エピローグ「喰鬼奴隷の鬼」
エピローグ「喰鬼奴隷の鬼」
顔に何か粉のようなものが落ちてくる感触。その何かが目頭に入りそうになって、朦朧とした意識の中眉をしかめながらそれを払いおとす。
なんだろうか。やけに体が重い。身体中に鉛の重りをつけられているような、そんな感覚。それだけじゃない。なんだかいつもより気分も怠くて、縫い付けられたような瞼を開くことすら億劫だった。少し湿気を含んだ、冷たい空気が煩わしくて身をよじる。
ふわふわと宙に浮かんでいるような。雲をつかもうとして空回りしているような思考の中、考えた。
「んー……?」
なぜこんなに怠いのか。今寝ていたようだけど、それ以前俺は何をしていたのか。
真っ白な意識に手を伸ばし、考え、思い出す。思考を覆う白い靄が晴れ始め、姿を現したのは地獄と莉乃、そして――琴奈。
「――――ッッッ!!!???」
飛び上がるように体を起こした。地面ギシリと軋み、俺にかけてあったらしい相変わらず毛羽立ったお粗末な毛布がずり落ちる。重い瞼を無理やり開け、青い夜の闇が飛び込んできた。
そうだ。俺は地獄にいたはずだ。一度は逃げて、でも戻って。琴奈を間一髪で助けて、そのあと莉乃と戦って。それから俺は――
「黒化は!?」
俺は飛び起きて洗面台へと向かう。
視界の隅に映る見慣れた、数少ない家具たち。隙間風が好き放題に入り込む、トタン板を組み合わせただけの壁。ボロボロのコンクリートの天井に、そこからぶら下がる裸の電球。
その時初めてここが喰鬼奴隷にある自分の部屋だと気づいたが、正直それどころではなかった。
バタバタと足をもつれさせながら、慌ただしく洗面台へと到着する。だが今は夜だ。灯りもつけていない今鏡に映った自分が見えるわけもなく、また慌ただしく電気をつけては飛びつくように鏡を凝視した。
「……消え、てる……」
その言葉を確かめるように、俺はそう呟いた。
少しひび割れた鏡のせいで歪んではいるが、そこにあったのは確かにいつもの俺だった。
黒目黒髪で、目はどちらも変色していない。傷跡もなく、黒化なんてもってのほか。ただ口から覗く二本の牙だけが、光を反射して存在感を増していた。
まじまじと別人を見るように凝視する。自分の呼吸がやけに耳に触った。
どういうことだ。俺は確かに、黒化したはずなんだ。
現実か、それとも夢か。ここがどこなのかわからなくなり、呼吸も自然と荒くなる。
「まさか……夢、なのか……?」
掠れた声で口にした。
まさかそんなことあるわけがない。あれほどのことが夢であるはずがない。夢であってはいけない。夢であって欲しくない。
もちろんあれが夢なら喰鬼奴隷の皆は怪我を負うことなく、鬼の大群が攻めてくることもない。だが俺が鬼とバレて気が楽になったのもまた事実で。最低だと思いながらも、あれが夢でないことを願ってしまう。
恐る恐る、右腕をあげる。その自分の顔に触れ、これが現実だと認識したかったのだ。しかしそれは叶わなかった。
――そこに、右腕はなかった。
「…….ほら、夢じゃない」
なんだかバカらしくなって、苦笑いを浮かべながらそう言った。
自分は自分が思った以上に混乱していたらしい。周りのことが、自分自身のことですら見えなくなっていたらしい。
まさか自分の体のことさえわかっていないとは思わなかった。
改めて自分のことを見てみる。
いつものコートは脱いでいた。その下のシャツは裂け目がいくつもあり、そこから覗く地肌は傷ひとつない。しかし赤黒い少し硬い染みはそこにある。
何度見ても右腕はなかった。俺の記憶では二の腕あたりで切り落とされたはずだが、今はもう相変わらずグジュグジュと音を立てながら、肘あたりまで再生は終わっていた。
「ということは……一日か」
経験から自分の治癒スピードを見ればどれだけ時間が経ったか、ある程度はわかる。
おそらく半日から一日くらい。だが今は夜だ。それならあの夜からちょうど一日経ったと予想できる。
ふらふらとおぼつかない足取りのまま、またベッドへと戻った。倒れこむように腰を下ろせば、いつも通り軋んだ音を鳴らす。そしてひとつ、大きなため息をついた。
「ああもう、わけがわからない……」
これは、今いる場所は夢ではない。あの夜だって夢ではない。
それはわかった。だが相変わらずわからないことは残っている。
右腕が回復しているが、その分の血はどこから? 黒化しかけていた俺を、誰が助けた? あの大量の鬼は? なぜ俺はここに? 喰鬼奴隷はどうなった? 莉乃はどうなった? ――琴奈はどうなったんだ?
頭の中を幾多の疑問が駆け巡り。激しい貧乏ゆすりをしているのに気がついて、もう一度息を吐く。
「……とりあえず、出るか」
鉛のように重い体を、膝に手をついて持ち上げた。そしてやはり千鳥足のようにドアに向かった。
どうせここにいたって何もわからない。誰も教えてくれない。ならもう、ここから出るしかない。
ドアノブに手をかける。そのドアノブもドアもやけに重い気がした。しかしそのまま押しあける。
口を隠す布はつけなかった。
◇
やはり予想した通り、今は夜らしい。光を忘れてしまいそうな闇の中、ポツポツと申し訳程度に点在する街灯が砂利道を照らしていた。空気の流れる音すら聞こえてしまいそうな静寂。一歩外に出れば、薄着の体を撫でる冷たい風に体を震えさせた。
とりあえず誰かに会いたい。会って、今どうなっているのか聞きたい。
この場所で人に会うなら、ホールに行くのが一番だ。正直あんなことがあって誰かいるかも怪しいが、それ以外に当てもない。
会ってどんな反応をされるのか。不安じゃないといえば嘘になるが、それ以上に今のおかしな状況をどうにかしたかった。
一つ息を吐き、もう一歩踏み出す。そして後ろ手でドアを閉めた時。
「よう」
「っ!?」
不意に隣から声がかかった。
軽く距離を取りつつそいつに視線を向ける。
そいつは腕組みをしたまま、俺の家の壁にもたれかかっていた。ちょうど開けたドアに隠れて、俺からは見えなかったらしい。
筋骨隆々とした体に、ライオンのような金髪。身体中に散見される痛々しい傷跡。
それは俺の知っている人物だ。だがここにいることが何とも不思議で、ついつい疑うような視線を向けてしまう。だがいくら見ようとも、そいつ以外に考えられなくて。結局俺は、しかし恐る恐る呟いた。
「……祥吾」
そこにいたのは他でもない、喰鬼奴隷の轟祥吾だった。
俺に名を呼ばれた彼はそれに答えるようにニカッと笑みを浮かべ、もたれかかった体を起こす。不安定なトタン板の壁が、ギシリと音を立てた。
「おいおい、何だその顔。まさか俺の顔忘れてねえだろうな」
「……いや、そんなことは。お前、ずっといたのか?」
「まさか。言われて今来たんだが、すげえな、ドンピシャだ」
「はぁ……」
何がドンピシャなのか。誰に言われて来たのか。聞きたいことは色々あったが、正直そこまで気力がなかった。自分でも驚くほど参っているようだ。なんせ、もうバレているとはいえ、祥吾の前で鬼の牙を隠そうとしようともしないんだから。
祥吾は何が面白いのか、手を腰に当て、大きく笑っていた。
本当に何が面白いんだか。つい観察するように祥吾に視線を向け、そして気がついた。
「祥吾、お前……腕が……」
「ん、ああ……これか」
祥吾の笑みがピタリと消え、そして苦笑いを浮かべながら左手を上げてみせた。だがそこにあるはずの腕はない。あるのは包帯が巻かれた、痛々しい傷跡だけだった。
「いや、この前しくっちまってよ。そのおかげでこのザマだ」
ハハと、先ほどより明らかに力のこもっていない声で彼は笑う。そして俺に見せつけるかのように、その腕を揺らした。彼らしくない憂のある笑みは俺の心を締め付ける。俺はつられるように顔をしかめ、俯いた。
「……すまん」
そして、頭を下げる。
言ってしまえば、今回の襲撃は俺のせいなのだ。もともとそうするつもりだったと莉乃は言っていたが、十分に防げることだった。そして襲撃しても構わないと言ったのは、他でもない俺だ。
だから、謝罪する。全ては俺のせいだと、偽ることなく。
少しして頭をあげると、珍しく真面目な目つきをした祥吾が目に入った。彼は一つ深呼吸をし、そして口を開く。
「……ま、俺には何がどうなってたのか知らん。お前は何も悪くない、なんてバカみたいなことは言わねえよ。お前が、自分が全て悪いっていうんなら、お前が全部悪いんだろうな」
「……っ」
ビクリと肩が小さく跳ねた。ああ情けない。覚悟を決めた風をしておいて、結局怖いのか。それを吐き出すように何度目かわからない息を吐く。そしてまた俯いた。
「すま――」
「だけどよ」
しかし、俺の声を遮って祥吾は口を開いた。それが意外で、つい頭をあげる。
「そんなこと一切俺には関係ねえんだよ。俺はいつも通り襲撃してきた鬼と戦って、傷を負った。それは全て俺の責任だ。人のせいにしたくねえ。人のせいにするわけねえ。人のせいにしてたまるか。この責任は全部俺のものだ。 ――誰にだって渡さねえよ」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことを言うのだろう。間抜けにも口をぽかんと開けたまま、マジマジと祥吾を見た。俺の視線を受けても彼は何も変わらない。
「ハッ」
吐き出すような笑みが漏れる。
なんなんだこいつはと、改めて思った。だがそれは不思議といつものように負の感情は孕んでいない。むしろおかしくて、嬉しくなってしまう。
自分が怪我をした責任を誰にも渡さないなんてバカみたいなこと、こいつは当たり前のように言うのだ。しかも自慢げな笑みを浮かべながら。
祥吾は俺が笑ったのが嬉しいのか、また笑みを深めた。
「ハッ……ハハッ……すごいな、祥吾は」
「ああ、そうだろ。すごいんだよ、俺は。なぜなら強いからな」
「ああ、そうだな。本当に……本当に、強いよお前は」
祥吾は少し驚いたのか目を見開き、マジマジと俺を見つめた。そして「おいおい、どうしたんだ?」なんて、楽しそうに尋ねてくる。
こいつは今のを俺の冗談と思ってるのだろうか。確かに俺は鬼だから人の祥吾よりも実力はある。だがそう言うことじゃないのだ。俺が言っているのは、そういうことじゃないのだ。
「……俺は、きっと一生お前に敵わないんだろうな」
「なーに言ってんだよ。この前俺のことボコっただろうが」
「そういうことじゃない」
「…………ま、なんでもいいけどよ」
祥吾は間違いなく俺より強い。いつだって誰かに、存在するかもわからない何かに責任を押し付けてきた俺とは、全く違う。
だがその差を見せつけられても嫌な気分じゃなかった。
彼の豪快さがそうさせているのだろうか。確かなことは言えないが、思わず笑みを浮かべてしまうくらいには俺は上機嫌で。
気がつけば、胸に巣食っていた靄も薄れてきていた。
そこでふと祥吾は「そんなことよりよ」と言って俺に背を向け歩き出す。
もう去るつもりなのかと、俺はその大きな背中を見つめていた。だが祥吾は足を止めて顔だけ振り返り、呆れたように息を吐く。
「明人、なにしてんだ? 行くぞ」
「行く? どこに? 俺もか?」
「はあ?」
祥吾は今度こそ体こと振り返り、大きく息を吸って大げさに息を吐く。バカにするような視線に、さらにわけがわからなくなる。
今の俺の目標は現状把握だ。行くべき場所はない。なんなら目の前の祥吾に全てを聞けばいいだけだ。
「行く場所って言ったら、決まってるだろうが」
「……全く心当たりがないんだが」
「お前、腕と一緒に記憶までなくしたのか? はぁ……まあいいか。ほら、行くぞ」
そう言い捨てて、もう一度彼は俺に背を向けた。そして歩き出す。俺は慌ててその背を追った。
「おい、待てって。どこ行くんだよ」
「はぁ……作戦の後になにをするか。そんなこと今更言わないとダメか?」
祥吾は顔だけこちらに向けた。そして一番の笑みを浮かべ、こう言うのだ。
「――宴だよ」
◇
空気に質量を与えるようなビールの香り。この場所だけ気温が高く感じるような熱気。意識を外そうがお構いなしに耳に飛び込んでくる、下品な笑い声。
変わらない。何も変わらない。
ホールに入って飛び込んできたのは、いつもと何も変わらない宴の景色だった。
普段との違いといえば、各々の様子だろうか。 普段の戦闘であまり怪我をしない喰鬼奴隷の奴らが、揃いも揃って目を背けたくなるような傷を負っている。包帯に巻かれた者。松葉杖を持っている者。眼帯をしている者。俺や祥吾のように四肢を失った者。それぞれが白い包帯に血を滲ませて、それでも飲み、食い、笑う。いつも通りに騒ぐ。
その光景はいっそのこと狂気すら感じるほどのものだった。
思わず俺はホールに一歩入って、そこで足を止めてしまう。
なんだこれは。確かにあの襲撃があったのは昨夜のはずだ。それなのに、これだけの怪我を負っておきながら、それでも宴をするなんて、どうかしてる。
そこまで考えて、しかし俺は頭を横に振った。よくよく考えてみればこいつらはこういうやつらだ。どうかしてるが、おかしいというわけじゃない。
「帰ってきたぜー!」なんていいながら喰鬼奴隷の集団へと戻って行く祥吾の背中を眺めながら、辺りを見渡した。
ひどい怪我ばかりだ。これが自分のせいだと思うと心臓を刺されたような気持ちになるが、それはとりあえず置いておこう。
一人、二人と確認していく。あいつはいる、あいつもいる、あいつも怪我はひどいが生きている。そんな具合に。一人入り口で佇んだまま、メンバーの数を数えていく。確かめるように、何度も。
しかし何度やっても一人足りなかった。
どれだけやっても見当たらないのだ。ライトブラウンの髪が。幼さの残る顔立ちのあいつが。俺をいつも追いかけてくれた、あいつが。
まさか――死んだ?
嫌な予感が頭をよぎる。鼓動が早くなり、呼吸も荒くなる。今すぐ崩れ落ちてしまいそうなほど膝が笑い。そして俺はその名をポソリとこぼした。
「――琴奈……?」
「はい、どうかしましたか?」
「――ッッッ!?!?」
突然背後で響く、鈴を鳴らすような心地いい声。大きく肩を跳ねさせながら振り返ると、そこにいたのはいたずらの成功した子供のような笑みを浮かべた琴奈だった。
「さっきからキョロキョロしてどうしたんですか? ここにいない喰鬼奴隷のメンバーを探してるんですか? 誰一人欠けることなく、私たちはここにいるのに。変な明人さんですね」
「……っ。ハッ……それは、悪かったな。あまりにも、陰が薄いもんだから、っ、お前のこと、見逃してた」
「フフ、それは私にとって褒め言葉ですよ」
「わかってるさ。褒めてるんだ」
そう言えば、琴奈は「ありがとうございます」と微笑んだ。
彼女もいつも通りだった。絆創膏や包帯を巻いているが、その態度、その表情はいつもと何も変わらない。そんな彼女に、胸が熱くなる。声が震える。目の奥が焼けるようだ。こみ上げる想いを一度胸にため、吐き出すように嘆息する。
そして琴奈に笑いかけた。きちんと笑えているのか不安だったが、笑えていないのだろう。琴奈はおかしそうにクスクスと小さく笑みをこぼしていた。
「よかったよ。お前が生きてて」
「明人さんのおかげですよ。あの時助けに来てくれたから。明人さんこそ……無事で良かったです」
「無事、ではないけどな」
俺は苦笑いを浮かべながら右腕を見せつけるようにあげた。琴奈も「ああ……」とやはり困ったように苦笑する。
「なあ、琴奈。……俺を助けてくれたのは、お前なのか?」
俺は琴奈の首に視線を向けながらそう尋ねた。
そこには包帯が巻かれていた。少なくとも俺が彼女を助けた時にはそこに傷はなかった。もちろん俺が死んでから傷を負った可能性もあるが、どうしてもその可能性を捨てきれない。
俺が彼女の血を飲んだんじゃないか。
血に飢えた状態で琴奈が死なない程度に抑えられる気がしないが、どうしてもその可能性を捨てきれない。
「……いいえ、違います。私じゃないです」
琴奈からの返答を待ち構える俺に、彼女は首を横に振って応えた。俺はつい、安堵するように小さく息を吐く。
「じゃあ誰なんだ? 俺を助けたのは」
「それは――」
その時ふと、琴奈の背後に白い何かが移りこんだ。今のはなんだと、首をかしげる。琴奈はそれを見て、クスリと笑みをこぼし視線だけ背後に向ける。
「ほら、いつまでそうしてるつもりなんですか? いい加減出てきたらどうです?」
「うぅ……いや、だって……」
「だってもなにもないですよ。今無理だったらきっとこれからずっと無理ですよ」
「そうだけど……わかったよ……」
俺の視界には映らない何かと琴奈の会話。しかしその声にはどこか聞き覚えがあって。その記憶を手繰り寄せるよりも早く、その白い何かは琴奈の背から姿を現した。
「――――莉乃っ……!?」
俺はそいつを――莉乃を睨みつけた。軽く後ろに飛び、腰にある何かに手をかけようとして気づく。ああ、そう言えばこいつと戦って刀は無くなったんだった。かと言って今の俺の体がどういう状態かもわからないのに白羅を使うのも危険すぎる。結果、やはり俺は莉乃を睨みつけることしかできなかった。
無意識に口から飛び出たその言葉は思った以上に大きく、そして響いたようで。酒を飲み肉を食らっていた喰鬼奴隷のメンバーも動きを止め、視線をこちらに向けている。
一瞬の静寂。だがそれもつかの間のもので、まるで何もなかったかのようにあいつらはまた騒ぎ始めた。
あいつらの態度がチクリと脳裏を刺激する。が、どちらにせよそこまでの余裕はない。
「……莉乃、お前、なんで生きている。あの時俺は確かにお前の核を壊したはずだぞ」
「……っ。わたし、核は二つあるの。だから……」
「そう、か……」
口からこぼれた声は弱々しかった。体の力が抜けていく感覚。
なんだ、結局俺は負けていたのか。
確かにほとんどの鬼は核を一つしか持たない。俺だってそうだ。複数持っているのは、ほんの一握りだけ。まさか莉乃がそうなんて思わなかった。
言ってしまえばそれは運が悪かっただけ。だが負けていたという事実は、俺の心臓を締め付けてくる。
ふぅと、吐き出すように息を吐く。
負けたのはしょうがない。俺が弱かっただけ。
だがどうにも腑に落ちなくて、認められなくて、俺は莉乃に問いかける。
「お前、どうしてここにいる」
莉乃を睨みつけ、低く、唸るように。莉乃は体をビクリと震わせた。
いやそれよりもなぜ喰鬼奴隷の奴らが莉乃を普通に受け入れているのか。今の莉乃はここで猫をかぶっていたときのそれと似ている。だからみんな騙されているのか。
そう考えて、やはり違うと思い直す。
他のやつらはどうか知らないが、少なくとも莉乃の隣にいる彼女は莉乃と戦っていたのだ。莉乃の正体を知らないということはあり得ない。
それに今莉乃は口を隠していなかった。口から覗く小さな牙が、時折点滅する電球の光を反射する。
琴奈に視線を一瞬だけ向けるが、困ったような表情をして口を開けては閉ざすだけ。彼女に答えを期待することはできなさそうだった。
そこで答えを告げたのは、意外な男だった。
「なんでってひどいな、おい」
右側から声がかかる。そちらを向けば、そこにいたのは祥吾だった。向こうで相変わらず騒いでいる集団から抜けてきたらしい。しかしその手にはしっかりと酒が握られていて、彼はそれに口をつけ美味しそうに喉を鳴らす。
酔いからかやけに上機嫌な彼に反し、俺は睨みつけるように祥吾を見た。
「ひどいって、どういうことだ?」
「ひどいはそのまま、ひどいってことだ。お前を助けたのは、他でもない莉乃ちゃんだぜ?」
「莉乃が……?」
真偽を問うように俺は琴奈に目を向けた。しかし彼女はしっかりと頷く。次いで問い詰めるように莉乃に視線を送る。彼女はプイと顔をそらす。その幼い顔は、照れ臭そうに少し朱に染まっていた。
「つっても、結構急だったからよくわかんねえけどな、俺は。急に鬼どもがいなくなったかと思えば、ほぼ黒化したお前がいたんだから」
「莉乃さんが鬼域に返したんですよ」
「お、そうだったのか。で、なんだっけ。ああ、そうそう。それから琴奈に血を飲ませろって言ったんだよな」
「飲ませたのか!?」
琴奈がそれに応じたのは簡単に想像できた。俺でないとしたら、その首の傷はきっと莉乃がつけたもの。
頭が熱くなるのを感じた。荒々しい感情が心中を満たしていく。それをぶつけるように莉乃を睨みつけた。
「おい、どういうつもりだ、莉乃……!」
「まあまあ、落ち着けよ、明人」
「お前もだ、祥吾。どうして飲ませたんだ!」
ひどいものだと、自分でも思う。自分は意識を失っておいて、何もせずに彼らを責めるだなんて。
だが責めずにはいられない。たまたま抑えられたからいいとはいえ、基本鬼が血を飲めば理性が溶け、死ぬまで飲み続ける。もしかしたら琴奈が死んでいたかもしれない。そう考えると、居ても立っても居られないのだ。
だがそんな俺とは対照的に、祥吾は「んー」とやけに軽い調子で唸り、頬をかいていた。
「どうしてって言ってもなぁ……。あの時の莉乃ちゃん、すごかったからな」
「あはは……たしかに、すごい剣幕でしたからね」
「ちょっ……!」
「すごい剣幕?」
つい押し切られてしまうほどにすごい剣幕。もう一つあるとはいえ、核を破壊されたのだからそれほどまでに莉乃自体も危険だったのかと思い莉乃を見る。が、彼女は俺の予想と違い、顔を真っ赤に染めていた。どうにも俺の考えとは少し違うようで、つい祥吾の顔を見つめる。彼は楽しそうに笑っていた。
「俺たちに、琴奈に向かって言ったんだよ。『いいから血をちょうだいよ!! お兄ちゃんが黒化しちゃう!! 死んじゃう!! わたしはお兄ちゃんに死んでほしくないの!! 助けたいの!!』ってさ」
「…………」
声が出ないというのはまさにこのことだろう。間抜けみたいに口だけ開けて、そこから乾いた息が漏れ出す。祥吾も琴奈も俺を見て可笑しそうに笑うが、気にもならなかった。
「それで、私も了承したんです。そこまで言われたら、断るわけにもいかないじゃないですか」
「ま、俺もお前に死んで欲しいわけじゃないしな。事実、誰一人として止めなかったぜ?」
「…………莉乃、本当か……?」
「……っ!」
恐る恐る莉乃に視線を向けながら尋ねれば、彼女は肩を跳ねさせ体ごと俺からそらした。
確かに莉乃の行なったそれは、俺を助けるならベストの行動だ。
ほぼ黒化した俺を助けるには、幼い彼女の血しかない。だが莉乃も白羅を使って十分な量はなく、それを次に若い琴奈で補う。
そう、俺を助けるつもりなら、なんの疑問もない。だが彼女が俺を助けるということ自体に疑問を持ってしまうのだ。つい先ほどまで殺しあっていた相手を助けたいと思うのだろうか。
彼女を見つめる。その小さな背はプルプル震え、銀髪の隙間から覗く耳は赤い。向こうで騒ぐ喰鬼奴隷の声がやけに遠くに感じた。
黙っていたのはほんの数秒だけ。莉乃は観念したように、こちらに背を向けたままこぼす。
「……別に、お兄ちゃんが言った通りにしただけだもん」
それだけ言って莉乃は向こうで騒いでる集団の方へと歩き出した。どことなくその足取りはいつもより早く、それを見て琴奈も祥吾も苦笑を浮かべる。しかし祥吾だけは莉乃の後を追い、笑いながら莉乃の頭に手を乗せクシャクシャと動かした。
「おいおい莉乃ちゃん、照れてんのか!?」
「て、照れてない!」
やれ素直になれだの、やれその手を退けてだの。そんなやりとりをかわしながら、彼らは歩いていく。その姿はまるでふつうの人と人のやりとりのようで。まさか片方は人外の化け物とは微塵も思えなかった。
「……おかしいだろ」
思えなくて、つい俺はそうこぼした。
「何がですか?」
「全部だよ。莉乃が俺を助けたことも――いや、それはいい。今回のは俺があいつの願いを蹴っただけだから、その癇癪だったのかもしれない。でもあいつがここにいるのはおかしいだろ。あいつは、俺たちは――鬼なんだぞ?」
責めるように琴奈へと詰め寄った。しかし彼女はキョトンと、とぼけるような顔をして、首をかしげる。
「そんなにおかしいですかね?」
「いや、おかしいだろ。普通の人なら、鬼を毛嫌いするはずだ。拒絶するはずだ。追い出そうとするはずなんだよ」
「普通の人なら、ですよ」
今度は琴奈が俺に詰め寄った。グイと距離が縮まり、ニヤニヤと楽しそうな笑みが視界いっぱいに広がって。彼女は俺を指差した。
「普通の人ならそうかもしれないですね。でも私は、私たちは喰鬼奴隷ですよ? 私たちは元犯罪者です。私たちは異常者です。ならそんなおかしなことも、ありえるかもしれないでしょ? いえ、実際ありえるんですよ。事実、そうなってるんですから」
そう言って琴奈は他のメンバーの方へと視線を向けた。俺も同じく、そちらを見る。
そこにあったのは、なんてことない、普通の日常。喰鬼奴隷が酒を飲み、肉を食い、そして騒ぐ。いつもと違うのはそこに莉乃が混じっていることだけ。
「にしても莉乃ちゃん、変わったなぁ。前はあんなおどおどしてたのに」
「あれは演技だよ? こっちがほんと。みんな簡単に信じちゃうんだもん」
「あ?ガキのくせに生意気なんだよ」
「ガ、ガキ!? これでもわたし、みんなよりもずっと生きてるんだけど?」
「なんだ、ババアかよ」
「ババアっていうなー!!」
祥吾と莉乃がそんなやりとりをしては、あたりから笑いが湧き上がる。楽しそうに祥吾は笑い、莉乃は悔しそうに睨みつけながらも、やはりどこか楽しそうで。一緒にいた七〇年いろいろな莉乃を見たが、あんな莉乃は初めてだった。
この目で見てもこれが現実と信じられなかった。鬼と人が共存するなんて、鬼が受け入れられるなんて、ありえないから。だが信じるしかないのだろう。事実、目の前ではそれが成し遂げられているのだから。
「ここは……暖かいな」
熱くなった目頭に力を込めながら、ついそんなことをこぼした。
本当に泣きそうになる。ずっと家族から裏切られたことを根に持って、人との間に壁を作って。信用することを恐れて逃げ続けたあの寒い時期。目の前の光景は今までと変わらないはずなのに、ここまで感じ方が違ってくるものなのか。
その時、琴奈がクスクスと笑みをこぼした。
「まったくバカですね、明人さんは。明人さんの言っていた通り、変に拗らせたりしないで素直になってれば、明人さんの言う暖かい場所にすぐ行けたのに」
「ああ……まったくだ」
「…………ねえ、明人さん」
琴奈は隣から俺の正面へと回り込んだ。そして両手を後ろで組んで、楽しそうに笑いながら俺に尋ねてくる。
「どうですか? 明人さんは家族をずっと否定し続けてきました。そのことについて、どう思いますか? ――どう感じますか?」
なんだかその言い方に違和感を覚えて、つい首を傾げそうになる。探るように琴奈を見ても、その笑顔の奥にある感情は読み取れない。やけに上機嫌で、何かを待つようにただ笑う。
ああ、そういえば。
ふと、以前琴奈が言っていたことを思い出した。
――私、決めました。いつか『失敗した』って言わせてみせますから。
――私たちと家族って否定し続けたことを『失敗した』って、言わせてみせますから!
それは鬼域に向かう途中に彼女が俺に向かって宣言したこと。
今更あのことについて言っているのだろうか。
まさかと思い彼女を見るが、そのニヤケ面を見る限り、そのようだった。
「ハッ」
吐き出すような笑みが漏れる。
これはいわゆる仕返しのようなものだろうか。だがまったく嫌ではなかった。
むしろ今までで一番穏やかだ。それこそつい笑みを浮かべてしまうくらいには。
「ああ、そうだな」
いつからか口癖のようになっていたその言葉。自分を戒める呪いのような言葉。思い返してみれば、それを笑顔で言うのは初めてかもしれない。
失敗は避けるべきことだ。
失敗すれば大切なものを失う。失敗すれば大切な人が傷つく。大切な人を失う。
いつだって俺はそれを恐れて、逃げて、そして悔やんできた。
いつだって失敗すれば自分を呪い殺すかのように忌々しく、そう呟いていた。
だが今は違う。
今までにないくらいに穏やかに、清々しく。
作り物でも強がりでもなく。
俺自身の自然な笑みを携えて。
そしていつものように、そう言った。
「ああ――失敗した」
これにて『喰鬼奴隷の鬼』完結です。
居場所を求める鬼のお話はいかがだったでしょうか
このような暗い話に付き合っていただき、ありがとうございました。
感想評価批評アドバイスレビューをいただければ幸いです。
番外編として、『幼鬼の大変異』も投稿してあります
わたしがなんだかんだ一番思い入れのある、白谷莉乃のお話です
よければそちらもご一読ください。
また私が書いたイラストもいくつかまとめて1話として投稿したいと思います
では最後になりますが、最後まで付き合っていただき、ありがとうございました。
また新作を投稿するときは読んでいただければ幸いです




