3話「鬼の居ぬ間の出来事」
明人が出て行った後のホールには、何とも言えない空気が充満していた。祥吾はあちこちに視線をさまよわせた後ため息を吐き、気まずげに頭をかく。
「おいおい、怒らせちまったな」
「しょうがねえよ。祥吾は脳筋だからな。人の感情がわからんのさ」
「はあ……うるせえよ」
祥吾は明人と琴奈に渡すつもりだった酒を一気に飲み干すと、琴奈から逃げるように距離をとった。そして少し離れた場所に移動し、腰を下ろす。壁にもたれかかり、古ぼけた壁はきしんでギシリと音を立てた。
空気は湿っぽくなったが、喰鬼奴隷にとっては今は宴だ。誰もがまた酒を手にし、沈んだ琴奈とやけに静かな祥吾を置いてけぼりにして騒ぎ始める。
そんな中、琴奈だけは未だに祥吾の出て言った扉へ、何かを訴えるように視線を向けていた。
(私……ダメなことしちゃったのかなぁ……)
琴奈は胸の中で自嘲気味にぼやく。当たり前だが、誰もそれに答えてはくれない。
(あんな風に拒絶されたの……初めて)
今まで明人は突き飛ばすほど琴奈を拒絶したことはなかった。どれだけしつこく絡まれたとしても、暴力だけは振るわない。そんな明人が今回あの行動に出たという事実は、琴奈の胸にジクジクと痛みを与えている。
(共有、したいんだけどな)
立ち去る直前に明人が浮かべた、何かに耐えるような苦い表情。家族だから助けてあげたいという琴奈を押しとどめたのは、明人が琴奈たちとの間に作っている明確な壁だった。
強引に踏み込めばまた違うのかもしれないが、それもできない。琴奈はそんな自分が嫌で、憂鬱げにため息を漏らす。
そんな琴奈を放って、宴は進んだ。
「にしても、ほんとなんで明人は口の布を取らないんだろうな」
明人が出ていって少し経った時、一人の男がなんとなくそう口にした。
「あれだろ? 感染が怖いってやつだろ?」
「毎回討伐数トップの明人が? ねえだろ」
「俺は昔火事で口周りにひどいやけどを負ったって聞いたぞ?」
「本人に?」
「いや……どこだったかな」
皆好き勝手口にする。人前では決して外されない明人のマスクについては、今まで幾度となく話題に上がった。答えが得られるわけでもなく結局予想止まりなのだが、男たちにとっては単なる会話の種程度のこと。
とそこで、一人の男が「もしかしたらさ」とこぼした。
「あいつ、鬼なんじゃね?」
――トン、と。
騒がしいこの空間でなったその小さな音は、不思議と誰もの耳に入った。反射的に誰もがそちらに視線を向ける。そこにあったのは、一本の折りたたみナイフ。きちんと手入れされたそのナイフは壁に突き刺さり、刃は光を反射してギラリと輝く。ナイフの揺れる姿は、それが今投げられたものだと如実に示していた。
一瞬遅れて、今口を開いた男の頬からツゥと赤い液体が垂れる。
「――今、なんて言いました?」
ナイフに視線を向けた男たちが、背後からそう問いかけられる。低く、冷たい、少女の声。
男たちは瞬時に振り返った。目を見開いて精一杯の殺気を向ける琴奈を見て戦闘態勢に入る。誰もが酒を放り出して、身構える。彼らは彼女を敵だととっさに認識した。認識してしまった。
元殺し屋で元暗殺者の琴奈は、身体中に武器を隠し持っている。今投げたナイフもその一本だった。
もちろん喰鬼奴隷のメンバーはそれを知っている。いくら普段の琴奈が普通の少女のようでも、奥底には氷のような殺意を持っていると知っている。
知っているから、驚かない。だがさっきまでの普通に会話していた彼女が急に強烈な殺意を抱いたというその落差に、彼らは恐怖を抱いてしまった。
どこにでもいるような女の子はもういない。そこにいるのは、一人の冷徹な暗殺者。
そんな様子を祥吾は、唯一動じることなくジッと眺めていた。
「あの人が、鬼? ハッ。そんなわけないですよ。あの人は私たちの中で一番鬼を殺してるんですよ?喰鬼奴隷に入るときにだって鬼かそうじゃないかくらい確かめられたはずです。それに――っ」
(あの人は、私を助けてくれた)
最後の一言は口にしない。口にせず、胸の内に秘めておく。
琴奈の頭に浮かぶのは、五年前。忘れることのない、特別なあの日。明人に助けられた、あの日。
琴奈は優秀な殺し屋だった。失敗はたった一つを除いて一度もない。
今ここにいるのもかつての同業者に裏切られたからで、仕事に失敗したからじゃない。そんな彼女からすれば、初仕事であり、唯一の失敗であるあの日のことは何よりもの恥だった。
琴奈にとって明人とは、自分に恥をかかせた張本人であり、だがそれでいて唯一自分を純粋に、なんの裏もなく助けてくれた恩人だった。
琴奈はそんな明人がよりによって人間でもない化け物の鬼と言われるのが我慢できなかった。
琴奈の凍えるような殺意に睨まれて、誰も口を開かない。少しでも動けば串刺しになりそうな空気の中、ゆっくりと時間だけが動いている。
そこに一石を投じたのは、ジッと黙っていた祥吾だった。
「まあまあ落ち着けよ」
「……家族が鬼と言われて、落ち着けっていうんですか?」
「そんな怒んなって。誰もマジでは言ってない。それくらいわかるだろ?」
事実明人が鬼と口にした男も、他の男も、明人が鬼なんて思ってはいない。
軽い冗談のつもりだった。琴奈以外にも、大なり小なりで明人に助けられた人はもちろんいる。誰も本気でそうは思わない。
琴奈は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。琴奈自身もそのことはわかっていた。今はただ、恩人が鬼呼ばわりされたということへの怒りで我を忘れただけ。
「それによ、もし本気で言っててもしょうがないだろ? ずっとあんなマスクしてれば誰だって疑うさ。俺だって考えたことくらいある」
ヘラヘラと軽い笑みを浮かべながら、祥吾はそう続けた。
琴奈は反論できなかった。見た目上で鬼か否かを判断できるのは、牙の有無だけだ。そこをずっと隠しているのだから、怪しく思うのも当たり前のこと。そう琴奈は理解できたし、さっきの男への殺意と怒りも消えた。だが、琴奈は殺気を緩めない。
「祥吾さん……何を考えてるんですか?」
祥吾をにらみながら、琴奈はそう口にした。だが祥吾は何も答えない。ただまっすぐ琴奈を見つめていた。
祥吾の言っていることは正しい。だがどうにも胡散臭い。
琴奈が祥吾をにらみ続けるも、表情に変化はない。
(もしかして、祥吾さんは明人さんが鬼であることを望んでいる……?)
琴奈はそう予想し、そしてそれは見事に的中していた。
前提として、祥吾は負けず嫌いだ。そんな彼は討伐数で明人に負け続け、そしてそれを表面上は認めつつも、内心認められずにいた。
祥吾は元地下の剣闘士だ。金をかけられ、敵と戦う。そして彼はそこで勝ち続けてきた。そんな彼にとって敗北とは重大なこと。それを毎度、しかも二〇にもいかないガキに味合わされているとなれば、なかなか認められないのは当たり前だった。
だが祥吾は見ていてわかっていた。自分はどれをとっても明人に負けていると。
祥吾は人間で明人は鬼だから本来なら当たり前のこと。だが知らない祥吾は認められなかった。
もし明人が鬼なら認められる。なかなか負けを認めない自分に嫌気を感じ始めていた祥吾としては、それは喜ばしいことだ。
琴奈はそこまでは読めなかったし、読めるはずもない。
(祥吾さんは明人さんを殺そうとしてるかもしれない)
そう思ってしまった琴奈の拳に力が入る。
互いの気持ちがすれ違いながら、視線は逸らさない。
さっきまで騒いでいた男たちも静まり、酔いが醒めるような空気の中。刻々と時間だけが進み、そしてその空気を破るかのように、扉が開かれた。
「失礼します」
本人の意思に関係なく耳を滑ってしまいそうな、感情のこもっていない声が響く。突然の来訪者に、誰もが視線を向けた。
そこにいたのは琴奈たちにとってもはや見慣れた一人の男だった。
青白いとも言える肌。顔に薄く浮かぶシワからは相応の年齢を感じさせ、そこに刻まれた表情はなんの感情も示さない。小柄な体を包む、場違いすぎるピシッとしたスーツも、爽やかさを感じさせるはずなのに全く仕事をしていないショートヘアも。何もかもが彼の不気味さを際立たせる材料にしかならないような、そんな男だった。
チッと、誰かが舌打ちをする。あるものは眉間にしわを寄せ、あるものは不機嫌そうに酒を飲み込む。先ほどまでの肌を刺すような空気ではない。口を開くことすらはばかれるような、殺伐とした空気だった。
この男――古堅 総一郎はいわば管理者のような人間だ。ここを管理し、喰鬼奴隷のメンバーに指示を出す。作戦時インカムから指示を飛ばしているのも彼だった。
そしてその不気味な雰囲気からか、感情を感じさせない声と表情からか、古堅はメンバーに嫌われていた。
だが古堅はそんな空気など意にも介さず、表情一つ変化させず、辺りを見渡した。
古堅の登場で気がそがれた琴奈は、脱力感を感じながら元いた場所に戻り、腰を下ろす。
「……明人さんがいないようですが」
古堅がそう口にしても、誰も反応しない。答えるつもりなどないとでも言わんばかりに、誰もが彼と目線すら合わせなかった。
古堅も明人のいない理由を待っているのか、口を開かない。ただただ時間だけが過ぎていく。
(もう、みんな子供なんだから)
今の皆は嫌いだから関わらないといった、まるで子供のような考えをしている。琴奈はそんな彼らを情けなく思いながら、深くため息を吐いた。
「明人さんなら帰りましたよー」
「そうですか。……まあ、いいでしょう」
古堅は仕切りなおすように目を瞑り短く息を吐くと、喰鬼奴隷のメンバーに向き直った。
「みなさん、今日もお疲れ様でした」
いつも通りの言葉から始まった、古堅の台本を読むような賞賛のスピーチは誰の耳にも残らない。
無表情で抑揚のない声で示されるその感謝は、驚くほど嘘くさい。琴奈も祥吾も他のメンバーも、誰もが聞く気はない。それぞれが彼方に視線を飛ばし、中にはいないことにして話しているものもいた。
古堅はそんなこと気にもせず、いつも通りのセリフを淡々と垂れ流す。そして、少したったあたりであることを口にした。
「最後に、『自我持ち』に遭遇した人はいますか?」
途端、場の空気が変わった。話し声は消え、黙っていたものも姿勢こそ変わっていないが、空気は変わった。
だが誰一人として名乗り出るものはいない。事実、遭遇した人はいないからだ。
古堅は辺りを見渡すと、「今回もゼロですか」と呟いた。
「なあ、おい。毎回毎回言ってるけどよ、本当に自我持ちなんているのか?」
「います」
攻めるようにそう問いかける祥吾に古堅はやはり淡々と、しかし断定的に答えた。
機械的で軽い印象を受ける彼の声は、不思議と全員の心に重く響く。
「そもそも、多くの鬼が一度に、しかも定期的に攻めてくるなんてここでしか起こっていません」
少数の自我持ちを除けば、基本的に鬼は組織を作らない生き物である。それが組織だった動きをしている。それはすなわち――
「――何者かが鬼を指揮している」
誰かのつばを飲み込む音がした。
「鬼は利害では動きません。あるとするなら力で従わされている。そんなことができるのは、『自我持ち』に他なりません。自我持ちを殺せば、これも収まるはずです」
「…………」
「皆さん、忘れないでください。みなさんの最終目標は――自我持ちただ一つです」
誰もが神妙に古堅を見つめた。
いつもの彼は上からの命令や伝言をそのまま伝えるスピーカーのような男だ。だが今の彼からはそれ以上の何かを感じた気がして。皆一様に面食らってぽかんとしていた。
「……はっ」
祥吾は噴き出すように息を吐いた。この場の皆にとって古堅とは面白い人間ではない。ただでさえ彼に管理されているのに加え、その無機質な性格から神経を逆なでされるような気分になる。そんな彼が見せた人間味のある部分が、祥吾はなんとなくすこしおかしかった。
「ま、わかったよ。おとなしく従ってやる。にしても、なにか特長かないのか? 年齢とか性別とか、容姿とかよ」
「一応は」
「お、珍しく優秀だな」
「……ここ付近で確認されている自我持ちらしき鬼は一体のみ。年齢は一〇にいかない程度。性別はメス。つまるところ――幼鬼です」
「――っ!」
部屋の隅。皆の後ろで今まで黙って聞いていた琴奈の体がはねた。何かにおびえるように体を縮こませ、すぐにあたりを急いで見渡した。
男たちは皆古堅に視線を向けている。
琴奈は誰もこちらを見ていないのを確認すると、安どの息を漏らす。
「幼鬼、か……」
何かに耐えるように、琴奈は眉間にしわを寄せ、拳を強く握った。