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20話「鬼と幼鬼の決着」

「もう本当に無茶苦茶だな……」


 まさに治癒というより再生という方が正しいように思う。俺のような普通の鬼のように千切れた腕をくっつけるのではなく、新たに生やす。しかもそれが植物の成長をハイスピードで見ているようなくらい早いのだから、もうやってられない。


 それに、まずいのはそれだけではなかった。

 幼鬼といえど腕一本再生するにはある程度の血を使う。その量は白羅ほどではないにしろ、少なくはないはずだ。だが莉乃はそれを少しもためらわずに行った。

 つまり莉乃は全く血に飢えていないということだ。動けば動くほど、人間のそれを超えた動きをするほど黒化がジワジワ進んでいる俺とは違って。


 莉乃がどれだけ戦闘したかはわからないが、少なくとも琴奈とは戦っていた。それでも体力、血、共に消耗している様子はない。治癒能力、身体能力、五感など、鬼に関する能力の全てがトップクラス。それに加えてまだ角を出していない――つまり、全力ではない。

 それに比べ俺は。鬼としてほぼ全ての面で莉乃に劣り、黒化が始まっているほどに血に飢えている。もう角が生えるくらいに全力で。


「ハッ。これはマズイな」


 吐き出すように、自嘲気味に笑った。ここまで差があるものか。経験なら優っている自信があるが、それを帳消しにしてさらに俺を引き離すほどに鬼としての性能(スペック)が違いすぎる。


 まず、普通にやって勝てるはずがない。

 さて、どうするか。

 思考を巡らせ、一つの結論にたどり着くのに、そう時間はかからなかった。


 フゥと深く息を吐き、改めて莉乃を見据える。手を確かめるように開けたり閉じたりした後、莉乃もこちらに視線を向ける。


「あれ、もう終わり? なら、今度はこっちから行くよ」


 莉乃が強く地面を蹴った。地は抉れ、草木や土、瓦礫が宙に舞う。

 莉乃が俺の元にたどり着くまで、五秒とかからなかった。そして踏み込みその小さな手を手刀のようにして、突き出す。


 白羅で強化され、まさに刀のようになったそれを俺は――躱すことなく受け止めた。


「グッ!」


 だが何もしなかったわけじゃない。俺は少し体をずらし、莉乃の手が俺の脇腹あたりを切り裂いた。

 それとほぼ同時。痛みに顔をしかめ、そこから血を流しながらも俺は同じようにして攻撃を繰り出す。


 言ってみればただの捨て身。肉を立たせて骨を断つ。しかしそれは自分自身を顧みなければ有効で。莉乃は攻撃し切った体勢のまま動けない。

 莉乃も表情を歪めた。それで即死ということはないが、きっと痛みを伴うはずだ。頭を破壊すれば数秒は動きを封じれる。心臓を突き刺せば血を多く流させることができる。手足を再び断ち切れば動きを鈍らせることができる。


 だがしかし俺が選んだ場所は、太ももだった。


「え?」


 思わずと言った調子で莉乃も声を漏らした。体勢が整っていない莉乃はそのまま俺の攻撃を受け、すこし血を流す。

 そして俺はすかさず二撃目を繰り出そうとして、流石に莉乃も反応した。俺の真横から尾が迫り、俺はバックステップをして莉乃から距離を取る。


「……何? 今の」


 莉乃は怪しげにこちらを見つつ、そう言った。


「何って、普通の攻撃だが。見事に当てれただろ?」

「嘘。たしかにびっくりしたし、実際すこし痛かったけど、もっといい所狙えたでしょ? こんなところ、血もそんなに出ないし意味ないよ」

「意味があるかないかはわからないだろ」

「あったとしても、そこまで無理やりする意味ないんじゃない? 結構怪我、ひどいでしょ」


 莉乃は俺の脇腹――彼女自身が切り裂いた部位を見て、そう言う。

 あふれ出るような血液。ジュクジュクと治癒はしているが、それが中途半端なだけあって一層その怪我はひどいものに見える。

 血を流すというのは鬼にとってかなり避けるべきことだ。白羅や身体能力、治癒能力、五感強化に使うならともかく、そのまま垂れ流すなんてもってのほか。

 事実傷口から血が流れ、足を伝い、足元の草を紅く染め地面に染み込むたびに、俺の黒化は進行している。

 だが俺は、あたかもそれがどうでもいいかのように笑みを浮かべてみせた。


「怪我してる、ね。なら、こうすれば問題ないだろ?」


 俺は傷口を白羅で覆った。つまりは、かさぶたのようなもの。どうせ俺程度の治癒能力だとすぐに治ったりはしないんだ。ならとりあえずこうしたほうがいい。


「……お兄ちゃん、何するつもり?」


 しかし莉乃はまだ訝しげに俺を見つめる。

 まあ、わからなくもない。白羅は出血より損害が少ないといえど、使う血の量が多いことに違いはないのだ。ならわざわざ自分から攻撃を受けにいって効果もなさそうな攻撃をする意味がない。それならまださっき通り普通に戦い、どこかに勝機を見出したほうがいい。今の俺はまさに自暴自棄になっているようで。



 ――なんて、莉乃は考えているんだろう。



 だが俺は断言する。これに意味はある。確かにそれは側から見れば無意味で、やっている俺自身も本当に意味があるのかと首を傾げそうになるが。だが、意味はある。


 これは俺にとっても賭けだ。時間との勝負。時間が経ち過ぎれば俺は死に、最悪運が悪くても俺は死ぬ。


 だが普通の鬼の俺が幼鬼の莉乃に勝つには、これくらいしないといけないのだ。


 だから気を締めろよ呉嶋明人。

 これからは時間との勝負だ。



 俺は走り出した。三本の尾を構えて、莉乃に迫る。莉乃は三本の尾で俺を攻撃し、俺はそれと同じく三本の尾で対処する。そしてお互いに尾が使えなくなったところで俺が狙うのは――


「ぐっ……」


 先ほどとは逆の太もも(・・・・・・・・・・)に攻撃を受けた莉乃は小さく呻き声を漏らす。



 そこから俺は連撃。狙いに一貫性はなく、莉乃の体中に小さな傷が走ったかと思えば治り、その繰り返しだった。対して俺は莉乃の攻撃を全て受けた。流石に致命傷は避けるが、そうでないものは避けようともせず、できた傷を白羅で隠す。そのたびに黒化が広がり、焦燥感が背後から追いかけてくる。


 それはまさにガード無しの殴り合いだった。俺は言わずもがな防御せず、莉乃も俺がおかしな部分ばかり狙うとわかったのか特に防御することはなかった。

 だがその結果は正反対で。莉乃はその部分の服が破ける程度。対して俺はどんどん体を白羅が覆い、黒化も広がる。そしてついには漆黒の変色部位は身体中になり、残すはほぼ顔だけ。黒化した部分は冷たく、氷水に浸っているような感覚だった。


 そこまでくるともともと感じていた焦りも死の予感も強くなる。すぐ背後で鳴るしの足音から逃げるように、俺は必死に莉乃を攻撃した。

 一撃一撃ごとに攻撃する場所を変え。それこそ何かを探るかのように。



 ――どこだ!


 そう、俺は探していた。


 ――どこだ、どこだ、どこだ、どこだ、どこだっっ!!


 手を伸ばせば届きそうな位置に迫っているそれから逃れようと必死に。その焦燥感が俺の心を荒ぶらせる。



 ――『核』はどこだ!!!



 核。

 それが俺の探しているものだった。


 俺と莉乃の圧倒的な戦闘力差。それを考慮して考え付いたのが、莉乃の核の破壊だった。

 核というのはすなわち文字通り鬼の()だ。血を使わせないと死なない鬼も、それを全て破壊すれば即死する。全て壊せば、不利なこの状況からの奇跡の逆転劇(ジャイアントキリング)を成し遂げることができる。


 だがどんな時も逆転とは難しいもので、今回の核の破壊も簡単ではなかった。

核がどこにあるかはその鬼自身しか知らないのだ。だから探す必要があるが、これが難しい。

 だから俺はさっきから探るように身体中様々な場所を攻撃していた。


 鬼は不死だからか、やけに死に敏感だ。しかも相手は莉乃。そこまで感情を隠すのが上手いとは言えない。だからそこを攻撃されれば分かりやすい反応をするはずなんだが――



 ――どこだ!


 先程から何度も何度も考えていたことを、改めて心中で叫ぶ。

 つい顔をしかめ、口の中でギリと音がなる 。手に、足に、体に入る力がどんどん強くなっていった。


 これは時間との勝負なのだ。俺が見つけ壊すのが先か、俺が黒化するのが先か。だがこちらは見つかっておらず、尚且つ俺はあと黒化していないのが顔くらいしかない。このままだと敗色濃厚だった。


 だが、その時だった。


「――――ッッッ!!??」


 突然莉乃が大きく顔を歪ませた。

 そして横に思い切り飛ぶようにして、その攻撃を避ける。


 つい今までは致命傷だけを最小限で避けていた莉乃が。他は自己治癒に頼って受けていた莉乃が。


 その莉乃が、大げさとも言える動き(・・・・・・・・・・)で俺の攻撃を躱した。


 その時俺が攻撃した場所。それは腹のあたり。へそから上に拳一つ、そして右に拳二つ分の場所だった。

 莉乃はそこへの攻撃に、やけに大げさに反応した。

 ということはつまり、そういうこと。


 そこに『核』があるということ。


 ――見つけた!!!


 俺はつい心の中で大きく叫んだ。


 ついに見つけた。そう思った瞬間、体が軽くなった気がした。ずっと俺の後ろについていた死の気配が薄くなったように感じたのだ。


 これだ。これを壊せば倒せる。


 それはまさに希望というのにふさわしく。俺はつい笑みを浮かべそうになった。

 実際には浮かべない。だが精神を縛り付けていたものがなくなり、そう感じてしまうほど俺に余裕ができていた。

 だからだろうか。俺はつい、一瞬、ほんの一瞬だけ集中を切らしてしまう。


 そして、その一瞬が命取りだった。


 その一瞬で莉乃は体勢を立てなおす。そして三本の尾を俺に向かって突き出した。


「しまっ――」


 三本の尾の先、槍の穂のような刃が俺に迫る。それは俺にとって不意なことで反応が遅れる。避けようと横に動く。 

 がしかし、三本の尾が俺の右腕を貫いた。


 それはいつの再現なのか。俺の右腕はちぎれ、俺自身も後ろへと吹き飛ぶ。そのまま数メートル飛び、地面にたたきつけられた。


 ――まずいまずいまずいまずい!!!!


 起き上がってまず感じたのは、顔を侵食する冷たい感触。首あたりまでだったものが右頬を覆わんとしていた。黒化()が近づいてきていた。


 まずは出血を何とかしないと……


 今血を垂れ流すのだけはまずい。それくらいなら白羅を使ったほうがマシだ。

 俺は白羅で傷口を覆い隠した。さっきのように切断された腕がそこに落ちているなんてことはない。すこし周りを見渡せば、それは莉乃の足元にあった。

 それを莉乃は拾い上げ、俺の届かないところへ放り投げる。どうやら前回のようにはさせてくれないらしい。俺の右腕が落ちるとそこに鬼たちが群がった。それはまるで餌を与えられた餓えた獣のようで――実際その通りなのだが――すぐにそれは見えなくなった。あれを取りに行くどころか、もはや原形すらとどめていないだろう。


「ああくそ……」


 座り込み、右腕を抑えながら唸るようにつぶやいた。


 今のは完全に俺のミスだ。なぜあそこで気を抜いた。相手は幼鬼だから一瞬が命取りだというのに。


 これこそまさに――


「――失敗、だった?」


 正面から透き通るような声が響いた。

 俺は何も言わず彼女を見る。いや、何も言えなかった。実際、それは俺も考えていたことだから。

 莉乃は見下すように俺を見つめ、その顔には意外にも何の感情も映っていない。真顔のまま、ただただ俺を見つめていた。


「やっぱりお兄ちゃんはここに来るべきじゃなかったんだよ。ここに来なかったら、こんな目に遭わずに済んだのに」


 どうやら俺が思っていたものと少し違っていたらしい。だがやはり俺は何も言えなかった。俺だってこれが間違いと知っているから。俺が一番理解しているから。


「喰鬼奴隷の人たちに正体知られて。必要もない戦いをして。ケガをして。黒化(死ぬ)直前まで追い込まれて。でも、さ……ねえ、お兄ちゃん」


 すると莉乃はそこで一度言葉を切った。

 そして小さくどこか不安げな笑みを受けべ。こちらに向け手を差し伸べ、言う。




「――鬼側(こっち)に戻ってこない? また、昔みたいに一緒にいよう?」




 それは数日前に莉乃の家で彼女が言ったことと全く同じだった。

 同じような声で、同じような表情で、彼女は提案する。


「今お兄ちゃんのしてることは失敗だよ。お兄ちゃんもわかってるでしょ? 失敗は避けるべき。お兄ちゃん、いつもいってたじゃん。ならこんなことやめて、さ。一緒に行こう?」



 わかっている。自分がやっていることは間違っていて、失敗だと。


「ハッ」


 だが俺は、吐き捨てるように笑った。それを見て、莉乃の眉がピクリと動く。


 間違っていない。確かに今この状況は失敗だ。

 失敗すれば、自分が傷つく。失敗すれば、何かを失う。失敗すれば――大切なものを、大切な人たちを失う。

 だから失敗は避けるべき。それは間違っていないし、俺もそうありたい。



 でも。


 たとえそうだとしても。



「もしも。もしも、失敗することで大切なものを、大切な人を守れるのなら――」


 莉乃に、そして鬼どもに不敵にに笑いかけた。



「――それはそれで、悪くない」



「――――ッッッ!!!」


 莉乃は目を大きく見開いた。こちらに差し出した手を強く握りしめ。体をプルプルと細かく震えさせ。そして今度こそ表情に敵意をにじませた。


「もういいっ!!!!」


 莉乃は吠えるように、大きく叫んだ。


「もういいから! もう知らないから! どうなっても知らないんだから!!」


 そしてついに、莉乃から角が生えた。側頭部から悪魔のような、少しねじれた太く強そうな角。それに加え、左目も変色し、黒白が入れ替わる。

 それはつまり莉乃が本気を出したということ。ツウと背筋に汗が伝った。ついに来たと、体が震えそうになる。また一歩死に近づき。もはや顔の左半分以外全身に感じる冷たい感触が、その存在感を強調し始めた。


 だが莉乃が本気を出そうが否だろうが、俺のやることは変わらない。ただ彼女のへそから上に拳一つ、そして右に拳二つ。そこにある莉乃の核を壊せばいいだけだ。

 俺は右手から白羅を伸ばした。それは腕のように形作り、そしてさらに伸び剣のように形を変化させる。

 それは俺がいつも使っていた刀のようで、やけにはっきり感じた。

 そして俺は夜の冷たい空気を顔半分に感じ柄その切っ先を莉乃に向け、そして構える。


 しかし莉乃の変化は終わりではなかった。


「お兄ちゃんもう許さないから。全力でぼこぼこにしてやるんだから!」


 そう叫んだ時、炎が灯った。


「は……?」


 ついそう零してしまったのを誰が攻められようか。

 きっと誰だって目の前の光景を疑ってしまうだろう。


 まさか、まさか鬼が燃えるだなんて。


「……聞いてないな。お前、そんなことまでできたのかよ……」

「できるよ。鬼だもん。幼鬼だもん。だからお兄ちゃんとは違うんだもん」


 そう言って俺を指さすその白羅の手は、そして二本の角の先は轟轟と燃えていた。決して厳格ではない。実際に彼女の肌は炎で橙色に照らされ、炎に近い部分は火傷を負っては治ってを繰り返していた。


 まさか予想外だった。俺にはあんなことできない。ならそれは幼鬼の自我持ちにだけできることなのだろう。

 その理論はまったくわからない。今大事なのは、彼女がさらに強くなったことだけだ。


「……いや、何も変わってない」


 そうつぶやき、もう一度構えなおす。

 そうだ、何も変わっていないのだ、俺のなすべきことは。

 莉乃の核を破壊し、喰鬼奴隷を、琴奈を守る。なんて簡単な、ただそれだけ。


 俺は自分の二本の足に力を込めた。どんどん足が熱くなっていくような感覚。少しだが、黒化も進んだ。

 もう俺にできることはない。きっとこれが最後の一撃だ。不意打ちをするほどの余裕はないし、作戦を立て実行するほどに時間はない。俺にできるのはただ全力で突っ込んで、殺すだけ。

 なんて馬鹿なのだろう。だが俺にはそれしかないのだ。そうするしかないのだ。たとえ勝機が少なくても。たとえ敗色濃厚だとしても。


 だから――


「――行くぞ莉乃!!」

「――行くよお兄ちゃん!!」



 俺と莉乃はそう叫び、全力で地を蹴った。同時に俺と彼女のいた地面が大きな音とともに陥没し。そして互いの姿が消えた。

 しかし鬼の眼はしっかりと、両手を背後に向けこちらに突っ込む莉乃の姿を捉えていた。


 ――行ける!


 俺はそう予想した。

 タイミングは完璧。莉乃も尾を使う様子はなく、おそらく白羅の腕を突き出してくる。なら刀のような部分だけ俺のほうがリーチがある。なら先に攻撃が届くのは俺だ。


 だが莉乃がそれで終わるわけがなかった。


 突然、莉乃の両手の炎が爆発。彼女はその勢いを使い加速した。


「――っ」


 その時俺は悟ってしまった。無駄に優れた鬼の感覚は悟らせてしまうほどの思考スピードを生み出させてしまう。


 ああ、失敗した。


 俺は負けた。



 俺も莉乃もかなりのスピードで飛び出した。もはや反応できるものが数少ないくらいに。

 その反応できないものの中に、俺と莉乃も含まれているのだ。いや、少し違う。反応できても、それに対して動けないのだ。

 反応できないからこそ、飛び出すときにすべてを予想する。予想して、計算する。

 あいつはこのタイミング、これくらいのスピードで飛び出す。俺がこのあたりにいる頃相手はあそこにいるから、俺が攻撃しだすのはこれくらい――そういった具合に。


 だが今莉乃が加速したことでその計算が狂った。反応はできる。事実ここまで試行することができてた。だがそれに対して行動を起こせるかといえば、答えはノーだった。


 だから俺は負けた。


 その予想は思った以上にすんなりと飲み込めた。


 だがまだ終わりではなかった。


「――っ!?」


 驚愕したのは莉乃のほうだった。――いや、俺もだ。




 丁度莉乃の目の前。そこに、いるはずのない、あるはずのないもの。

それは――ナイフ。否、ナイフを持った琴奈だった。




 まさに通せんぼをするかの如く、莉乃の軌道上にナイフを置く(・・)

 それは莉乃にとっても不意なことで。彼女は一瞬足を止めてしまう。


 なぜ彼女がここにいるのか。気配を消していつの間にか隣にいる、というのは彼女とともに過ごしていれば当たり前のことだったりする。だが俺を鬼と知っている彼女がなぜ俺を助けるのか。それだけがわからなかった。


 だが今はそんな余裕もない。俺はそのまま琴奈の隣を通り過ぎ――


 俺の白羅は、莉乃を貫いた。


 その瞬間感じた抜くを断つには少し硬い、骨を砕くにしては硬度がない、そんな感触。それはまさしく核を壊した感覚だった。


「がっ……あ……核、が……」


 トンと俺の体にもたれかかるような感触。莉乃のその言葉はもはや言葉といえるかわからないほどに弱弱しく、一層濃い血の匂いが鼻を衝く。


「ごほっ……」


 俺は一つ、大きくせき込んだ。すると俺の口から液体が零れ落ちる。

 確認する必要もなかった。甘く、鉄臭い、大好きで大嫌いな。他でもない、俺の血液だった。

 力の入らない左手を腹のあたりにあてる。すると何かに触れた。

 莉乃の白羅だった。それは腹を覆っていた俺の白羅を粉砕し、俺の腹を貫いている。


 なんてことのない。ただの相打ちだ。


 体の力が抜けていく。俺もよろけ、膝をつき、莉乃にもたれかかった。

 俺も莉乃も何も言わない。ただ互いにもたれかかるだけ。

 顔の冷たい感覚が少しずつ広がっていった。



 ああ、もう俺、死ぬのか。



 呆然と地面を見つめながら、そんなことが頭に浮かぶ。


「…………ねえ、お兄ちゃん」


 丁度莉乃の顔がある右側から、そんな声が鼓膜を揺らした。

耳を撫でるような、優しく穏やかな声。先ほどのものとは全く違う雰囲気を孕んでいて。つい俺は目を見開きそうになったが、そんな気力もなかった。


「…………なんだ」


 何とか漏らした声は何度も弱々しいものだった。風が吹けば消えてしまいそうな、蚊の鳴き声よりも小さな。莉乃でなければ聞き逃してしまいそうな、そんな声。莉乃が細かく震えているのが、冷たい感覚越しに伝わってくる。


「どうして、こうなっちゃったのかなぁ……お兄ちゃん……」


 莉乃は弱々しく、そう言った。何かを抑えるような、震えた声。突っかかるように所々途切れていた。


「わたし、どうすれば、よかったのかなぁ……」

「莉乃……」


 もはや声の震えを隠しきれていなかった。

 莉乃は泣いていた。


「わたしはただ、ただ……」


 そこから先に言葉は続かない。ただただ嗚咽が俺の鼓膜を揺らしていた。

 だがそれで充分。俺には莉乃が何を言っているのか理解できてしまう。

 

 家族(にんげん)に裏切られ、莉乃(おに)に裏切られた俺。

 家族(にんげん)に裏切られ、(おに)に裏切られた莉乃。


 どちらも同じで、どちらも居場所を求めていた。


 居場所を求めて、こんなことになってしまっていた。


「ねえ、どうすれば、よかったのかなぁ……」


 もう一度、彼女は俺に問いかける。

 俺はすぐに答えられずにいた。

 だって俺も莉乃と同じだから。彼女と同じように、その問いに確実な解をもっているわけじゃないから。


「……そうだな」


 だがもし。もし一つ言えることがあるとすれば。



「素直になればよかった。自分のやりたいことを、気持ちを。変に拗らせたりしないで――そのまま伝えればよかったんだ」


 それは自分に言い聞かせたものでもあった。

 結局はそこなのだ。

 もっと自分に敵意はないと伝えれば、家族に裏切られなかったかもしれない。莉乃と仲たがいしなかったかもしれない。――喰鬼奴隷が、莉乃が俺を受け入れてくれたかもしれない。


 これをないに等しい希望と思うだろうか。きっとそれは正しい。だが少なくとも何かは変わっていたはずなのだ。


 ハハと、掠れた笑い声が右耳をくすぐる。そして莉乃は言った。


「そっかぁ……それは、できなかったなぁ」


 この間も俺の黒化はどんどん進んでいた。唯一残っていた顔が次々と黒く変色し。あらゆる感覚が消え、ただ感じるのは氷のような冷たさだけ。

 体の感覚が消え、光が薄れていく。


「じゃあ……次はがんばるね、お兄ちゃん……」


 そう言う莉乃の声も、やけに遠くに聞こえた。



 そして俺は――意識はそこで途切れた。

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