2話「喰鬼奴隷」
空気に質量を与えるようなビールの香り。部屋の隅にいても届く、この場所だけ気温が高く感じるような熱気。意識を外そうがお構いなしに耳に飛び込んでくる、下品な笑い声。
作戦の後の定番である宴の真っ最中。
「はぁ、失敗した……」
どれも不愉快な要素に囲まれながら、俺はそう口から零した。
雰囲気に当てられてか、体がほのかに暖かい。そのくせ腰を下ろしているのはコンクリート。体は暖かいのに尻は冷たく、奇妙な感覚だった。
憂鬱な気分を誤魔化すように、手に持ったコップを小さな円を描くように動かした。中の水がそれに合わせてゆらゆら揺れる。
ガラス製のそれはもともと透明だったのだろうが、傷がつきすぎて半透明ですらない。
コップの中の水に、天井からぶら下がるむき出しの電球が歪んで映り込む。かつての廃屋に最低限の補強だけしたようなこの場所は、落ち着くようなところではない。ガヤガヤと騒ぐ他の喰鬼奴隷のメンバーを少し離れたところから眺めながら、この場所崩れたりしないだろうな、なんて考えるのはいつものこと。
ここはこういった宴や連絡事項のために集まる場所――ようするにホールのようなところなのだが、そこですらこの有様だ。俺たちの住む町の脆さがありありと現れている。
内地へ行けばまだマシなんだろうが。
「……ま、俺たちにはこれくらいがお似合いか。犯罪者と異常者の集まりなんだし」
ほぅ……と、余韻に浸りながら小さくため息をついた。
ため息をついて――
「で、琴奈――お前は何の用なんだ?」
そう口にして目線だけ右に向ける。
まず目に入るのは手のひら。こちらに伸ばされたそれの向こうに、「え」と固まった表情を浮かべる少女――朝羽 琴奈がいた。
「あ、あれー……。ほんとなんで明人さんはいつも気づくんですか……」
気まずげに彼女は手を引っ込めた。そしてそれを誤魔化すように、引きつった笑みを浮かべながら頭をかく。その動きに呼応するかのように、背中あたりまで伸びたライトブラウンの髪の先がぴこぴこ跳ねた。
手元すら隠れるほどに袖の長い、灰色のシャツ。下半身にはスカートに黒タイツ。何度見ても琴奈の格好は血生臭いここだと不釣り合いで違和感がある。
先ほどまで向こうにいたのか、片手で皿を持ちそこには数切れの肉が乗っていた。
「なんでって言ってもな。あんな近づかれたら嫌でも気がつく。それにそんな服着てたらまあまあ明るいここだと目立つだろ?」
「明人さんこっち見てなかったじゃないですか! そんなことを平然と言ってること自体が、私のプライドをズタズタにしてるって気がついてます?」
「まあな」
「確信犯!」
琴奈はため息を一つつく。「これでも私、元殺し屋なんだけどなぁ……」なんてこぼしながら。
そんな物騒なセリフとは相反して、正面に視線を向けるその横顔は柔らかい雰囲気を纏っていた。
「ていうか水なんて持って、飲むつもりなんですか? マスクしてるのに?」
「…………」
「心配性ですねー。別にここでは感染しないのに」
そういいながら焼かれた肉を一切れ口にして、おいしそうに顔を緩ませる。俺の人間だった時からすればその反応は違和感しか感じなかっただろう。だが今肉が最上級品となり、主な食材は野菜や米、麦だ。今では、ただ焼いただけのものでもかなりの価値を持つ料理になる。
実をいうと肉が高級になった理由は、牛や豚の血を求めて鬼がやってくるかもしれないと誰かが言い出したからだったりする。だが実際は全くそんなことはなく、鬼が飲む血はなぜか人間のもののみである。
まあそれは置いといて。
口を覆う古ぼけた布をなでながら、取れるわけないだろと心の中で反論する。俺の口には鬼の証である牙があるんだから。
しかしこんな反応も言ってしまえばいつものことで。彼女はスカートを抑えながら俺の横に腰を下ろした。
変わっていない。成長し髪も伸び、容姿にもある程度の変化はある。でも全体を見てみれば、やはり五年前助けた時から何も変わらない。
「ん? どうしたんですか?」
俺の視線に気がついたのか、こちらを向きキョトンと首をかしげる。俺はそれに「何でもない」と軽く返した。
一年前に彼女と再会した時、俺はまさに頭を殴られたかのような気分だった。俺が鬼側を追い出された要因と会うなんて、予想もしていなかった。
俺のことを覚えていないことが唯一の救いだろうか。たしかにあの時のあの場所は暗かったし、俺の顔はよく見えなかったのかもしれない。
だがいつ思い出されても不思議ではない。だから俺はなるべく関わるのを避けていた。なのに琴奈は俺の何を気に入ったのかしつこく絡んできて、今では一番話す間柄だ。
当の本人が彼女とのやり取りに心地よさを感じてしまっているのだから、全く笑えない。
「あ、そういえば」と、思い出すように琴奈が声を上げた。
「あの子、どうなったんですか? ほら、あの……新入りの……うーん……」
名前を思い出せないのか琴奈は数秒うんうん唸り、「ほら、新入り君です」と思い出すのをあきらめたかのように口にした。
諦めの速さに呆れながら、俺は機械的に事実を口にする。
「――死んだよ」
一瞬俺たちの周りの時間が止まった気がした。プツリと俺たちの周りは止まったのに向こう側は相変わらず騒がしくて、妙な感覚だった。
俺かそれとも琴奈か、どちらかがハッと息を漏らす。そして彼女は口を開いた。
「でしょうね」
淡々とした、感情の籠っていない声だった。いや、実際何とも思っていないのだろう。もう夜も遅く眠いのか、はたまた興味がないのか、琴奈はくぁとあくびを一つ漏らす。
見た目はどこにでもいる普通の女の子なのに、口にする言葉は容赦ない。違和感しか感じない光景だが、不思議とストンと腑に落ちた。結局琴奈も元犯罪者で、異常者なのだ。
「ちらっとしか私は見てませんけど、まあ生き残るとは思いませんでしたね」
「それは俺も同感だな」
倫理のないこの場所は死にあふれている。価値のあるのは力のみ。だからここの人間は力ないものに興味を示さないし、死のうが何とも思わない。
「新人君には――家族になる資格はありませんでした」
だからこそ一度皆がその力を認めれば、強い仲間意識が生まれる。
新人が死んでも誰も何も思わない。だがもし仲間が死んだら、喰鬼奴隷のやつらは殺した鬼を血眼になって探すだろう。探して、殺して、それでもまだ攻撃して。
「ですよね?」
彼女はにこりと微笑みながら、俺に問いかける。その目に映るのは信頼で。何度も生き残っている俺は、その例に漏れず皆に家族として扱われている。だが彼女や皆は人間で俺は鬼なだけに、その信頼がまぶしすぎた。
顔を逸らしながら「ああ」とだけ俺は返した。
彼女にとってその話題はもう終わったのか、「そんなことよりですねー」なんて何が楽しいのか笑みを浮かべながら口を動かす。
それから少しの間、琴奈との会話を楽しんだ。といっても普段も今も、基本俺は聞き役だ。楽しそうに話す琴奈を見ながら、その話に耳を傾ける。
俺は鬼で彼女は人間。そこに少しの罪悪感というか、後ろめたさはある。でもこんなイカれた場所で彼女は、俺にとって数少ない癒しとも言えるような存在だった。
しばらくすると、向こうの男たちがさらに騒がしくなった。机――というか台に乗って何かを高らかと叫んだり、地面で転げまわりながら腹を抱えて爆笑したり。料理とも言えない、何の肉かもわからない焼き肉をほおばる。
以前と比べ食料の供給は大幅に減少した。そんな現在において、いくらそれらしい調理がされていないとしても、肉というだけで高級ではあるのだ。
「もうそろそろですかねー」
そんな男どもを眺めながら、琴奈はそう零す。その視線にはわずかに影が差していた。理由も想像がつくが、俺にはどうしようもできないこと。仕方なく見て見ぬ振りをした。
「お前ら、今日はどれだけ殺したんだ?」
酒を片手に、一人の男がそう口にした。これはいつもこの宴で上がる話題だ。言い始めるやつはいつも決まっている。
ガッチリとした俺よりも一回り大きな体に、ライオンのたてがみのようにオールバックで固まった金髪。ところどころに古傷が散見でき、子供がひと目見たら逃げ出しそうな雰囲気を纏う。いつも真っ先に鬼の群へ飛び込んでいくあの男――轟 祥吾だ。
「ちなみに俺は鬼が二〇に、幼鬼が八だ」
「おいおい! 相変わらずすげぇな!」
「だな。さすがバトルジャンキー!」
「うるせえよ!」
祥吾は他の男の野次を受けながら、「お前らも早く言えよ」と次を促す。
他の男も次々と自分の戦績を口にした。あまり殺せていない奴には野次を飛ばし、多く殺したやつにも野次を飛ばす。
酔いからか、それとも元々なのか。異常に高いテンションのまま、『発表会』は進んでいく。俺と琴奈は少し離れたところから冷めた目でそれを眺めていた。
「おし! 今のところ、俺がトップだな」
あそこにいる男どもが全員言ったところで、満足げに祥吾はそう口にした。以前聞いた話だと、彼の中で点数化されているらしい。普通の鬼は一点で、幼鬼は三点。その配点で考えれば、たしかに祥吾が今の所トップだった。
だがそれはいつものこと。周りの反応も、やっぱりかというものだ。
「あとはお前らだけだぜ! 明人! 琴奈!」
視線と意識が俺たちに向けられ、俺と琴奈は同時にため息を吐いた。
面倒なことこの上ない。別に言うこと自体はいいのだが、そのあとが憂鬱だ。
せめてもの抵抗にと、俺たちは口をつぐむ。それを見かねた祥吾はこちらに近づいてきた。
ああもう、めんどくさい。
先に観念したのは琴奈だった。
「……五〇です」
男どもはおぉ……と、驚嘆と感嘆が混じったような声をあげた。
祥吾の配点で言うなら祥吾の負けだ。だが彼は落ち込むことなく、逆にニヤニヤと強面を歪めていた。
「で、幼鬼は何匹だ?」
「…………」
琴奈は答えない。表情に影を落とし、顔を俯かせる。だがそれでも逃げようとしないのは、祥吾の面倒くささを知っているからだ。重度の負けず嫌いな祥吾は、自分の勝ちを知るか、敗北を突きつけられるかするまで迫ってくる。
でもこれさえなければ祥吾もいいやつではあるのだ。
これでも仲間には優しいし、義理堅い。喰鬼奴隷のメンバーが殺されて一番憤るのはおそらく祥吾だ。
それを琴奈も知っている。
彼女は諦めたのか、一層深く、面倒くささを隠そうとせずため息をもう一つ吐いた。
「……ゼロですよ」
「おいおいおいおい! 琴奈はまた幼鬼を殺せなかったのか?」
「もう、いいじゃないですか別に! 私に負けたから自分が勝てる部分を探すなんて惨めですね?」
「で、明人は何匹だ?」
「無視しないでください!」
いつもと変わらないやりとりにこぼれそうになる笑みを内に隠す。こんな物騒な話題で笑みが浮かびそうになるなんて、俺もなかなか終わってるななんて自嘲しながら。
「……大人が二五幼鬼が二〇だな」
向こうから琴奈の時よりも大きな歓声が上がった。だが特に驚きはしない。この結果が常だからだ。俺が一位、琴奈が二位、そして三位が祥吾。その下は変わったりするが、上位三人は動かない。
祥吾も琴奈の時のように噛み付くことはせず、苦笑いを浮かべる。そして、参ったとでも言うように両手を軽くあげた。
「クソ……また負けかよ」
「さすがですねー。まだ若いのに。私もですが」
「あ? それはその若いのに負けてる俺への皮肉か?」
「ソンナコトイッテナイデスヨー」
琴奈も祥吾も他の奴らも俺をさすがと言うが、俺は素直に喜べなかった。
こいつらは知らないが、鬼は元人間なのだ。それをたくさん殺せたからって、喜べるわけがない。
そんな俺の内心なんて知る由もなく、祥吾はどこからともなく二つのジョッキを取り出した。
確かめる必要もなく、そこに入っているのは酒だ。酔うことくらいしかできない安酒だが、内地から離れたここでは嗜好品である。
祥吾はそれを俺たちに突きつけた。
「よし! 明人も琴奈も飲め飲め!」
今この世界において、大変異前の法律はほとんど機能していない。人を殺してはいけないとか、極端なものは引き継がれているが、飲酒の制限なんてものはもう気にする人はいない。
「私はいいです。酔ったあの感覚が嫌いなので」
「なんだよ。なら明人! ほら!」
「いや、俺もいい」
そう言いつつ、自分の口元を指差した。
「いいじゃねえか、そんなの取っちまえばよ」
「近づかないでくれ、祥吾。酒臭い。離れろ。臭い」
「言いすぎだろ!」
「いいじゃないですか。そんな心配しなくても感染しませんって。ほら」
「ちょっ! 待てって!」
呆れた顔をしながら、琴奈は俺の後頭部の結び目に手を伸ばした。
女性特有のいい匂いに混じる、かすかな血の香り。俺の顔に琴奈が近づき、汗のにじんだ白い首筋に視線が吸い寄せられる。
ああ、これはダメなやつだ。
ドクンと心臓が強く脈打ち、頭に血が上るのを感じた。自然と口が開き荒い息が漏れる。
その首筋にかぶりつきたい。そこに流れているものを飲み干したい。
そんな欲求が頭を埋め尽くしだす。
「――っ!」
「きゃっ!」
俺はとっさに琴奈を突き飛ばした。琴奈の体はその見た目通りに軽く、簡単に引き離せた。琴奈は小さく悲鳴を上げながら尻もちをつく。目を見開いて俺を見ていた。
「――ああ、失敗した」
そういえば最近血を飲んでいないと、今更ながら思い出す。飢餓から来る吸血衝動。鬼のそれは、人間の空腹と違い突然襲ってくるからたちが悪い。
また発作があってはたまらない。ここを早く立ち去ったほうがいい。
そう結論付け、俺は立ち上がった。
「祥吾、本当に遠慮する。酒は、あまり好きじゃないんだ」
「お、おう」
「……帰る」
一言そう告げ、歩き出した。
どんな顔をしているのか見たくなくて、彼らに顔は向けない。だが戸惑っているということだけは、残念ながら伝わってきた。背中に突き刺さる視線を感じながら無視して。
扉を開け、後ろ手で閉める。刺さる視線が消え、代わりに冷えた風が頬をなでた。空を見上げれば五年前と同じ、むかつくくらいにきれいな星空が広がる。
俺の今の行動は間違っていなかった。
あのまま、なすがままになっていたとしたら。俺の牙が見られて鬼とバレていたかもしれない。ひょっとしたらその前に琴奈の首筋にかみついていたかもしれない。
間違っていなかった。
間違っていなかったはずだ。
だがどうしても、あの時俺を見上げていた琴奈の表情が頭から離れない。大切な何かに裏切られたかのような、どうしてと問いかけてくるかのような、あの表情。
間違っていなかった。それは確かなはずなのに。
「ああ、失敗した」
なぜかそうつぶやかずにはいられなかった。