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番外「幼鬼の大変異」



 もういつのことだったか忘れちゃったけど。まだわたしが人間だった頃に読んだ少女漫画のことをよく覚えてる。

 ストーリーはよくあるような吸血鬼とヒロインの話。今思えばありきたりな少女漫画だったけど、あの時のわたしはそれに夢中になった。

 カッコいい吸血鬼。人と吸血鬼の禁断の恋。ヒロインの首に牙を突き立て、血をすする男の子の色っぽさ。

 なんにせよ、わたしは吸血鬼に憧れていた。




 そして、わたしの人生の転機――大変異が起きたのはその頃だった。





「わあ」


 朝目が覚めてお母さんに言われた通りに顔を洗おうとして鏡に映ったのは、いつもと少し違うわたしだった。口にはあるはずのないものがある。わたしは目を輝かせながら、でも恐る恐るそれに触れて、やっぱり目を輝かせた。


「わあ、わあ。吸血鬼みたい」


 それは牙だった。確かにもともと少し尖った歯はあったけど、そんなのよりももっと尖っていた。

 嬉しくなって口を大きく開けてみたり、逆に閉じてみたり。うーと唸るようにしてみたり、舌でなぞってみたり。

 まさに吸血鬼。憧れの存在と同じになれたと思ったわたしは、明らかにはしゃいでいた。


 一通り自分の中ではしゃいで満足して思ったことは、お母さんとお父さんに教えなきゃと言うことだった。

 わたしの知る限り、同い年の子にこんな歯を持ってる子はいない。きっと驚いてくれる。その姿を想像しては、なんだか楽しくなってクスクス笑っていた。


 早速教えようと洗面所を出て廊下を歩き、リビングへ。少し強めにドアを開けて、バン!と音がなった。

勢いよくリビングに入ったが、なんだかいつもと違っていた。

 お母さんはキッチンに立っていて、お父さんはいつもの席に座っている。ほんのりと朝食の香りが食欲を刺激して。

 そこまではいつも通り。

 だけど二人ともなんだか様子がおかしかった。二人とも――特にお母さんは顔を真っ青にして震えている。そしてテレビの中で何かを必死に訴えているお姉さんを真剣に見つめていた。なんとなく外も騒がしい。

 だけどそんなこと私には何の関係もないことだった。


「ねえねえお父さんお母さん! 見て見て!」


 わたしは無邪気に二人に話しかけた。だけど二人は反応してくれない。テレビに視線を植え付けたまま、こちらを見ようともしない。わたしはそれに腹を立てて、さらに大きな声で二人を呼び掛けた。

 そしてあまりにもしつこいからか、ついに二人はこちらを向いた。


「莉乃! 今は黙って――」


 お父さんはこちらを向き何かを言おうとして。でもわたしを見て言葉を詰まらせた。何も言えないのはお母さんも同じだった。



 きっとわたしは、その時二人がわたしに向けた表情を一生忘れることはないと思う。



 目を飛び出すかと思うくらいに大きく見開いて。顔をさらに青ざめさせて。それはまるで恐ろしい何かに遭遇したかのような顔で。そこにあるのは恐怖のみ。少なくとも娘に向けるようなものではなかった。

 二人とも何も言わない。さすがもわたしも何かおかしいと思い始めて、高ぶっていた感情も冷め始めてくる。


「お父さん……? お母さん……?」

「ひっ! 来ないで!!」

「え……」


 お母さんから帰ってきたのは明らかな拒絶で。前に進もうとしていた足は自然と動きを止めていた。

 わかんない。よくわからないけど、お母さんがわたしから離れようとしている。そう考えただけで胸の中に激しい焦燥感が浮かんでくる。だからわたしは拒絶も無視して、お母さんのほうに足を踏み出した。


「い、いやぁああ!!」

「ひっ」


 その時だった。お母さんは大きく叫んだかと思えば傍らにあった包丁を手に取って、こちらに駆け出す。恐怖にひどく顔を歪ませて。今まで見たことのないお母さんがわたしは怖くなった。そしてそんなお母さんが包丁を持って、しかもその切っ先をこちらに向けて走ってくる。お母さんがなにをしようとしているか、私でもわかった。

 なんだかお母さんの動きがやけにゆっくり見える。遠くのほうでお父さんが何かを叫んでいて。

 でもわたしはただ、ただただ怖くて。


「イヤ!!」


 そう叫んだ瞬間、腰あたりに激痛が走る。そして白い何かが飛び出した。背骨のような、そして先端はとがったそれは二本伸びて――


「がっ!」

「莉……乃……」


 お父さんとお母さんを貫いた。


「え……」


 それを自分がやったと実感するのにかなりの時間がかかった。二人の口から見たこともない量の血が零れだし。吐きたくなるような濃密な血の匂い。なぜか吐くことはなかったけど。


 これがわたしが初めて白羅を使った時。

 これがわたしが初めて人を殺した時だった。



 それからのことはよく覚えていない。気が付けばわたしは地獄の中を走っていた。

 ひたすらに涙を流しながら、姿もない何かから逃げるかのように必死に足を動かして。でもどれだけ走っても息切れはしない。

 あたりの光景もひどいものだった。人が人を襲っている。いや、片方は人とは思えなかった。理性をなくしたかのような、狂気の宿る表情。白黒が逆転したかのような眼。そして――私と同じ、鋭い牙。叫び声とうめき声と何かをすする音と血のにおいだけが私の五感を刺激して。それからも逃げるようにただただ走る。


「お父さん……! お母さん……!」


 震えた声でその名前を呼んでも誰も答えてはくれない。だって私が殺したんだから。

 味方も知っている人もいない。今はなぜか襲ってこない、おかしな人たちもいつ自分を襲ってくるかわからない。すぐ背後で囁き続けるような恐怖に、わたしはいく当てもなくただ泣きながら走り続けた。



 どれくらいたったころかわからない。でもその時、走りながらふと一人の男の子を見つけた。

 男の子といってもわたしよりはずっと年上だ。わたしは彼を一目見て、走り続けていた足を止めた。

 彼は路地裏への入り口にいた。奥に入り込んではいないけど暗い、そんなあいまいな位置。そこで座り込んで、地面を見つめていた。


「――っ」


 わたしは思わず息を飲んだ。その顔に映っていたのはわたしでもわかるくらいの絶望。すぐ隣をおかしな人が通っても、男の子を襲うことはなかった。


 その時わたしは直感した。確かな根拠はない。でも確信した。


 ――あの人、わたしと同じだ。

 

 怖くないことはない。足はずっと震えているし、今すぐにでも逃げ出したい。でもお父さんとお母さんはもういないし、そもそももはやここがどこかもわからず迷子みたいなもので、行く先もわからない。

 だからわたしは勇気を振り絞って、彼に近づいた。


 まるで猛獣に近づくみたいに少しづつ、少しづつ。幸い男の子は動こうとせず、その距離が開くことはなかった。

 そしてついに男の子のすぐ横まで近づいても、彼は変わらない姿勢のまま、地面を見つめていた。


「あ、あの……」


 絞り出た声は蚊の鳴くような声で。こうも叫び声が響く場所で彼に聞こえたか不安になったけど、心配はなかったみたいで。ついに彼はこちらを向いた。

 光を忘れてしまいそうな、漆黒の瞳がわたしのほうを向き、わたしは体を強張らせる。だが彼からは何も言ってくれなかった。ただ闇を孕んだ目でこちらを見つめている。

 いつのまにか拳を強く握っていた。そしてつばを飲み込む。


「あの……わたし白谷莉乃です……。目が覚めたらみんなおかしくなってて、牙も生えてて。ここがどこかもわからないし、お父さんもお母さんも……」


 緊張や恐怖のせいか、口から出る言葉はわけのわからないものだった。知らない人に名前を教えちゃダメってお母さんは言ってたけど、そんなこと頭にない。

 でも一度口にすればどんどんあふれ出てきて、それに伴って感情も湧き上がってくる。ただひたすらに口を動かしながら、でも涙も流し続けて。

 失敗したと思った。これじゃあ意味が分からない。この男の子にも見捨てられるかもしれない。


 そう一度考えれば、それが頭の中を埋め尽くして。ついには何も話さなくなって、ただただ涙を流す。

 だめ。何か言わないと、本当に見捨てられちゃう。

 でも口から漏れるのは嗚咽だけ。泣き止め。涙止まれと、いくら唱えても叶うことはなくて。


 その時、ポンと頭に何かが乗った感触がした。


「え……?」


 ポツリとこぼしながら、彼をもう一度見る。わたしの視界は涙でひどくぼやけていて、はっきりとは見えない。でも頭に乗ったなにかは動いてクシャクシャとわたしを撫でる。それをしているのが目の前の人だと、少しして気がついた。


「そうか」


 初めて男の子が声を出した。同い年の子とは違う、低い大人の声。でもわたしと同じように掠れていて。そんな声でもわたしには何よりも心地よく感じて、胸が熱くなる。

 また彼はわたしを撫でて、そして穏やかに言った。


「辛かったな。頑張ったな」

「――っっ!!」


 もう限界だった。その声がかかった瞬間わたしは彼の胸の中に飛び込んだ。勢いがついすぎたのか、彼から呻くような声が漏れる。でもわたしはそんなことお構いなしに彼の背中に手を回して、額をそのたくましい胸板に擦り付けて。


「うわぁぁああああ!!!」


 そして、泣く。叫ぶように泣いた。

 今までも泣いてきた。でもその時はそれまでとは違う、胸のうちの感情を全て吐き出すかのような、そんな泣き方だった。

 狭い裏路地にわたしの鳴き声が反響して、すごくうるさかった。それはあたりの叫び声すらかき消すくらいに。でも彼は何も言わず、わたしの頭を撫で続けてくれた。

 暖かいなと、そう思った。自分が溶けてしまいそうな、そんな暖かさ。人の温度をずっと感じていなかったように思ってしまう。

 そのつかの間の幸せに浸るように、わたしはずっと泣き続けていた。




 わたしが泣き止んだのはかなり時間が経ってからだった。

 熱い鼻をすすりながら彼から離れる。彼の服はひどい状態だった。わたしの鼻水や涙でぐしゃぐしゃで。


「うぁ……ご、ごめんなさい……」

「ん。気にするな」


 彼はまた微笑んでわたしの頭を撫でてくれる。するとふわぁと気持ちが楽になって、また彼にもたれかかった。額を擦り付けるようにスリスリすれば、頭の上で微笑むような息遣い。そしてまた頭を撫でてくれた。わたしはそれが気持ちよくて、浸るように目を閉じる。


 ふとそこで、彼の名前を知らないことに気がついた。

 自分の名前はもう言ってしまった。ほとんど混乱して自分から暴露したようなものだったけど。

 でもこんなに優しい人の名前を知りたかった。


「あの……」

「ん?」


 頭を離して、彼を見上げる。彼はわたしを見下ろして、じっとわたしの言葉を待っていた。

 でもわたしは言葉に詰まる。教えてくれなかったら、どうしよう、なんて。そう考えてしまって。

 でもきっと大丈夫。この人は優しいから、きっと教えてくれると、そう自分に言い聞かせた。

 コクリと唾を飲み込んで、そしてたずねる。


「あの、名前……なんて言うんですか……?」

「…………」


 彼はわたしをじっと見つめていた。探るような視線に、今の質問をなかったことにしたくなる。でもわたしは我慢した。なんとなくそんなことしちゃダメな気がしたし、それにわたしも彼の名前を知りたかった。

 わたしもじっと彼を見つめる。あたりの人の叫び声も、どこか遠くで鳴っているような気がする。


 すると彼はフッと笑った。


「俺は――」


 わたしはそれをやっぱりじっと見つめる。一言一句聞き逃さないようにと、詰め寄るかのような勢いで。


「――明人。吾嶋明人だ」


 彼は――お兄ちゃんは、笑いながらそう言った。




 大変異が起こってから一週間たった。わたしがお父さんとお母さんを殺してから、一週間たった。わたしがお兄ちゃんと出会って、ちょうど一週間がたった。


 その頃になると世間も落ち着き始めていた。でも状況は何も変わってない。相変わらずおかしな牙を生やした人はそこらじゅうを歩き回っているし、逆に普通の人は滅多に見かけなくなった。襲われる人がいなければ誰かが襲われることはなくて。世界はすごく静かになっていた。


「他の人に会いに行こうと思う」


 そうお兄ちゃんが言い出したのは、そんなころだった。


「会いに行くって、どこにいるかわかるの?」

「ああ、いくつかは見つけた」


 お兄ちゃんが言うには、普通の人たちはみんな隠れているらしい。スーパーやコンビニみたいな食べ物がいっぱいあるところに、数人の集団で。多いところは一〇人、少ないと二人とか。とにかくその人たちはそこにある食料をすこしずつ食べながら、おかしくなった人たちから隠れているらしかった。


 わたしたちはと言えば、普通に誰かの家にいた。どこにでもあるような一軒家。お風呂も食事も、そこの家のものを使っている。初めて来たときはひどい状態で、泥棒に荒らされた後みたいだった。泥棒はダメなんじゃとお兄ちゃんに言ったけど、ここならいいらしい。その時のお兄ちゃんの悲しそうな顔が印象的だった。


「その人たちに会いに行くの?」

「ああ」

「私はいいと思うけどその……だいじょうぶ、なのかな……」

「何がだ?」

「だってほら、わたし達は……」


 そこから先は言えなかった。いや、ちがう。言いたくなかった。未だにわたしは受け入れられてなかった。


「……確かにそうだな。俺たちはあのおかしな奴らと同じだ。あいつらと同じように、牙がある」

「…………」


 何かに耐えるように、口を噤む。すこし舌を動かせば、その先に牙の感触がした。

 そう、牙だ。普通の人にはなくて、おかしくなった人たちにはある、吸血鬼のような牙。これがあると自分はあの人たちと同じように思えてきて、そのたびに苦しくなる。

 そんなわたしたちが受け入れられるだろうか。どうしてもそう思ってしまう。


「でもやってみるしかないだろ。ずっとこのままでいるわけにはいかない」

「それもそうだけど……」

「大丈夫だ。俺たちに敵意はないと、向こうにわかってもらえれば何とかなる」


 そう言ってお兄ちゃんは小さく笑いながら私の頭をなでる。不安はあってもそれだけでそれは溶けだしてしまうようで。気が付けばわたしはうなずいていた。お兄ちゃんがそう言っているから、実際にもそうなると思ってしまう。




 でも、現実はそんなことなくて。


 わたし達を一目見れば皆わたし達を拒絶した。

 牙を見れば石を投げ、暴言を吐いて。わたし達は血を流しながら逃げかえった。

 今度は口を隠して近づいてみた。すると彼らはわたし達を受け入れてくれた。でもそれは嘘で。わたし達が眠りにつけが牙を確認して。そしてまた拒絶する。


 何度も何度もそれを繰り返した。

 何度も何度も逃げ帰り、そしてなんで、なんでと涙した。そのたびにお兄ちゃんは大丈夫、大丈夫となでながら繰り返す。

 石を投げられるなんて当たり前。暴言なんて息をするようなもの。受け入れるように見せかけてわたし達を殺そうとした人たちもいた。

 血を毎日流した。石が当たって。突き飛ばされてすりむいて。寝ているところを串刺しになったこともあった。そのたびになぜか傷は消えてしまって、自分はもう人間ではないと実感する。


 そしてやっぱりお兄ちゃんはわたしを慰めてくれる。


 お兄ちゃんはすごい。わたしが正常でいられるのは、お兄ちゃんがいるから。お兄ちゃんが慰めてくれるから。悲しい時、頭をなでてくれるから。

 でもお兄ちゃんは? お兄ちゃんにはわたしにとってのお兄ちゃんのような人はいない。でもお兄ちゃんはおかしくなってない。それどころか、わたしを気にかけてくれる。


 いつの間にかわたしにとってお兄ちゃんは大事な人になっていた。それこそ、お父さんやお母さんを越すくらいに。お兄ちゃんが大好きで、そんな強いお兄ちゃんが誇らしくて。ついついお兄ちゃんに甘えてしまっていた。


 でも結局、お兄ちゃんも普通の人だった。

 お兄ちゃんの限界を超えたのは、突然だった。



「お兄ちゃん!!」


 わたしはそう叫んだ。

 そこはいつものように訪れた、人が隠れているコンビニの一つ。そこには男の人が三人と女の人が三人いて、口を隠した私を受け入れてくれた集団だった。そして少しお兄ちゃんから離れたその時、叫び声がしたんだ。


 飛び込んだその場所は、一言でいえば『赤』だった。見渡す限りの赤。床も壁も天井も、もう数少ない商品棚もそこに一人佇んだお兄ちゃんさえも。その腰からは見覚えのある何かが飛び出していた。背骨に似ている、尻尾のようなものが三本。私と少し形は違ったけど、たしかにわたしが前に使ったものだった。それだけじゃない。白い何かがお兄ちゃんの両手両足を覆っていて、頭には角まで生えている。片目は変色して、言ってしまえば、バケモノのようだった。

 そして視線を下げれば六つの死体。地面に真っ赤な泉を作りながら、それ自体は動きそうな気配もない。

確認しなくてもわかる。殺した(これをやった)のはお兄ちゃんだ。


「お兄、ちゃん……?」

「……ああ、莉乃か」


 声をかければ、こっちは向かないけど返事はしてくれる。でもなんだか弱弱しくて、大変異の時のお兄ちゃんを思い出す。赤く染まった背中がやけに小さく感じた。


「お兄ちゃんがやったの……?」

「ああ……だってこいつら、言ったんだ」

「言った?」


 そして、お兄ちゃんは振り返った。


「――っっ!!」


 わたしはつい泣きそうになった。

 同じだ。あの時のお兄ちゃんと同じだ。大変異の時、絶望していたお兄ちゃんと一緒だ。

 今にも死んでしまいそうな、真黒な感情を顔に張り付けて。今にも崩れ落ちてしまいそうなのに、何とか立って居られているような、そんな感じ。


「あいつら、俺に、俺たちに居場所はないって……! 死んじまえばいいって……!」

「お兄ちゃん……」


 そこにいつもの強いお兄ちゃんはいなかった。ただただ感情に身を任せてかんしゃくを起こす、それこそ子供のようで。

 そこではじめて私は気づいた。お兄ちゃんは強くなんてない。わたしと同じように、突然おかしくなった普通の人だった。お兄ちゃんに無理をさせていたのは、わたしだった。


「だから……!! だから俺は……!」

「お兄ちゃん!!」


 もう見ていられなかった。わたしはお兄ちゃんに駆け寄ってお兄ちゃんの頭を抱きしめた。実際お兄ちゃんの足に力はなくて、簡単にお兄ちゃんは私と同じくらいまでにかがませることはできた。そしてお兄ちゃんの頭をなでる。いつもお兄ちゃんがわたしにしてくれているみたいに。抱きしめて気が付いた。お兄ちゃんは震えていた。何に対してかはわからない。でもそれは私の心をすごく締め付けた。


「もういいよ……もうやめよう?」

「莉乃……?」

「もう誰かに会いに行かなくていいよ……ずっと二人でいよう?」


 もう傷つくお兄ちゃんを見ていたくなかった。もう私のせいで傷ついてほしくなかった。

 だからかもしれない。そんな言葉が自然と口からこぼれていた。

 ホゥとお兄ちゃんが息を漏らす。


「……ああ、そうだな」


 お兄ちゃんは穏やかな声で、そう言った。ついわたしも笑ってしまう。心中はそんなに穏やかじゃないけど。


 だれだろう。お兄ちゃんをここまで傷つけたのは。わたし? もちろんそれもある。わたしがお兄ちゃんに甘えすぎたから。お兄ちゃんは強いって、頼りすぎたから。

 でもそれ以上に。それ以上に、人間が悪い。あいつらが拒絶し続けたからお兄ちゃんはこんなに傷ついた。


 わたしは許さない。

 お兄ちゃんを傷つけた人間を絶対に許さない。


 そうわたしは、その時決意した。





 それからは私の提案通りお兄ちゃんは誰にも会いに行こうとはしなかった。

 棲む場所も変えた。郊外から、鬼が多く人もいない都市部へと。なるべくおかしな人たち――鬼との接触も避けて。

 そしていつのまにか七〇年がたった。

 楽しくはなかった。でも苦しくもなかった。娯楽も少なくて、やることもなくて、基本退屈だったけど。

 でも。それでもわたしは十分幸せだった。お兄ちゃんと一緒にいられるだけで十分だった。



 ある日の夜。わたしは人の領域に来ていた。普段なら絶対来ない。ならなんで今回来たかというと、その理由はお兄ちゃんだった。

 わたし達は血を飲まないと生きていけない。それさえできれば不老不死だけど、それができないとすぐに死んでしまう。普通の鬼は、わたしも含め、鬼同士で血を飲みあう。鬼域には人間がいないし、しかたないことだけどどうやらお兄ちゃんは嫌なようで。今日みたいに、時折こっそり人の領域に来ては血を飲んで帰っていく。

 いつもならわたしもついていくことはない。今回は本当にたまたま。単なる気まぐれ。こっそりついていって驚かしちゃおうなんて、なんとなく思っただけ。


 そのこともあって、わたしはお兄ちゃんの後ろをつけていた。こっそり、音を立てないで。鬼の五感は強力だからすぐに気づかれるかもしれない。だから音をたてないように細心の注意を払って。


 お兄ちゃんは娼婦の血を飲んだ後、歩き出した。わたしもそれに続く。その死体の横を通り過ぎて、お兄ちゃんについていった。


 驚かすなら、ここから出たところにしよう。人が近くにいたら、めんどくさいことになるかもしれないし。

 そんなことを考えながら、ただただお兄ちゃんのあとを追う。どんな顔をするだろうか。そのことを考えるだけで楽しくなって、クスクスとかみしめるように笑った。



 でもわたしはすぐに、ついてこなければよかったと後悔した。



「なんで……」


 意識しないで零れた声は自分でもわかるほどに弱弱しい。細かく震えて、少し風が吹けばかき消えてしまいそうな、そんな声だった。

 お兄ちゃんはあのあと、一つの廃ビルへとが言っていった。そして――


「なんで……なんで人間を助けるの……!」


 そう、お兄ちゃんは人間を助けた。わたし達を傷つけた存在の命を救ってしまった。

 裏切られたような気分だった。頭を殴られたかのような衝撃で、それがまだ頭の中で反響しているようで。うまく物事を考えられない。ただただ燃え上がるような怒りだけを感じられた。


 気が付けば、わたしは鬼域のわたしとお兄ちゃんの家にいた。扉に背を向けて座り込み、少し先の床を見つめて。そのまま動かず、何かを待ち続ける。


 ヒュウヒュウと吹く風がいつもより冷たく感じる。少しも動かず、その成果感覚だけが鋭くなっているような気がした。


「――!」


 とそこで、背後に筒を踏むような音。


「お兄ちゃんが……帰ってきた」


 確かめる必要もない。不思議とそう確信できた。

 その音はだんだん大きくなり。そしてついに鳴りやむ。


「……ん。莉乃、起きてたのか」


 代わりにお兄ちゃんの声がした。

 いつも聞いているお兄ちゃんの声。いつもなら聞くだけで穏やかな、幸せになれるお兄ちゃんの声。

 でも今だけは、それが引き金となって怒りが沸き上がってくる。


「もう遅いし、早く寝――がはっ!!」


 気が付けば、わたしはお兄ちゃんを襲っていた。

 白羅を出して、お兄ちゃんを壁にたたきつける。ドガン! と大きな音が鳴り、壁が陥没した。お兄ちゃんは顔を苦痛に歪めて、でもわたしは全く気にすることもない。


「り、莉乃……なにが――」

「ねえ、どうして?」

「は?」


 さらにお兄ちゃんを強く壁に押し付ける。また一つ壁に亀裂が走り、「ぐっ」とお兄ちゃんは声を漏らした。


「ねえ、なんで? なんでなの?」

「なんでなんでって……はっきり言わないとわかんないだろうが!」

「――っ」


 お兄ちゃんはわたしを突き飛ばし、わたしから距離をとる。それは普通の正当防衛。でもわたしはなんだか自分が拒絶されたように感じて、さらに怒りを燃えさせた。


「なんで、なんで人間を助けたの!」

「っっ!?」

「人間は敵じゃん。人間は、悪じゃん!!」


 わたしはそう叫びながらお兄ちゃんに攻撃した。白羅の尾を出してお兄ちゃんに突き出し、お兄ちゃんも白羅を出してそれをはじく。


「莉乃っ。待て、俺は――」

「うるさいうるさい!!」


 お兄ちゃんの声を遮って攻撃する。お兄ちゃんは表情を歪めながらそれを躱した。


「落ち着け! 俺の話を――」

「うるさい! お兄ちゃんなんて知らない!!!」


 わたしはお兄ちゃんの話を聞こうとしなかった。だってその口から拒絶の言葉が出てくるかもしれないから。わたしを否定する言葉が出てくるかもしれないから。わたしはそれが怖くて、必死でお兄ちゃんの声を聴かないようにしながら我武者羅に攻撃する。

 わたしは幼鬼でお兄ちゃんは普通の鬼だ。その性能(スペック)には絶対的な差がある。お兄ちゃんは必死に攻撃を避けていたけど、どうしても避けきれないものも出てきて。自然とお兄ちゃんはたくさんの傷を負っていく。

 わたしはそれに気づくことはない。自分のことで精いっぱいだから。わたしが否定されるのを防ぐために、お兄ちゃんを否定していたから。


 そしてわたしは、ついにその言葉を口にしてしまう。


「おい莉乃――」

「やめて! お兄ちゃん! お願いだから出てってよ!!!」

「――――ッッ!!!!」



 そのお兄ちゃんの表情はずっと頭の中に残ってる。

 大変異の時、そしてお兄ちゃんが限界を迎えた時に浮かべたような表情。大きく目を見開いて、この世のすべてに絶望したかのような表情。

 だがそれは一瞬のことで。次の瞬間にはお兄ちゃんは私を睨みつけていた。


「…………」

「――っ」


 その時初めてお兄ちゃんは攻撃してきた。今まではお兄ちゃんは私の攻撃を防ぐだけだった。自身がどれだけ傷を負っても、わたしを攻撃することはなかった。

 そんなお兄ちゃんが私を攻撃した。

 その事実は思ったよりもわたしにダメージを与えたようで。一瞬私の動きが止まる。お兄ちゃんがその隙を逃すはずもなく。次の瞬間にはもう、お兄ちゃんはわたしの目の前から姿を消していた。


「…………」


 何も言葉は出なかった。はあはあと荒い息遣いだけが冷たい空気に溶け込んで。わたしはそのまま、膝から崩れ落ちた。お兄ちゃんの出て行った出口。そこをじっと見つめる。でもいくら待ってもお兄ちゃんが帰ってくることはなかった。

 その時初めて、わたしは取り返しのつかないことをしたと実感した。

 お兄ちゃんがいなくなった。わたしが追い出した。わたしが拒絶した。


 そう考えただけで怒りとはまた別の感情が沸き上がってきて。それは心の器から簡単に漏れ出して。そしてそれは、両目から、そして口からあふれ出した。


「あぁぁぁぁあああああぁぁあああ!!!!!!!!」


 ひとり、暗い部屋で咆哮する。両目からしずくを何度も流して、ただ叫ぶ。


 泣いた。泣いて、泣いて。そして泣いて、泣き終わったら、また泣いた。

 下手したらあの日お父さんとお母さんを殺した時よりも泣いてるんじゃないかと思うくらい。

 朝が来て太陽が真上を通り過ぎ、そして沈んで。それが三〇回あっても、まだ泣いていた。


 鬼だから疲れることはない。涙が枯れれば、鬼の体は瞬時に作りだす。叫びすぎて喉が焼けるように痛くなっても、すぐに治った。

 泣きやむには悲しみが収まるしかない。でもそんなこと起こるはずもなく。ずっとずっと、わたしは泣き続けた。


 いくら泣いてもお兄ちゃんが戻ってくることはなかった。

 いくら求めてもお兄ちゃんが帰ってくることはなかった。

 いくら願ってもお兄ちゃんが私の頭をなでてくれることはなかった。


 なんでこうなっちゃったんだろう。なんども考えた。

 どうすればよかったんだろう。なんども悩んだ。


 でも考えれば考えるほどお兄ちゃんのことを考えてしまって。


「お兄ちゃん……会いたいよ……」


 時折零した、そのつぶやきに応えてくれる人はいなかった。







 そして、今。


 今までいろんなことをした。

 お兄ちゃんが人のところにいると知っては、そいつら全員殺せば帰ってきてくれると信じて、鬼を送ったりした。結局対鬼組織ができて、なぜかそこでお兄ちゃんは人間と一緒に戦っていたけど。


 でも今、あの時から初めてお兄ちゃんが鬼域に戻ってきたのだ。一人邪魔なやつがいるけど。遠くからじっと見ていたら、その女の子にばれそうになった。


 わかってる。お兄ちゃんは私に会いに来たわけじゃない。でもこのチャンスを無駄にしたくなかった。


 わたしは急いで、かつてお兄ちゃんとわたしで過ごしていた場所へと戻った。

 お兄ちゃんの目的はここじゃない。でもきっと戻ってくる。なぜかそう確信していた。


 大人の男と女の鬼を一人ずつ連れて。服は自分で破いてボロボロに。もう一人の女の子に怪しまれないように牙も折った。

 そして焚火を灯して、じっと待つ。

 きっと来てくれるはず。そう信じて。


 そしてついに、背後で足音がした。お兄ちゃんを追い出してしまった時と似ている。でもあの時とは違うんだ。

 背後で扉が開く音。五年ぶりのお兄ちゃんの声に泣きそうになる。

 それからお兄ちゃんが鬼を殺して。女の子がわたしのもとに来た。そして口を見せてと言われ、言うとおりにする。それだけでその子はわたしが人間と信じてくれた。そしてついに、お兄ちゃんの元へと。


 お兄ちゃんは向こう側で待っていた。五年ぶりだけど、何も変わってない。鼻がツンとして、眼の奥が熱くなる。でもダメ。ここで泣いちゃダメ。そう言い聞かせて下唇をかんだ。


 だいじょうぶ、だいじょうぶ。今度は失敗しない。

 お兄ちゃんと話して戻ってきてもらうんだ。

 それでまた二人で過ごすんだ。


 それで、それで。

 やりたいことはいっぱいある。言いたいこともたくさんある。


 でも。でも。

 やっぱりまずは。

 戻ってきてくれたらまずは。



 ――ごめんねって、謝るんだ。




 そんな決意を胸に。

 精一杯の笑みをわたしは浮かべた。

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