった。
「なんで一人で行くなんて言うんですか?」
「は?」
「鬼域に行くんですよね? 一人で行くなんて危険です。危険ですよ。危険に決まってます。私じゃなくても、誰かしら連れていけばいいじゃないですか」
「少人数の方がいいって言ってただろうが」
「一人も二人も変わりませんよ」
彼女は俺から離れ、呆れたようにため息をつく。
俺もバレない程度に安堵の息を吐いた。ずっと近づかれていたら、いつまた吸血衝動がくるかわからない。
だが琴奈は、そんな俺の安堵すらぶち壊すほどのことを口にした。
「もういいです。わかりました。私が付いていきます!」
「はあ!?」
思わず声を荒げた。
なにを言いだすのだろうかこいつは。なぜここまでムキになっているのかわからない。
鬼域は鬼の住む領域だ。それにいつもの鬼と違い、理性を失っていないから当然強い。どれだけ危険か彼女がわかっていないはずがないのに。
ついついおかしなものを見るような視線を琴奈に向けた。彼女は、なんですかとでも言いたげにこちらを見返す。
「もちろん、足手纏いにはなりません」
「いや、そう言うことじゃなくてだな……」
「じゃあなんですか?」
「あー……」
「重荷にはなりません。なんなら、いないものとして扱ってくれてもいいです。明人さんにはデメリットはないですよ?」
そういうことじゃない。そういう損得の話じゃない。
確かに琴奈なら簡単に殺されるなんてことはないだろう。足手纏いにももちろんならない。でも俺が渋っているのは、そういうことが理由じゃなくて。
と言っても俺の中でなかなか言葉にできずにいた。どう言えばいいのかわからないのだ。だから曖昧な返事になって、それがさらに彼女を駆り立てる。
いい加減この連鎖を止めなければならない。だが俺にはできないから、誰かに助けを求めるしかない。そして、その対象になるのは心底頼りないがただ一人だった。
「明人さん!」
「あ、あー……な、なあ、古堅。お前はどう――っていねえし……」
つい先ほどまでいたはずの古堅の姿はもうなかった。もともといなかったかのように、なんの痕跡もない。
話すことを話したらさっさと去るところがなんとも彼らしいが、今の俺からしたら迷惑でしかなかった。
そもそも助けを求めたところで無駄だったのだ。琴奈を連れて行くのがダメなら、古堅はすぐに口を出す。そうしなかった時点で、それは問題ない訳で。
半ば肩を落としながら、ニヤニヤとこちらを見る琴奈に視線を戻した。
「で、どうするんです?」
「はぁ……失敗した。わかった、わかったよ。連れてくから」
「よしっ!」
琴奈は小さくガッツポーズを決める。
俺はそれを傍目に見ながら、どうかなにも起こらないようにと、意味があるかどうかもわからない神頼みをしていた。






